さよなら命ーくつのひもが結べないー

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「ちゃんと結べてるやないか。」
「違うの、このひもがとけたら上手に結べないの。」

  健一は言葉が出なかった。
小学生なら分かるがこの年になっていう事じゃないと思った。

「やってごらん。」健一はそう言った。
森村は靴のひもをといた。
「どうするの?」
「こうして、こうして、こうするんや。」健一は教えた。
 よく結び目が十字になるという間違った結び方をするが、森村はそれだけでなく、
力の入れ具合が悪いことに気づいた。
だから、結び目がゆるく、少ししたらほどけてしまうのだと分かった。

「どうして今まで出来ないままなんだ?」
「小さいときから苦手で、ひものない靴ばかり履いていたからこの年になってもできな いの。」

  健一は言葉にならなかった。
親のしつけが悪いと言ってしまえばそれまでだが、それだけでなく
森村自身に何か問題があるような気がした。

そして、こんなことを言い出した。

「藤ケン、一つ聞いて、『これが真実だ』ってどうして言い切れるの?」
健一は森村の言っている意味がよく分からなかった。
「どういう事や」

「偉い人はよく、こうこうやからこれが正しいと言うけれど、私もその人の言ってる事は正しいと思うけれど、それと反対の事を言っている人の話を聞いても、その人も正し

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いと思うの。こんな時、真実ってどうやって決められるの?」

健一は森村の言っていることがなんとなく分かってきた。

「相反したことを聞いて、どちらも正しいと思うのは、どこかで自分の判断が
間違っているからやないか?」

「その判断が私にはできへんねん!」

森村は健一に怒鳴りつけるように言った。

なぜ、森村がこれほど大きな声で怒鳴るのか、健一には分からなかった。

少し、間が空いて再び森村が言いだした。

「ある人が、あの絵は良いと言うのに、私にはそれを見ても良いと思わないの。
それで、私がこの絵が良いと言うと、その人は良くないと言うの。
こんなふうに、今まで私が良いと言ったものを、ほとんど誰も良いと言ってくれないの。
どうしてなの、私はどこか人と違うの?」

「人間には主観というものがあるやろ。だから絵を見て感動するしないは、人によって
違うのは当たり前やないか。」

「でも、私はいつも、人と違うのよ。だから、悩んでるんじゃない!」

森村はまた、大きな声で怒鳴りつけた。
健一はようやく森村の悩みの本質に気づき始めた。

「人と違っていたってそんなこと気にすることない。」
「あなたは、とても常識家だからそんなこと言えるのよ。

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 あなたなら、いつも人が良いという言うものは良いと思うんでしょ?」
「そんな事はない。僕だって人と違ったものが良いと思うこともある。」
「そりゃ、あるかもしれないけど、少ないでしょ!」

森村はまた荒々しく言った。
健一は返事が出来ないでいた。

「私はいつもこんな事ばかり考えてるの。自分は人と違うんだって。」

健一も森村の言うとおりに思えてきた。
そして、そんな悩みを素直に自分の前で話している森村を痛々しく思えてきた。

「私、自分に自信がないの。そんな自分を人に見られたくないから、いつも私は
すまし顔をしてるの。私はいつも人の前で演技をするの。先生や親の前では、
おとなしい女の子、クラスの中ではつんとすました高慢な優等生、
私はたくさんの顔を持っているのよ。」

「今の君は、どんな顔をした女の子や?」

「どれでもない、本当の私。」

「今まで人前で本当の私を見せたことはなかった。
 藤ケンが初めてなのよ。
 そう、本当の自分をさらけだして、私の悩みを聞いてくれる人を探していたの。
 藤ケンなら悩みを打ち明けられると思ったのよ。」

「藤ケンが高校3年生の時に、政経の時間に言っていたことを聞いて確信したの。
 この人ならきっと私の悩みを聞いてくれるって。」

健一は、すぐに返す言葉が出なかった。

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ここで、「うん、いいよ。」と言えば、どれだけ森村は喜ぶだろう。
しかし、「それはできない。」と言えば、逆に森村はどれだけ落ち込むだろう。
健一は、何も答えられずにいた。

夕暮れがせまってきた。

「帰ろうか。」健一が言った。

健一は、どちらともはっきりと返答出来なかった。

二人はベンチを立ち、5,6段の石段を降りようとした。
そこを降りるのは危ないだろうと健一は森村の手をとった。
二人が初めて手を握った。
森村の体がガタッとして健一の方に倒れてきた。
健一は真正面から森村を受け止めた。
森村の胸が健一にあたった。
健一は服の上からは分かりにくかったその豊かさに驚いた。

「ごめんね、ありがとう。」と森村が言った。

その日はそのまま黙って歩き二人は別れた。

 

 

 

 

 

富士 健
作家:富士 健
さよなら命ーくつのひもが結べないー
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