さよなら命ーくつのひもが結べないー

3

久子はそれから十数年もの間、近所の町工場で働いて、女の手ひとつで
子供二人をこれまで育ててきたのである。

 久子は毎朝8時に家を出て、夕方6時に家に帰る毎日を過ごしてきた。
久子は一度も子供たちにつらいなどと愚痴をこぼした事はなかったが、
四十を過ぎるころから神経痛を患うようになり、工場を休むことが多くなった。
そしていつの日からか朝食を作らなくなり、健一たちはトーストだけを食べて
学校へ行くようになっていた。


「バタバタ、バタバタ」と激しい雨が屋根を打つ音が聞こえる。
「今日は雨か」と思うと、いっそう健一は起きるのが嫌になるのだった。

「健一、英文」という久子の呼ぶ声がする。
健一はその声がするや否やベッドから飛び出し、詰め襟に着替え下へ降りると、
まだパジャマ姿の英文が寝ぼけ眼でトーストを食べていた。
「コーヒー」と健一が言うと、久子はもう湯をつぐだけになっているコーヒーカップに
ポットの湯を注ぎ、健一に渡す。

「健一もパン食べ。」
「いらん、欲しないんや。」
「最近、全然食べへんなあ。また、体悪いんと違うか?」
「そんなことあらへん、ただ欲しないんや。」
「だからどこか悪いんと違うかって言っているんや。」
「大丈夫やって!」

 健一はそう言いながら、また腎臓が悪くなったのではないかという不安を
感じていた。

 健一は大阪の有名公立高校北天門高校の3年である。

4

4日後に控えている2学期の学期末テストの勉強で、毎日夜中の3時過ぎまで
勉強している。
試験の前に限らず寝るのが夜中の2時、3時になるのは、この2,3年日常茶飯事の
ことであった。

 3年前、高校進学時を向かえた健一は、どうしても北天門高校に入ろうと、
中学3年の十月ごろから、それは驚くほど勉強した。
それまで塾に行かなかった健一が、自ら塾を見つけてきて、毎日のように夜の
十時ごろまでそこで勉強し、家に帰ってから、夜中の2時、3時まで、時には
一睡もしないで勉強をした。
成績もみるみる上がり、中学卒業時には1番を取っていた。
そして当然のごとく北天門高校に入ったが、まもなく健一は慢性腎炎だと
診断された。

「また腎臓が悪くなったんと違うか?
 あの時も全然食べへんかったもんな。」 


 健一が体の不調を感じたのは、高校に入学してまもなく、
朝1時間目の体育の授業で、最初の準備体操を始めた直後、はいた事が
きっかけだった。
そして、運動クラグ新入部員の健康診断で尿検査をした結果、多量のタンパクが
おりていて、病院へ行くと腎炎だということで、精密検査した結果慢性腎炎だと
診断されたのである。
医師から刺激物を食べること、特に塩辛いものを避けるように言われ、母の久子は
薬局から無塩しょう油を買ってきて味けのないものばかりを作っていた。

その年の夏
「腎炎にはスイカがいいんだって。」と久子は毎日のようにスイカを買ってきては
健一に食べさせた。

5

健一はしまいにスイカを見るのも嫌になったほどである。
もともと細身の体であった健一は、ますます細くなり、一目で病気ではないかと
分かるようになったので、医師と相談して食事の方はだんだんと元にもどしていった。
今はあれから2年が過ぎようとしている。

「大丈夫や、タンパクはもう降りていないんやから。」
「ほんとか?それならええんやけど。」
「じゃ、行って来るは。」
「いってらっしゃい。」

  タンパクは降りていた。
しかし、その通知書を健一は母の久子に見せてはいなかった。
健一は久子に心配かけたくなかった。
それよりも自分は腎炎なんかじゃないんだと健一は思いたかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

6

 2、ファイヤーストーム

 高一の秋、日が驚くほど短くなり、冷たい風が吹きはじめていた。
文化祭の2日目、ファイヤーストームを行うことになっていた。
中学とは違うその自由な雰囲気は、健一に高校生なのだという実感を与えていた。
夕方5時、まだ日が沈んでいなかったが、ビルの谷間からのぞいている西の空は
真っ赤に染まっている。
集合の合図があり生徒が校庭に集まり始めた。
すでに校庭の中央には枕木のような大きな木材が上手に重ねられ、
そばではジャージ姿の上級生と先生が4、5人、
小さなまきをまだ作っているようであった。

  集まった1年生は初めての事なので、どんなことをするのだろうという好奇心
からか、積み重ねられたたきぎの方を見たり、隣にいる者としきりになにか
話をしている。
健一は、そういう1年生の表情を観察するかのようにして見回していると、
前の方で並んでいる矢野恵子と視線があった。
健一はわざと避けるようにして、隣にいる力武に話しかけた。

 恵子はクラスの中では目立つ存在であった。
勝ち気な性格が一目で分かるような大きな目をしていて、小さな口と鼻が整い、
どこか知的な所を感じさせる女の子だった。
男子の間でも絶えず彼女のことが話題にのぼっていた。
健一は、今まで出会ったことのない彼女の魅力にいつのまにかひかれていく自分を
感じていた。
そして、自分が今まで出会った女の子は、ものをあまり言わないおとなしい子か、
人の気持ちなど無視して、がつがつと自分勝手な事を言う女の子のどちらかで
あったような気がしていた。

富士 健
作家:富士 健
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