さよなら命ーくつのひもが結べないー

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 13、数学の授業

 夏休みが終わり2学期に入った。
すぐに行われた実力テストでは健一は130番だった。
もう少し頑張れば阪大に行けると健一は自信を持った。
健一は大阪大学工学部建築学科に入ろうと決心していた。
そんな健一の決心と自信はあっという間に崩れてしまうのだった。
それは数学の授業がきっかけだった。

 その頃は大学の入試問題を解いていた。
その日は健一の一番苦手な行列だった。

「次428番 藤やってみ。」と谷山先生は言った。
健一は前に出て黒板に解答を書いた。それはとても基本的な問題だった。

「よし、じゃ点(a,b)のまわりを回転する時の変換の式はどうなる?」
と谷山先生がきいた。
健一はうろたえた。わからないのである。
すこし時間をおいて健一は
「わかりません。」と答えた。
すると谷山先生がついに言ったのである。

「お前こんなのが分からんのか。お前何をやってきたんや。お前が数学あかんようなら
 何が残るんや。そんなもの阪大なんかに行けるか。」

どうしよう自分が馬鹿な事をみんなに知られてしまう。
もう健一の思考回路は切断されてしまった。

「点(a,b)を原点にもっていく変換をしたらええやないか。

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 おい、藤 起きてんのか。」

健一は谷山先生の言葉が耳に入っていたが、もう何を言ってるのか分からなかった。
思考回路の切断は聴覚までおかしていた。

「もういい、お前なんか知らん。次。」

健一は身を崩すようにして席に着いた。


 谷山先生の最後の言葉が耳にこだました。

「お前なんか知らん。お前なんか・・・」

 健一は涙が出そうになった。
谷山先生に見放されてしまった。
そして自分の馬鹿さがクラスのみんなに知れてしまった。
健一はもう何も聞こえてはいなかった。気がつくと、
「おい藤、分かったか。」と谷山先生の声が聞こえた。
「はい。」健一はそう答えるしかなかった。

 授業が終わるといつものようにみんながため息をついていた。
健一はみんなに自分を見られたくなかった。
けれども2年の時同じクラスだった北上が声をかけてきた。

「藤ケン、どうしたんや。あんなことわからんかったのか?」

 健一は答えられなかった。しかしその口調が君なら分かっても当然だと言っている
ようでうれしかった。

 

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「行列を使った変換は最近むずかしくなってきたからな、あれくらいすぐ分からんかっ たら困るぞ。」
「そうやな、もうちょっとやらなあかんな。」
 健一は平静を装ってそう言った。

 その日健一は家に帰っても勉強などできなかった。
今までいつ自分が谷山先生に言われるだろうとびくびくしていたが、今日その日が
来たのだった。
「お前何か知らん。」健一はその言葉をなんども思い出していた。
今まで自分と同じような事を言われた生徒は何人もいた。
しかしその口調によって谷山先生がその生徒に活を入れてやろうというのが分かるので
あったが、今日の健一に対しての言葉にはそういう物が感じられなかった。
それは自分の思い過ごしなのだろうか。いや違うあの口調は本当に心から見放した言い方だと健一は思った。
健一はだんだんと気が滅入ってきた。
ああどうしよう。谷山先生に見放された。
健一はすっかり自信を無くしてしまった。
そしてクラスのみんなに自分がこの程度の人間だと
知られたこともつらかった。

 それ以来健一は数学の授業が恐くて仕方なかった。
授業が始まるチャイムが鳴り響くと、健一の心臓の鼓動は大きくなり、血が止まっては
流れ、流れては止まった。
谷山先生がいつものように大股で歩いてくる足音が聞こえてくる。
健一は谷山先生の顔を見ることが出来なかった。

 そして授業が始まった。
「今日はこの列からいこか。おい福島お前や。」
健一のあたる順番に近づくにつれて、健一の血の巡りは激しく平衡を失い、今にも
心臓が止まりそうになる。

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「次」健一の番になり健一は立った。
健一の目はもうろうとし、足がふるえた。
健一はそんな自分の心の動揺を抑え、谷山先生の質問をしっかり聞こうとしたが、
自分が死刑台に立たされているようで、谷山先生の声は聞こえるのだが、頭が働かない。先生の質問をやっとのことで理解したときには
「もういいその次。」と言われてしまった。
健一は何も答えないでそのまま座った。

 健一は力が抜け、同時に心臓の鼓動が平衡を取り戻すのを感じた。
どうしてあんな事すぐに答えられないんだ。
健一は悔やんでも悔やんでもそんな自分を許すことができなかった。
お前は馬鹿なんだ。正真正銘の馬鹿なんだ。
それみろもう谷山先生はお前を完全に見放してしまったじゃないか。
「もう知らん、お前なんかどうにでもなれ。」
健一は谷山先生にそう言われているようで、心が複雑にゆれ動いていた。

 健一は数学の授業であたっても答えられないことが多くなった。
答えたとしても全然ピントはずれの答えをするようになった。
健一のクラスメイトたちもそんな健一の動揺が手に取るように分かるようになった。

「どうしてあの藤ケンがあんなにびくびくしているんだろう。
 藤ケンって思ったより利口じゃないのかもしれない。」

 クラスのみんながそう思ってきた。
 恵子にもそう思えてきた。

 

 

 

富士 健
作家:富士 健
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