無人駅の駅長

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誘惑


 飛行機からたった一人で見知らぬ国に降ろされてしまった、としよう。そこは日本人が一人もいない国だ。言葉と習俗習慣がわからない国でその人が生き抜くためにはまずは周囲の人々の様子を懸命に観察し見様見真似に真似するしかないだろう。

 機能不全家族で育った子供はこれと似ている。

 親がアルコール依存だったり、極度の貧困だったり、機能不全家族にはいくつかのバリエーションがある。しかしそういう環境で育つしかない子供は子供なりに周囲の大人たちを観察し真似して育つ。やがて若者になったとき、かれらは滅茶苦茶な性格破綻者(ジェームズ・ディーン、マリリン・モンロー、尾崎豊のような)になるか、過度にしっかりし過ぎている青年(小さな大人として親のケアをせざるをえなかった子)になる。どちらかの両極端になる。非常にしっかりしているように見えてもその内面は脆い。

 そのどちらのタイプも心の奥に深い傷と激しい怒りを抱いてアウトローとして生涯をいきてゆく。

 かれらは結婚したがらない。こどもを欲しがらない。結果的に妊娠してしまうことは非常に多いけれど、それを「おめでた」ととらえることはない。明るいこと楽しいことがなにもなかった子供時代を経験してしまったからだ。家庭は嫌悪すべきところでしかないからだ。

 かなしみをひとひら

 噛じるごとに子供は

 かなしいと言えない

 大人に育つ

  「誘惑」(中島みゆき)より

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鰯雲


チャップリンの小説「フットライト」を読んだ。あの多芸なチャップリンが小説まで書いていたのかと驚いたが、実のところは映画「ライムライト」の台本の下書きのような作品で、本人は廃棄した原稿のようだ。しかしながら周囲の人が廃棄されたノート等をゴミ箱から収集し保管していたらしい。そのうちの一つが今回読んだもの。本人はおそらく世に出す意図がなかった原稿がこうして読まれているわけで、遺体を「誘拐」されたことといい、人気者は死んでも忙しいようだ。

 才能豊かな人だけにさすがによくかけている。でも小説とよぶほどでもない。一読後の印象は「素晴らしい下書き」であった。

 小説「フットライト」により、「ライムライト」を見ただけでは不可解であった描き方が三つほど理解できた。一つは主人公カルヴェロの年齢設定が五十歳過ぎであるということ。これは驚いた。そんなに若い設定であったとは。六五歳前後かと思っていた。

 次にライムライト劇中歌「イワシの歌」。ぴりりと苦味が効いたコミカルな歌をカルヴェロが歌う場面。映画版でかなり短縮されている歌詞が「フットライト」では長々と解説されている。おかげで歌の内容が今回はじめて全体的にわかった。そうして「ライムライト」では歌われない前半部分の歌詞が金子みすゞの詩「大漁」と似ていることを見つけた。偶然の一致だろう。面白いことだ。金子の詩のほうが時代的に先だが、完全に無名であった日本の詩人の作品を、日本語を理解できないチャップリンが知っていたとは思えない。

 三つめ。「ライムライト」終盤のバスター・キートンとチャップリンによる劇中喜劇。あのシーンは「フットライト」に存在しない。撮影に入り、キートン出演が決まってから、二人がほとんど即興芝居で撮ったシーンのようである。

 有名な場面だが以前から私はあそこが不可解だった。二人のコントはどう見ても可笑しくない。しかるに観客達は涙を流し身をよじるほど笑っている。もしかしたら観客全員、テリーが依頼したサクラなのかと勘ぐったりしていた。しかし「フットライト」を読んで、嘘笑いでなく、二人の芸がほんとうに観客に受けているシーンであることがわかった。少数のサクラを雇い観客席に紛れ込ませたことは「フットライト」にも書かれている。だが観客はサクラたちの行動を乗り越え本当に笑っていたのだ。落ちぶれ喜劇役者カルヴェロは憐れんでもらったことを知らずに死んだのではなく、生涯最後に大成功を収め、その中で死んだのだった。

 カルヴェロのモデルはチャップリン本人と彼の若くして死んだ父親だろう。カルヴェロもチャップリン・シニアも舞台に上がる前に強い酒を煽る。素面で観客の前に出られない。受けないことが怖くて。チャップリン本人だって映画であれほど人気者になってからは舞台に立たなかった。カメラを間に挟む間接芝居で観客に接した。おそらく舞台恐怖があったのだ。

 カルヴェロはブランデーをあおって舞台に立てば霊感が湧き、「面白い人」に変身できると言う。

 ところで私は酒が飲めない。下戸にとって酒は単なる毒入り水である。だからカルヴェロの述懐が理解しにくいのだが、創作が湧く湧かないの問題に取り替えれば非常によくわかる。

 私は十冊ほど本を上梓させていただいた。しかしその中に私の作文は一行もない。子供時分から作文が苦手で文章を書けないのだ。世の中には読書が趣味で、読むのも書くのも好きという方がいる。私も読書好きだ。この頃は視力が衰えてペースが落ちたが一年に百冊は読む。けれど読むのが好きだが書くのは嫌いだ。趣味を仕事にしてしまうとつまらなくなる。趣味が趣味でなくなり義務に変化する。私は読むことは好きでも書くことが嫌いなので、ある意味で助かっている。

 ではどうやって本を書くのか。

 文章が湧いたら書き写すのだ。私が作文するのではない。自分の中で文章が湧き出したらそれを書き留めるだけなのだ。書き留めたものの集積が本となる。湧いた時はいくらでも書ける。湧かない時は一行も書けない。これが私の本の書き方だ。

 物書きの中には文章が天から降ってくると表現される方もいる。私の場合は上からではなく、自分の下腹のあたりから文が湧く。いつ湧くか当人にもぜんぜんわからない。本を読んでいる時、ラジオを聞いている時、掃除している最中などいつでも湧くときは湧く。傾向としては、歩いているときと、寝ているときに湧くことが多い。歩行のリズミカルな運動が良いのだろうか、歩いている時ふと湧き出す。すると私は歩きながら、頭の中で、湧き出した断片的な言葉たちを論理的につなげて形ある文章に組み上げる。そのままでは確実に忘れるので、その場でメモをする。そのために私は常にペンと紙を持ち歩くことにしている。もしその場の近くに喫茶店でもあれば飛び込んで、頭の中で完成させた文章を紙に書き写す。

 睡眠中に湧くこともよくある。睡眠といっても明け方起きる直前に文が湧くのだ。夢でない半覚醒状態であることは自分で意識している。眠ったまま湧く。湧くままに文やアイディアに身を委ねる。そうしてすっかり覚醒したら真っ先にそれをノートに書き留める。奔流のごとく文章が湧き上がるため手の動きが追いつかない。殴り書き状態になって数ヶ月もすると私自身解読に苦しむひどい字で書き留め、判読できるうちにノートを見ながらタイプする。

 つぎにその文章を何日か「寝かせる」。翌朝目覚める前にほぼ確実に新しい文章が湧くからだ。湧いた文章を足したり不要と判断した文章を消す。これを数日続ける。この作業を私は「発酵」と呼んでいる。食べ物が微生物の作用によりより良いものに変化するように、湧いた文章を寝かせると洗練されたものに「発酵」する。これが私の創作方法である。

 ついでながらこの文章もまた昨日街を歩いているとき湧き出たものをメモ用紙に書き写し、帰宅後にタイプし一週間ほど発酵させたものである。

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偶像


 中国語への翻訳語の中に時折「うまい」とおもわされるものがいくつかある。口可口楽(コカ・コーラ)などその代表であろう。漢字の本場の人はさすがにセンスがいいと思わずうなってしまう。

 偶像、という翻訳語も素晴らしいものの一つだ。アイドルの翻訳語であるが語感からすると、もともとの英語からの直接翻訳でなく、日本語としての「アイドル」を訳したのではなかろうか。日本のアイドルを現代中国語は「日本偶像」というのだ。

 アイドルは疑似恋愛の対象だ。人はアイドルに夢中になる。不幸な人ほど夢中になる。これは客観的にその人が不幸な状況に置かれているか否かに関係ない。本人が主観的に自分は不遇だと感じているほとほどアイドルにのめりこみ易い。

 テレビなど何らかのメディアを中間に挟んだ安全な恋愛対象。直接に異性と相対するとき人は非常にしばしば傷つけあう。傷つけあう言葉なら海の波よりおおい。それは人格の奥深くを張り倒す(張り倒される)危険な恋愛だ。アイドルへの疑似恋愛ならその危険を回避できる。その意味でアイドルはまさしく偶像である。

 疑似恋愛対象となるアイドルとアイドル志願者はカメラのレンズを恋人と仮定して優しく見つめる練習を日々繰り返す。その人は、自分の戸籍名から切り離された芸名としての架空の人物を演ずるのだ。自宅にいる時は本名としての自分でいる。あるいはテレビ局内や撮影スタジオ内など内輪の者だけの場所ではある程度までアイドルでない自分のままでいる。著者は昭和の終わり頃芸能界の片隅で営業の仕事をした。テレビ局内で見かけた時のアイドルたちはみんなどこにでもいるふつうの人だった。テレビ画面で見たときと別の表情をしていた。そうしてアイドルの仮面をつけていない時の彼または彼女たちはあまり魅力を感じない人ばかりだった。

 しかしカメラの前に立った時、公の道路を歩く時、彼または彼女は、疑似恋愛被対象としてのアイドルという仮面の別人格を演じる。昔の女優を例に挙げて恐縮だが、マリリン・モンローはマリリンを演じていたのである。出生証明書に記載されたノーマ・ジーンを生きていたのではない。そしてまたファンはマリリン・モンローを愛していた。ノーマ・ジーンに興味はなかった。

 アイドルもしくは元アイドルはときに自殺してしまう。モンローは自殺に近い不可解な死に方をした。仮面人格を演じつづけることに疲れるのだろうか。

 スクリーンを中間に挟んだアイドルはいつも「自分だけ」に微笑んでくれる。自分を不遇だと信じている人々はそこに理想の恋人を見る。自分が異性と社会に求めて得られない理想の全部をそこに投影する。スタンダールの結晶作用である。

 正に偶像である。

 もしスタンダールがテレビがある世界に生きていたら、かれの著書「恋愛論」の一章としてアイドル論を語ったことだろう。

 アイドルへの「愛」は憎悪へ逆転することがある。というより愛着と憎しみはコインの表裏のように切り離せないことなのだろう。自分がこんなに胸を熱くしているアイドルの彼女または彼は芸能界という華やかな世界で光っている。それなのに社会の底辺を這うように生きているこの自分は何なのだ。なぜこんなに違う境遇なのか。疎外感不遇感に苦しめられている人ほど偶像への愛着と憎悪の炎を熱く燃やす。

 そしてあるときその感情を実行に移してしまう。

 筆者はミュージシャンのジョン・レノンが熱心なファンに射殺されたときのニュースを微かに記憶している。これが最悪のケースだろう。塩酸溶液をかけられた芸能人もいた。握手会で切りつけられたアイドルがいた。いずれも熱心なファンの犯行であった。 アイドルへのつきまといの件数は数えるのも難しいほど多い。

 アイドル耽溺者は年齢を問わず存在する。三〇歳代にも五〇歳代の人にもにもアイドルはいるのだ。それはアイドルが肉体と体温を有する実在存在ではないからだ。アイドルに熱中する人の胸の中に存在する観念であるからだ。不遇感と疎外感と孤独に苛まれている人は何歳であってもアイドルに依存する。

 アイドルは江戸時代にはすでに存在した。それは芸者と歌舞伎役者という名称で呼ばれていた。レコードとパソコンがなかったから、アイドルの歌と映画がでまわることはあり得なかったが、読み物と浮世絵の形式で出現するアイドルに江戸の人たちは耽溺していた。

芸者は各々芸者置き場に所属していてそこから求められた先へ派遣された。現代のアイドルたちも芸能プロダクションと呼ばれる芸者置場に属している。

 時代が移ってもそれらの人びとのお金を狙ったアイドルビジネスが消えることはないのであろう。

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ことん


 他人と他国を攻撃したくてたまらない人たちは世界中のたれもが自分と同じく差別と虐待愛好者だと信じてしまう。自分の欲望を投影して「外国が攻めてくる」「日本を軍事侵掠する」と言う。

 平和を愛する人々は世界中のたれもが自分と同じく自由と平和と信義を愛すると思う。外国が攻めてくるなんてありえない妄想だとそれを嘲う。

 ラジオを聞いていたらこんな投書が読まれた。

「私は高校生です。私は高校を卒業したら好きな夢を目指すために専門学校に行きたいと思っています。でも学校の先生は、大学くらい行かなくちゃ人生の落ちこぼれだ。大学進学しろと言います。私はどうしたらいいでしょう?」

 それに対し六〇歳代のディスクジョッキーがおおよそこんなふうに応えた。

 そんな考えが時代遅れなんだよ。大学へ行ってもろくなものにならなかったやつもいたし、行かなくても立派な人もいる。要はその人の努力だ。先生の言うことなんか気にするな。君の人生だ。きみの道を行くんだ。

 わたしもその老ディスクジョッキーと同意見である。それが正しい意見だ。

 ただ聞きながら、もしかしたら私たちのほうが時代遅れなのかも、と思った。

 私はディスクジョッキーより一世代若い。しかし今の高校生と対比したらほぼ同世代といって構わないだろう。私たちが若い頃、二〇世紀後半だが、その頃は社会の階級変動が激しかった。本人の努力次第で社会階層を上昇できた。

 学歴についてはもっとそれが顕著だった。私たちの世代は大半の人が両親より高い学歴を所持している。親が中学校卒業、子供は大学卒業。あるいは親は高等小学校卒業で子供は高校卒業。そんなのがあたりまえだった。現実状況を置いておくとして、努力次第でいくらでもえらくなれると私たちは思っていた。または思わされていた。

 しかし現在の状況はどうだろう。今の親の半数は大学卒業生である。子供は努力しても学歴で親を超えられない。そうして今は社会階層が固定してしまった時代だ。どんな環境に生まれたか、より具体的に言えば、どんな家庭に生まれたかで生涯が決まってしまう時代である。一部の例外的ケースを除いて、前世紀後半のようなジャンプアップの夢の期待をもてない。上がることは至難だが落ちるのは一瞬。

 身分が固まった今の日本社会だが、下への落下は簡単である。

 こうした状況下では、大学進学は身分転落を防ぐための綱なのかもしれない。それは脆弱な保障でしかないが、ほかに階級落下を防ぐ手段が見当たらないなかでは、その高校の先生の指導のほうが現代的で、時代遅れは昭和世代の私たちのほうかもしれない。

 そう思った。

金井隆久
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