死神サークルⅠ

 窓ガラス越しに店内を覗くと入って右奥のテーブルが空いていた。ホットを注文し、テーブルに着くと早速、彼女は説明を開始した。「ご病気、ケガで入院されますと、1日につき、1万円が支給されます。一回の入院につき、60日まで支給されます。入院中に手術なされた場合、20万円支給されます。回数は無制限です。先進医療の治療を受けられた場合、2000万円を限度に支給されます」学生は、うなずきながら、しばらく説明に聞き入っていたが、実のところ、医療保険はどうでもよかった。彼の真の加入目的は、死亡保険だった。学生は、説明を中断するように、質問した。「ところで、死亡した場合は、どうなるんですか?」彼女は、即座に返事した。「医療保険では、死亡保険金は支払われません。入院、手術、先進医療のみの保障です」学生は、気まずそうに返事した。「死亡保険金も欲しいんですが」彼女は即座に返事した。「はい、定期保険ですね。10年定期でよろしいですか?」学生は、無意識にうなずいた。

 

 彼女は、定期保険の資料を取り出し、彼の目の前に差し出した。「こちらの10年定期保険は、ご病気で死亡なされた場合、死亡保険金1000万円が支給されます。掛け金については、10年ごとに更新され、10年後の年齢で掛け金が算出されます。医療保険、定期保険は、ともに掛け金がお安くなっておりますが、掛け捨てなので解約なされた場合、解約金はございません」学生は、大きくうなずいた。「はい。死んだら、1000万、もらえるんですね。いいですね。死んだら、お得なんですね」彼女は怪訝な顔つきで返事した。「免責事項がございまして、ご契約後、3年以内に被保険者が自殺された場合や保険金受取人による被保険者殺害の場合、死亡保険金は支払われません」学生は、大きくうなずいた。「もっともですね。自殺は、いけませんね。でも、3年、ってなぜですかね」彼女は、顔をしかめ返事した。「その点は、わかりかねます」

 

 学生は、左手でコーヒーカップを手に取るとゆっくりと口に運んだ。自殺願望があって、保険に加入しようとしているのではないか、と彼女は勘繰った。「自殺はいけません。でも、最近、若い方の自殺による保険金の支払いが増加しています。早く、コロナ禍がなくなればいいですね」学生は、表情を変えることなく沈黙していた。保険金目当ての加入ではないかと直感した彼女は、加入動機を確認することにした。「まだ、学生さんということですから、今回は、医療保険に加入なされ、ご就職なされてから、定期保険にご加入されるのが、よろしいかと思います。いかがですか?」学生の視線は宙に浮いていた。3年以内の自殺はダメか。学生は、がっかりした表情で返事した。「そうですね。でも、人って、いつ死ぬかわかりませんよね。就職する前に死んだらどうしよう」

 

 今の返事で、ますます、不安になった。彼のよどんだ瞳から、もしかしたら、うつ病ではないかと察した。「確かに、保険は、万が一のために入るものです。でも、保険は、無病息災のお守りでもあるんです。そう悲観的に考えられずに、今回は、入院なされた場合を考えられてはいかがですか?」学生は、コーヒーをすすり、しばらく黙り込んだ。車にはねられ、頭から血を流し、白目をむいてる自分の姿が、一瞬、学生の脳裏に浮かんだ。学生は、心でつぶやいた。交通事故で亡くなれば、もっと保険金がもらえるはず。「交通事故で亡くなった場合、いくらもらえますか?」彼女の顔が、一瞬引きつった。間違いない、自殺願望がある。適当に返事して、この場を立ち去りたくなった。「交通事故の場合ですね。災害割増特約を1000万付加した場合、普通死亡保険金1000万に、災害割増特約の保険金1000万が加算されますので、合計2000万支払われます」

 

 学生は、小さな笑顔を作り、さらに質問した。「2000万も、交通事故で死ぬと、かなりお得ですね。例えばですが、がけから転落した場合は、どうですか?」眉間にしわを寄せた彼女は、即座に返事した。「不慮の事故であれば、支払われます」彼は、目を輝かせてた。「要は、3年以内の自殺事故でなければ、支払われるってことですよね」やはり、ちょっと、学生の精神状態は変だと感じたが、素直に返事した。「はい」学生は、彼女と目を合わせず、独り言を言うようにうつむいてつぶやいた。「医療保険もいいけど、定期保険も捨てがたいですね。一寸先は、闇ですからね。内定取り消しになったやつがいるんです。コロナ禍、って恐ろしいですね。僕も、内定取り消しになるかも?そうなったら、どうしよう。7月以降、新卒採用中止の企業が増えてるんです。俺たちって、ついてないっすよね」

 

 彼女は、H旅行会社に勤めていたが、今年の5月、コロナ禍によるリストラにあっていた。風俗よりましだと思い、やむなく、7月から生命保険会社の外交に再就職していた。「確かに、コロナ禍で、就職が難しくなっています。こんなことを言うのは、どうかと思いますが、実を言うと、私も、リストラにあいました。それで、やむなく、保険の外交をやっています。今のところ、事務職に転職できるまで、頑張ろうと思っています」ちょっとまずいことを言ったと反省した彼女は、保険の話に戻した。「余計なことを言いました。どうでしょ、医療保険だけですと、月々の掛け金は、1940円になります。この金額だと、ご負担がないかと思います。いかがですか?

 

 

 学生は、彼女と目を合わせ、返事した。「は~、でも、死んだときのことも考えて、死亡保険も欲しいです。先ほど言われた定期保険を加えるといくらになりますか?」彼女は、タブレットで素早く算出した。「医療保険料に定期保険料を加えますと、3530円になります」学生は、ニコッと笑顔を浮かべた。「3530円ですか、安いんですね。これだったら、払えなくもありません。ちょっと考えさせてもらってもいいですか?一週間以内に、ご返事します」彼女は、ゆっくりうなずいた。保険に加入してもらえれば、ノルマの消化になると思ったが、自殺願望があるような若者を加入させてもいいものかと不安になった。彼女は、しばらく学生の暗い表情を見つめていた。現在、何らかの病気に罹患していた場合、保険に加入できない。もしかしたら、病院に通っているかもしれないと思い、健康状態を聞くことにした。「ところで、加入に際して、現在の健康状態の告知が必要なんですが、ご健康でいらっしゃいますか?

 

 彼の顔が、一瞬引きつった。「え、今ですか?病気なんかしてません。いたって、健康です。薬も飲んでないし。カゼにも、新型コロナにも、かかっていません。健康だけが取り柄なんです」彼女は、加入を拒否できる返事を得ようとさらに質問した。「2年以内に、入院されたことはありませんか?」マジな顔つきで返事した。「ありません。悪いのは、視力と頭だけです」彼女は、一瞬、噴き出しそうになったが、笑顔で返事した。「健康状態は、問題無し、ということですね。それでは、ご返事をお待ちしています。失礼いたします」彼女は、頭を下げて、立ち上がった。

 

 学生は、とっさに言葉をかけた。「もう、お帰りですか?」彼女は、意味がよくわからなかった。「何か、ご質問でも?ご加入のご返事をいただければ、手続きに参ります。引き落としの方法ですが・・」そう言いかけて、彼女は、腰を落とした。「引き落とし方法ですが、口座振替とクレジットがございます。口座振替の場合は、口座の印鑑、クレジットの場合は、クレジットカードをご用意ください」学生は、不安げな表情で、悩みを話し始めた。「はい。ちょっと、聞いてもらえますか?悩みがあるんです。奨学金の返済が、できなかったら、どうなるんでしょうか?もし、内定取り消しになって、就職できず、バイトも見つからなかったら、どうなるんだろう、そんなこと思っていると、最近、眠られないんです」

 

 ちょっと厄介な学生に引っかかったと顔をしかめた。顔色も悪く、うつ病みたいだし、もしかして、ひきこもりではないか?とりあえず、軽く返事することにした。「そう、心配なさらないで。大丈夫ですよ。人生は、プラス思考、しなくっちゃ」学生は、彼女をにらみつけたが、すぐに、表情を緩めた。「そうですかね・・僕の先輩は、リストラにあって、どうにか見つけたバイト先の飲食店も、9月に倒産して、今、家賃も払えず、追い出されるかもって、それに、食べるお金もない、と泣きつかれたんです。それで、少ないお小遣いから、3000円貸したんです。僕も、こんな目に合うかと思うと・・」とんでもない話を聞かされたと思ったが、そうですかと言って立ち去るのも気の毒になった。「そう、私に、相談されても、私も、リストラにあって、貧乏してます。でも、仕事を選ばなければ、なんとなりますよ。セールスは、大変です。でも、やるしかないんです」

 

 人生をあきらめてしまったような弱々しい返事が返ってきた。「は~~。あなたは、強いんですね。僕は、ダメです。陰気で、気が弱くて、頭も悪い。顔は、ブサイク。彼女もできない。あ~~、もう、ダメだ」世の中には、こうも気が弱い男性がいるものなのかとあきれてしまった。リストラにあったわけでもなく、運が良ければ、出世も夢ではない。少し励ますことにした。「とにかく、やるしかないんです。男子でしょ。当たって砕けろですよ。次の予定があるので、失礼します」彼は、うつむいた顔を持ち上げ、彼女の顔を見つめた。「ありがとうございます。励ましていただいて。母に、頑張れ、頑張れって、励まされ、勉強したんです。でも、第一志望は不合格でした。一浪して、やっと、第三志望に・・ヤッパ、ダメなんです。僕の人生」

 

 国立大学だし、頭はいい。真面目が取り柄って感じ。やはり、まじめすぎるうつ病。おそらく、事務職はできても、営業職はムリかも。こんなに暗いんじゃ、相手が引いてしまう。顔もいまいちだし、背は低い。モテないタイプ。悩むのも無理はない。保険の勧誘に来たのに、人生相談。自分のことで精いっぱいで、他人のことなど心配していられるかよ、といいたいところ。でも、こんなに気が弱い男子を見てると同情したくなる。よくない性格だが、どうしようもない。子供のころ、子猫の捨て猫を3回も拾って帰ったことがあった。親にきつく叱られたが、かわいそうと思うと放っておけなくなる。ダメダメ、同情は、かえって人を傷つける。心を鬼にして、立ち去らなければ。

春日信彦
作家:春日信彦
死神サークルⅠ
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