無人駅の駅長

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偶像


 中国語への翻訳語の中に時折「うまい」とおもわされるものがいくつかある。口可口楽(コカ・コーラ)などその代表であろう。漢字の本場の人はさすがにセンスがいいと思わずうなってしまう。

 偶像、という翻訳語も素晴らしいものの一つだ。アイドルの翻訳語であるが語感からすると、もともとの英語からの直接翻訳でなく、日本語としての「アイドル」を訳したのではなかろうか。日本のアイドルを現代中国語は「日本偶像」というのだ。

 アイドルは疑似恋愛の対象だ。人はアイドルに夢中になる。不幸な人ほど夢中になる。これは客観的にその人が不幸な状況に置かれているか否かに関係ない。本人が主観的に自分は不遇だと感じているほとほどアイドルにのめりこみ易い。

 テレビなど何らかのメディアを中間に挟んだ安全な恋愛対象。直接に異性と相対するとき人は非常にしばしば傷つけあう。傷つけあう言葉なら海の波よりおおい。それは人格の奥深くを張り倒す(張り倒される)危険な恋愛だ。アイドルへの疑似恋愛ならその危険を回避できる。その意味でアイドルはまさしく偶像である。

 疑似恋愛対象となるアイドルとアイドル志願者はカメラのレンズを恋人と仮定して優しく見つめる練習を日々繰り返す。その人は、自分の戸籍名から切り離された芸名としての架空の人物を演ずるのだ。自宅にいる時は本名としての自分でいる。あるいはテレビ局内や撮影スタジオ内など内輪の者だけの場所ではある程度までアイドルでない自分のままでいる。著者は昭和の終わり頃芸能界の片隅で営業の仕事をした。テレビ局内で見かけた時のアイドルたちはみんなどこにでもいるふつうの人だった。テレビ画面で見たときと別の表情をしていた。そうしてアイドルの仮面をつけていない時の彼または彼女たちはあまり魅力を感じない人ばかりだった。

 しかしカメラの前に立った時、公の道路を歩く時、彼または彼女は、疑似恋愛被対象としてのアイドルという仮面の別人格を演じる。昔の女優を例に挙げて恐縮だが、マリリン・モンローはマリリンを演じていたのである。出生証明書に記載されたノーマ・ジーンを生きていたのではない。そしてまたファンはマリリン・モンローを愛していた。ノーマ・ジーンに興味はなかった。

 アイドルもしくは元アイドルはときに自殺してしまう。モンローは自殺に近い不可解な死に方をした。仮面人格を演じつづけることに疲れるのだろうか。

 スクリーンを中間に挟んだアイドルはいつも「自分だけ」に微笑んでくれる。自分を不遇だと信じている人々はそこに理想の恋人を見る。自分が異性と社会に求めて得られない理想の全部をそこに投影する。スタンダールの結晶作用である。

 正に偶像である。

 もしスタンダールがテレビがある世界に生きていたら、かれの著書「恋愛論」の一章としてアイドル論を語ったことだろう。

 アイドルへの「愛」は憎悪へ逆転することがある。というより愛着と憎しみはコインの表裏のように切り離せないことなのだろう。自分がこんなに胸を熱くしているアイドルの彼女または彼は芸能界という華やかな世界で光っている。それなのに社会の底辺を這うように生きているこの自分は何なのだ。なぜこんなに違う境遇なのか。疎外感不遇感に苦しめられている人ほど偶像への愛着と憎悪の炎を熱く燃やす。

 そしてあるときその感情を実行に移してしまう。

 筆者はミュージシャンのジョン・レノンが熱心なファンに射殺されたときのニュースを微かに記憶している。これが最悪のケースだろう。塩酸溶液をかけられた芸能人もいた。握手会で切りつけられたアイドルがいた。いずれも熱心なファンの犯行であった。 アイドルへのつきまといの件数は数えるのも難しいほど多い。

 アイドル耽溺者は年齢を問わず存在する。三〇歳代にも五〇歳代の人にもにもアイドルはいるのだ。それはアイドルが肉体と体温を有する実在存在ではないからだ。アイドルに熱中する人の胸の中に存在する観念であるからだ。不遇感と疎外感と孤独に苛まれている人は何歳であってもアイドルに依存する。

 アイドルは江戸時代にはすでに存在した。それは芸者と歌舞伎役者という名称で呼ばれていた。レコードとパソコンがなかったから、アイドルの歌と映画がでまわることはあり得なかったが、読み物と浮世絵の形式で出現するアイドルに江戸の人たちは耽溺していた。

芸者は各々芸者置き場に所属していてそこから求められた先へ派遣された。現代のアイドルたちも芸能プロダクションと呼ばれる芸者置場に属している。

 時代が移ってもそれらの人びとのお金を狙ったアイドルビジネスが消えることはないのであろう。

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ことん


 他人と他国を攻撃したくてたまらない人たちは世界中のたれもが自分と同じく差別と虐待愛好者だと信じてしまう。自分の欲望を投影して「外国が攻めてくる」「日本を軍事侵掠する」と言う。

 平和を愛する人々は世界中のたれもが自分と同じく自由と平和と信義を愛すると思う。外国が攻めてくるなんてありえない妄想だとそれを嘲う。

 ラジオを聞いていたらこんな投書が読まれた。

「私は高校生です。私は高校を卒業したら好きな夢を目指すために専門学校に行きたいと思っています。でも学校の先生は、大学くらい行かなくちゃ人生の落ちこぼれだ。大学進学しろと言います。私はどうしたらいいでしょう?」

 それに対し六〇歳代のディスクジョッキーがおおよそこんなふうに応えた。

 そんな考えが時代遅れなんだよ。大学へ行ってもろくなものにならなかったやつもいたし、行かなくても立派な人もいる。要はその人の努力だ。先生の言うことなんか気にするな。君の人生だ。きみの道を行くんだ。

 わたしもその老ディスクジョッキーと同意見である。それが正しい意見だ。

 ただ聞きながら、もしかしたら私たちのほうが時代遅れなのかも、と思った。

 私はディスクジョッキーより一世代若い。しかし今の高校生と対比したらほぼ同世代といって構わないだろう。私たちが若い頃、二〇世紀後半だが、その頃は社会の階級変動が激しかった。本人の努力次第で社会階層を上昇できた。

 学歴についてはもっとそれが顕著だった。私たちの世代は大半の人が両親より高い学歴を所持している。親が中学校卒業、子供は大学卒業。あるいは親は高等小学校卒業で子供は高校卒業。そんなのがあたりまえだった。現実状況を置いておくとして、努力次第でいくらでもえらくなれると私たちは思っていた。または思わされていた。

 しかし現在の状況はどうだろう。今の親の半数は大学卒業生である。子供は努力しても学歴で親を超えられない。そうして今は社会階層が固定してしまった時代だ。どんな環境に生まれたか、より具体的に言えば、どんな家庭に生まれたかで生涯が決まってしまう時代である。一部の例外的ケースを除いて、前世紀後半のようなジャンプアップの夢の期待をもてない。上がることは至難だが落ちるのは一瞬。

 身分が固まった今の日本社会だが、下への落下は簡単である。

 こうした状況下では、大学進学は身分転落を防ぐための綱なのかもしれない。それは脆弱な保障でしかないが、ほかに階級落下を防ぐ手段が見当たらないなかでは、その高校の先生の指導のほうが現代的で、時代遅れは昭和世代の私たちのほうかもしれない。

 そう思った。

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 わたしは言語障害をもっている。

 もっとも英語日本語中国語といった人間言語の「読み書き]についてならば問題ない。むしろ一般人より優秀だ。ただし話す聞く能力が劣る。

 わたしは会話が下手である。言いたいことを言えない。話し方は鈍いし時にどもる。相手の言っていることを理解しにくい。話し相手が私に期待している(であろう)ことがわからない。世間のいわゆる「ノーマルな人たち」は、生まれつき、相手が冗談を言ったときはこう返す、といった能力を持っているらしい。わたしはわたし以外の人が天才に見える。わたしはこの能力がない。ゼロである。ジョークを言われても能面のように表情一つ変えなかったりする。適切なリアクションをとれない。だから相手はわたしをつまらないと人とみなして去る。

 言語は人間の自然言語だけとは限らない。数学の言葉やコンピューターのプログラミング言語がある。これも立派な言葉だ。これらは厳密な論理と人間言語よりはるかに少数の文法規則からできていて、人の言葉にある微妙なニュアンスや複雑な文法、逆説表現、アフォリズム等が入る余地がない。したがって人の言葉よりはるかに簡単に習得できる「はず」である。

 それなのにわたしは壊滅的なほどに数学の言語を理解できないのである。

 中学二年生まで私の数学の成績は良かった。私の記憶力が抜群に優秀だったので、カメラが写真を撮影するように、テスト前に数学の教科書を完璧に暗記したからだった。内容の理解はしていなかった。ちょうど近視の人が視力検査を受ける前に、こっそり検査ボードの字を暗記して、見えていないのに見えているふりをするようなものだ。けれども中学三年になり、試験が解の証明だとか、勉強内容の理解力を問う方向に変化したとき、右の方法が効力を失った。

 どんなに数学の勉強に励んでも数学の言葉は、単なる紙の上の模様にしか見えなかった。意味ある言葉として把握できなかった。数学言語は文字通り私の中を右から左へ抜けていった。わたしの数学成績は急降下し、なんと0点になった。ゼロ点である。試験問題の意味を読解することすらできなかったので解答できなかった。そこで零点になった。前年の好成績からの急降下に担任の先生が驚いていた。

 もちろん数字は読めた。アルファベット記号も読めた。しかしそれを意味を持つ言葉として変換できないのである。現在でもわたしの数学力は初歩的な四則演算止まりだ。もしも世の中に計算機(コンピューター)がなかったらわたしは社会生活を営むことも困難に違いない。

 言葉は動物にもある。植物にもある。鳥にもある。かれらとならわたしはコミュニケーションをとることができる。猫や犬との会話は人間とよりもずっと易しい。人間との会話は難しい。ことに日本人同士の会話は困難だ(私にとって)。相手との上下関係、親疎関係、その場の状況などなど言語以外に配慮を要求される事柄がおおすぎる。そうしてそれに失敗すると社会的落伍者の烙印を捺され「日本社会永遠追放処分」を受けてしまう。韓国人・中国人との会話は日本人相手よりやや楽である。配慮より言葉の論理の比重が大きくなるから。けれども私たちは儒教だか仏教だかわからないが東洋の文化を共通してもっているから基本的には日本人相手に会話するときと同様の「配慮」を求められてしまう。メンツを汚したりしたら大変なことになるのだ。私の経験で、いちばん楽に話ができる相手は西洋人、アラブ人、インド人である。湿った配慮など不要で、こちらの主張をクリアにドライに述べると尊敬してもらえる。日本人相手よりはるかに緊張しなくて済む。

 ところでこうした、字は読めるけれど意味を理解できない学習障碍を英語でディスレクシアというそうだ。日本語では読字障碍とか読書障碍と呼んでいる。わたしは数学言語におけるディスレクシアである。

 読書障碍者は人数として少ななからず存在するらしい。有名な人ではアメリカの映画俳優トム・クルーズがそうだ。台本を読めないので若いころは人に読んでもらい耳で台詞を覚えたそうだ。かれは一九八〇年代「レインマン」をダスティン・ホフマンとともに主演した。自閉症患者を主人公とした映画だ。わたしは今年の春「レインマン」の台本をもとにした小説「レインマン」を読んだ。映画よりやや長く、映画にない場面もいくつか書かれていた。それらは撮影はしたものの最終的にカットしたシーンかもしれない。もしフィルムが残されているならみてみたい。

「レインマン」は自閉症として生まれた人の存在を世に知らしめる社会派ヒューマンドラマとしてみることができるし、コメディーとしてみても、自閉症患者の兄を演じるホフマンと、エゴイスティックな弟クルーズのズレ具合が可笑しい。大笑いしてしまう。自閉症者になりきったダスティン・ホフマンの尋常でない演技力が光る作品。その陰に隠れがちだが若いトム・クルーズの名演技も素晴らしい。

 以前何かで読んだ。この作品の企画段階で、クルーズが自閉症者を、その自分勝手な兄をホフマンが演じる案があったらしい。あの名人のダスティンがエゴイスティックで年齢の離れた兄を演じたらそれはそれで素晴らしかっただろう。

 それにトム・クルーズはディスレクシアだ。読字障碍は自閉症に近い障碍である。そうなれば障碍を抱える本人が自閉症者を演じることになったはずだ。しかし制作者側の意向で現在の配役に落ち着いたとのこと。役者が自閉症患者を演じるという史上初の難しい役柄であるから、安全策ををとり、経験豊かで演技力に定評あるダスティンをレイモンド役に起用したのだろう。

 わたしも数学言語のディスレクシアだ。人間相手の音声会話に障碍を抱えている。ということはわたしも自閉症者なのだろう。

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彼岸花


 十代の頃印刷所兼出版社に勤務していた。外回りのしごとだった。「営業部営業第一課」といかめしい文字が刷られた名刺を持っていたが、営業課は上司二人とわたしのたった三人だけだった。当然ながら営業は一課だけで二課も三課もなかった。昔の商家ふうの言葉で言えば使いっ走りの丁稚、小僧さんだ。名刺の肩書なんて自称だし税金もかからないから何でも構わないと会社はかんがえたのだろう。おまけに印刷会社だ。好きなように名刺を印刷できる。

 出版といっても特殊な業務であって市販しない本ばかり作った。得意先はテレビ局、テレビ番組製作会社、映画スタジオ等だった。それらを毎日まわって納品したり受注したりが私の仕事だった。一般人が入れない場所ばかり訪問したのでそれなりに面白い仕事であった。しかしわたしはテレビがない家庭で育ち、芸能界に興味がなかったので格別に面白いとも感じなかった。未成年者でも採用してくれて給料が高い会社を新聞で捜したらその会社にあたったというだけであった。

 未成年で免許がなかったわたしはほとんどを電車で移動した。原付バイク免許はあったから世田谷区成城の東宝スタジオなどへはバイクで走った。数珠つなぎ状態で止まっている世田谷通りの渋滞の車列横を涼しい顔で抜いて走った。これは快かった。

 徒歩または自転車も使った。会社の自転車はずいぶん古いもので、しかも何十年も誰も乗らなかったのか、ペダルを踏むとギーコギーコと変な音がした。走行中に空中分解しそうなひどい自転車だった。とても芸能界の外面的華やかさと似合わなかった。正反対だった。日本テレビとフジテレビの二社は歩いて十分程度の近さだったので、いつしか私はその二社の担当のようになった。へんてこな自転車に本を積んでフジテレビに通っていた。

 同局は現在と所在地が違い、とても小さななビルだった。一五分ほどですべての部屋を回れるほど小さく感じた。当時の民法テレビ局はどこもフレンドリーで警戒は無に等しかった。殊に毎日通っている出入り業者のわたしはすっかり顔を憶えてもらっていた。

 まず外で警備員の方に挨拶する。つづいて受付のお姉さんにおはようございますという。そしてエレベーターに乗る。受付でのノート記入は原則としてなかった。三十年前のフジテレビの受付係は二人くらいしかいなかったようだ。しばしば受付カウンターが無人であった。係の方の休憩時間、あるいはちょっとトイレに行っているときは無人だったようだ。受付の人はたぶん二十五歳くらいだったのだろう。ずいぶん年上のお姉さんに見えたものだ。

 このころすでに携帯電話という物体はあった。たまに国電のなかで非常に大きな声で、あたかも誰かと会話するように独り言を言う人がいた。なんだろうと近くで観察したらそれは「無線機」であった。巨大で重そうな機械を肩にかけ受話器を耳に押し当てて話していた。まるで自動車電話を外して担いでいるようで、重労働そうに見えた。それが昭和末期の携帯電話。

 わたしが勤務した会社はそれを使用していなかった。代わりにポケットベルを渡された。外回りのときに着用しベルが鳴ったら会社へ電話せよと言われた。ベルトに付けさせられたとき、犬の首輪みたいでほんとうに嫌やな気持ちがした。

 ただそのころのポケットベルは、ビル影に入ると電波が届かない。地下鉄では完全に着信不能という、従業員にとってコンビニエントなものではあった。会社に応答しなくても、言い訳はいくらであったわけだ。わたしは小心者でやらなかったけど、先輩の一人に、地下鉄に乗っていたことにして、半日パチンコ店にいた勇ましい人がいた。地下鉄に半日も乗り続けるのは難しいことだとおもう。

 毎日の仕事は目が回るほど忙しかったからポケットベル鳴動は迷惑であった。鳴ったときは仕事の追加に決まっている。今どこにいる? それならついでにNHKに回ってくれ、そんな内容に決まっている。だからわたしもときにポケットベルを無視した。

 朝九時に出社する。朝は比較的暇である。そんなとき社長から「東京駅八重洲南へ行け」と指示されると嬉しかった。二時間位楽ができるから。当時の脚本家は手書き原稿であったから、原稿受け取りのしごとがあった。都内の先生の場合はお宅へ直接伺って原稿を預かった。大阪の先生は国鉄の夜行列車で原稿を送ってくれた。九州発東京行き夜汽車が午前零時台に大阪駅を出る。書き上げた原稿を列車の荷物室に預けてキタの飲み屋に繰り出す。大阪の脚本家にとって便利な列車だったというわけである。そして夜が明けて朝九時台に東京駅に到着する夜行列車から原稿を受け取るため、八重洲南口へわたしが行った。国鉄担当者へ受け取り申請してから実際に原稿が出てくるまで時間がかかった。その間わたしはただぼけーと街を眺めて待っていればよかった。通勤列車が着くたび溢れ出て八重洲ブックセンターの方向へ奔流する人の波をわたしは眺めていた。

 名前を忘れてしまったが、世田谷区内のある人気ある町のコンドミニアムに三〇歳代くらいの女性の脚本家が住んでいた。この先生のお宅へよく通った。わたしはこの先生が大好きだった。半日は楽ができたからだ。彼女は遅筆なたちだったのか、締切日当日になっても書き上がらず必死に書いていた。わたしが訪問するといつも、あと三時間待って、通りの向かい側の喫茶店で待ってて、出来上がったらお店に電話するから、と言った。

 わたしは指定された喫茶店の椅子に座りコーヒーを飲む。会社の費用で。そして公衆電話から会社に電話をかける。社長が出る。そのままそこで待て、何時間でも待て、と社長が言う。きみが待つことで暗黙の圧力をかけろ、ということだ。くだんの先輩の場合と違い、こうして会社命令によって何時間でも冷房が効いた喫茶店で楽ができる。ああなんていい先生なんだろう。あの先生は原稿受け取りのたびに何時間もわたしを休ませてくれのだ。

 半日待った末にようやく原稿をもらい、ふと多摩川べりを歩いたら彼岸花が咲いていた。その夏は暑かった。汗まみれになって東京じゅうを駆けた夏がようやく終わったとわたしはおもった。

金井隆久
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