赤い糸

 母親は、不機嫌そうな表情のひろ子をちらっと見て話し始めた。「そういうこと。おそらく、来年は、東京勤務でしょ。でも、法務大臣から、ご褒美があるらしいわよ。よかったじゃない。もうこの辺で、出世してもらわないとね。世間体ってものがあるんですから。私は、ホッとしたわ。二人のことは、お父さんに報告してから、返事します」沢富は、ひろ子の不機嫌な顔を見ているとなんと言っていいかわからなくなってしまった。「とにかく、お母さん、ひろ子さんは、僕にはもったいないくらいの人なんです。気に入ってくれますよね。明るくて、思いやりのある女性です。仕事の相談にも乗ってくれて、すごく、助けてもらってるんです。来春には、結婚したいんです。お母さん、お願いします」沢富は、母親を真剣に見つめた。

 

 一つうなずいた母親は、武史に念を押した。「気持ちはわかったわ。結婚するということは、ひろ子さんを守り、家族を守っていくってことよ。その覚悟は、できてるの」沢富は、背筋を伸ばしはっきりと返事した。「もちろんです。ひろ子さんを死ぬまで守ります。必ず、幸せにします。神に誓います」母親は、少しは大人になったように思えて笑顔を作った。「とにかく、お父様にその気持ちを伝えます。しっかり、自分の将来を考えて、仕事をやることね」なんとなく母親がひろ子さんを気に入ってくれたようでほんの少し安心した。タイミングよく、オマールエビのパスタが運ばれてきた。「お母さん、あごが落ちるぐらいおいしいオマールエビです。さあ、お母さん、食べてみてください」

 

 小さく切ったエビの一片をフォークで口に入れると母親は、ニコッと笑顔を作った。「あら、ほんと。おいしいわ。帝国ホテルの味じゃない。大したものだわ。きっと一流ホテルで修業なされたんでしょうね」喜んでくれたことにほっとしたひろ子は、返事した。「そうなんです。こちらのシェフは、ヒルトンホテルで修業なされたそうなんです。今、すっごく評判が良くて、県外からいらっしゃるお客さんも多いんです。いつも、予約でいっぱいだそうです」母親は、笑顔でうなずいた。「福岡にやってきてよかったわ。空気はきれいだし、おいしい料理もいただけて、最高。武史、福岡で仕事させていただいて、よかったじゃないの。人生は、どこで幸運に巡り合うかわからにわね」

 

 


 沢富は、今後の予定を確認した。「お母さん、23日は遊んで行かれるんでしょ」母親は、小さく顔を振った。「そうもいかないのよ。法務大臣の奥さんといろいろと話があってね。明日の午前11時の便で帰る予定。ひろ子さん、とんぼ返りでごめんなさいいね。時間が取れたら、対馬にも行ってみたいわ。その時は、よろしくね」ひろ子は、対馬に来てくれるとわかり、何か、うれしくなった。「ぜひ、お越しください。観光名所はいくつかありますから、喜んでご案内いたします。大したおもてなしはできませんが、対馬の活き魚料理を召し上がってください」母親に認められたような気分になり、何かしてあげられることはないかと考えた。

 

 ひろ子は、母親と少しでも一緒の時間を過ごそうと思い、明日、ヒルトンホテルに迎えに行くことにした。「お母さま、明日、お迎えに参ります。何時がよろしいですか?」さすが、タクシーの運転手だけあって、気が利くと思った。「それじゃ、9時にお願いします。空港でショッピングでもして時間をつぶすわ」笑顔でうなずいたひろ子は、即座に返事した。「はい、9時ですね。かしこまりました。出発まで、私も、お付き合いさせていただきます」三人は、エルミタージュを出ると風光明媚な鏡山(かがみやま)に向かった。

 

 


春日信彦
作家:春日信彦
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