世の中に趣味がいっぱいある。メジャーな趣味、マイナーな趣味。
男性の趣味の対象になるのは乗り物系。クルマ、飛行機、電車、船。昆虫なんかも男性の趣味の対象らしいようだ。
女性の趣味はよくわからないのだが、おしゃれ、おしゃべり、旅行といったことろだろうか。
ステレオタイプ思考は良くない考えだが、無理に一般化してみると、男性の興味は物やシステムの探究に向かいがちで、女性は人とのふれあい行為に興味をおぼえるようである。
現代の大きな趣味であるコンピューターとインターネットについてもそうだ。男性はコンピューターマシンの仕組みと性能、通信技術の構成に目を向ける。女性はインターネットによるおしゃべりが好きだ。インターネットの技術的な仕組みに興味津々な女性は少ないようである。
しかしながら世の中には男女ともに趣味の対象としない物がいっぱいある。たとえば家庭電気製品だ。テレビ番組情報雑誌ならたくさんあるのに、テレビ受像機という機械をメインとした趣味雑誌は見当たらない。コンピューター雑誌は数種類あるのに、機械としてのテレビは趣味とならないらしい。ちなみに私はテレビ機械に対してならほんの少しだけ興味があるのだが、テレビ番組にはまったく関心がない。
テレビ以上にマニアがいない物が冷蔵庫や洗濯機である。「週刊洗濯機」とか「冷蔵庫ファン」などという雑誌は見たこともない。
男性である私はやはりインターネットの技術的な方面に関心がある。だが根っから文系人間のため、困ったことに技術力がない。わからないけど面白くは感じる。
パースナル・コンピューターを使い始めたとき、一般の人達と同じく、ウィンドウズがあらかじめ入っていたラップトップを買った。けれでも私はマイクロソフト社が販売するこのオペレーティング・ソフトの使い方が、どうしてもわからなかった。のみ込めなかった。困ってしまった。数学のテスト0点で機械音痴な自分はコムピュータを使う能力がないのかと悲しくなった。
だがあるときアップル社の中古マックコンピューターが同社の公式サイトで四万円ほどで販売されていたので買ってみた。それを使ってみて私は目が覚めた思いがした。わかりやすいのだ。実に使いやすい。目から鱗が落ちた。それを使い始めて、コンピューターの使い方が一気にわかった。上達した。それまで悪戦苦闘したウィンドウズはあれは一体何だったのだろうと思った。あんな難しいものが世界標準となってしまったから、世の中の書店にパソコンの使い方の本が溢れているのではあるまいか。
それから何年かマック・オーエス・テンばかりを使った。ウィンドウズの難しさに辟易していたから。マックは使いやすいばかりか堅牢である。滅多なことでは不調を起こさない。壊れやすいウィンドウズと対象的だ。使用しているうちに、価格的にもマックはウィンドウズを載せた同程度性能のパソコンより安価なことに気づいた。マックは高い、は昔のことである。いまはウィンドウズパソコンのほうが値段が高い。
ただしマックの短所にも気づいた。私はオペレーティング・ソフトだけが欲しい。マックの機械は不要なのだ。だがアップル社は頑としてソフトだけの販売を許さない。それからマックの世界は自由度がやや低い。アップル社が定めたとおりに使わなければお叱りを受けそうな雰囲気がある。
創業者の没後アップル製品は美が喪失した。洗練されたエレガントさがすかっり薄れた。だから現在の同社製品を買いたいとはあまり思わない。しかしアップルのオペレーティング・ソフトの堅牢さとわかりやすさは捨てがたい。
そこをどうするかかんがえてリナックスというオペレーティングソフトを数年前から使っている。それはウィンドウズ、マックと並ぶメイジャーなオペレーティングソフトである。前二者との違いは売り物でないこと。リナックスは特定の会社の製品ではない。世界中の有志の技術者が知恵を集めて開発しているヴォランティア活動の成果物なのである。
リナックスを使ってみてこう感じた。堅牢さではマックとほぼ同じレヴェルであり、使いやすさではマックに少々劣る。そして自由さではおそらく世界一優れている。リナックスを使うことは経済的にも技術的も難しくない。まず代金無料である。日本円で二万円ほどするウィンドウズと比較にもならない。ウィンドウズより高性能なソフトが無料なのである。インストールも難しくない。数百種類あるリナックスの中には使用方法と外観をウィンドウズに似せてあるものがいくつもあるから、そういうのを選べば違和感なく使えるだろう。
現在の私は九割がたリナックスを使い、一割ほどマックを使っている。どちらも高性能かつ使いやすい。魯鈍な頭の私にとってはウィンドウズは使い方が難解で、それを使うことはほとんどない。私自身いまだにウィンドウズの使い方がわかった気がしないのである。
商品でないリナックスが世界標準ソフトになることはあり得ないが、もしもマック・オーエスのシェアが半分以上になったら、世界の生産性が劇的に上昇するだろう。マックなら解説本なんか不要だ。ウィンドウズみたいにオーエス・ソフトと格闘するために時間と労力を奪われない。
パースナル・コムピュータが爆発的に拡まった九〇年代後期、マイクロソフト社は世界の輝ける巨大企業であった。九〇年代は同社の時代だった。これに対して当時のアップル社の経営業績は倒産ぎりぎりな悲惨な状況だった。アップルは過去の企業だと一般に認識されていた。
あのころ、さざなみがマイクロソフトによせていたのだ。不幸なことに。
信とはなんだかわからない対象を確かだと信じこむことではない。
信とはあてにならない人を完全無欠なる指導者だと信じこみその指示に従属することではない。
信とは疑うことである。信とは疑い問うことである。
信とは自己を疑うことである。
信とは社会を問うことである。
信とは疑うことである。疑こそが信である。
同時に、信とは疑ではない。信は疑を離れることである。
信と疑は不一不二である。
ゆえに、信は知ることである。
信は賢くなることである。
信はちっとはましなにんげんに成ることである。成ってゆくことである。
信を獲るとはその内面に慚愧と歓喜の思いがこみあげることである。
見えていなかった己の虚偽の姿、世の中の嘘偽り様相が見える自分に変わってゆくからだ。
世の中をよくするために己が微力を捧げなければやまない情熱が湧く。その熱意は生涯つづく。
これこそ佛教の信のご利益である。
偶像