夏も近くなったある日、朝から雨が降っていた。元々出かける予定の無かった彼は、自分の部屋にこもり、珍しく本を読んでいた。ふと部屋の窓から外に目を遣ると、小降りになった雨の中に、向かいの家の庭の木が目に入った。青々と茂る葉から落ちる雨の雫は冷たい感じが全く無く、来るべき季節のための時を刻んでいるようだった。
ここ暫くの彼は、携帯電話に登録されている彼女のアドレスを見ることが多くなった。ただ見ているだけで、電話をするわけでもなく、メールを送るわけでもなかった。ただ、それを見つめているだけだった。
無意識のうちに彼は、また彼女のことに思いを馳せていた。街で見かけた時のこと、アルバイト中の笑顔、学生時代の真剣な面持ち。どれも自分に向けられたものではなかった。でも、もし、自分に向けられるものだったなら...
確かめたかった。彼女に会って、確かめたいと、この時初めて、彼はそう思った。
彼は、おもむろに机の上にある携帯電話を取り上げ、アドレス帳を開いた。見慣れたはずの彼女のアドレスは、この時は不思議と新鮮に見えた。少しの間、それをじっと眺めて、思い立ったように彼女のアドレスを選択した。ボタンを押す指が少し震えていたのが、妙に気恥ずかしく、誰もいない自分の部屋を見回すのに顔を上げた。彼の心臓の鼓動は、ほんの少しだけ早く打ち始めていた。
メールの表題を選択して書き始めようとしたが、何も書かずに入力画面を一旦閉じ、先に本文を一気に書き上げた。そして、あらためて読み返してみると、当たり障りの無い言葉が並んでいるだけで、それを見て彼は溜め息を洩らした。
そうじゃないんだと呟きながら、今書いたものを全て削除し、空白の画面を見つめていた。早く会いたい、会って話がしたい、この思いを伝えたい。たったこれだけのことが言葉にならない。心の中にいっぱいに広がって飽和状態になり、思考が追いついていかない。
着飾った言葉を並べても、それは自分のものではないことは分かっていた。これまでに何人もの人が思いを伝えるために使い古してきた言葉でしかないのだから。彼は、窓の外の雨の景色に目を遣り、自分の言葉を探そうとした。雨は、まだ止んではいなかった。不規則なリズムを刻みながら、雨だれが軒から落ちていた。
どれくらいの時間が過ぎただろう。静かになった心に、浮かんで来たものがあった。言葉を選んでいては、ダメなんだと。そうやって考えることで、また本当に伝えたいことが埋もれてしまうように思えた。そんなことを考えていると、急に心が澄んで、アルバイトの最終日の別れ際に見せた彼女の微笑んでいる顔が思い浮かんだ。
外は雲一つ無いというわけではなく、時折日差しが遮られ、すっと蔭っていく。その時は、爽やかな風が通り抜けているように見えた。彼は、この十数分の間に何回か思い出せないくらい見た腕時計に目を落とした。
- 後5分。
彼は、少し大げさに溜め息をつき、足を組み直して座った。入り口から見える風景は、また目が痛くなるような強い日差しに戻っていた。いつの間にか、店内に流れている曲はサックスに変わっていた。流れるようなトーンが、少々緊張に疲れた彼の気持ちを解してくれるようだった。
カランとドアのカウベルが鳴った。