神 理 の 書 16
運命の定めについて
『 運命 』 ともされる、思想・信仰が、
古くからも今なお、然(さ)も当然のさながらに、
よもや疑うまでも無いかにさえ、
広く頑(かたく)なにも信じ続けられていますが、
さても果たして、それの信じられてもいるように、
本当に 『 人の一生 』 を、
それこそ徹頭徹尾(てっとうてつび)なまでに、
決定しても已(や)まない、
そうしたものにも他ならないに違いないのでしょうか?
そうにも違いないと信じる、
いわゆる 『 運命決定論者 』 は、
すべては 『 因果(いんが)』 の連鎖(れんさ)のままに、
端(はな)からどうにも逃(のが)れようのなく、
終始、束縛(そくばく)・拘束(こうそく)もされて生きるよりない、
とばかりに教え諭(さと)しても憚(はばか)りません。
また、他方、『 自由意思論者 』 にあっては、
唯々 『 本能 』 のあるがままに生きるよりない、
『 動物 』 などとは、一線を画(かく)しても大きく異なり、
知恵にも恵まれ、理非曲直をも弁(わきま)え得る、
『 人 』 においては、
『 選択の自由意思 』 のそのお陰で、
たとえ 『 生まれながらの天与の定め 』 でさえ、
自(おの)ずからにも自(みずか)らをして、
望むがままにも変え得(え)うる、
とさえ、唱(とな)えられても憚られません。
はたして、どちらの主張こそが、正しいのでしょうか?
さては、両者それぞれの立場にも立って、
それぞれの論旨(ろんし)の拠(よ)って立つ、
その根拠の是非を確かめ、
果たしてどちらこそが正しいのか、
実際の現実にも即し、
明察この上ない 『 神理 』 にも照らして、
見究められなければなりません。
さて、あなたはどう想われましょうか?
そして、本書で明かされる結論に、
果たして、どのようにも応えられましょうか?
何はともあれ、その結末の次第を愉(たの)しみに、
どうかあなたなりにも、あなたご自身で、
あなたご自身なりの結論を、
どうか是非ともお考えの上、
努めてご案出の願いたく、
痛くも切に望まれてすらなりません。
何より、あなたご自身のためにこそ・・・