ピース

 17日(火)3人を乗せたベンツは約束の20分前に病院の前にある駐車場に到着したが、アンナはすぐに車から降りようとしなかった。さやかも亜紀もアンナの動作に合わせ車から降りようとしなかった。アンナが不安を打ち明けた。「大丈夫よね。きっと元気になる。そうよね」助手席のさやかが返事した。「大丈夫よ。神様を信じよう」さやかの真後ろの後部座席に腰掛けていた亜紀が、言葉を付け足した。「きっと、神様がピースを守ってくれる」

 

 午後155分前に車から降りた3人は、玄関の自動ドアを開いた。面談室に案内された3人は、主治医がやってくるのを静かに待った。2時をほんの少し過ぎたころ面談室のドアが開いた。そして、丸顔のやさしそうな主治医が神妙な顔で入ってきた。パソコンが置かれたデスクに腰掛けた主治医は、説明を始めた。「昨日、MRICT、心電図、眼底、血液、尿、などの検査を行い、今朝、レントゲン検査も行いました」

 

 三人は、固唾(かたず)をのんで検査結果をまった。先生は、ちょっと間を取った。「ピースは、ネコでは、12歳ですが、人間では、65 歳ぐらいに当たります。これはあくまでも目安です。元気なネコですと、人間でいえば、100歳ぐらい長生きするネコもいます。でも、人間と同じように、ネコも病気をします。病気にも、治るものもあれば、治らないものもあります。

 

 なんといっても、人間にとって一番怖い病気は、ガンです。そのガンは、人間だけでなく、ネコにもあります。特に、シャムは、悪性リンパ腫にかかる場合が多いのです。決して不治の病ではないのですが、治りにくい病気ではあります」主治医の話が、途切れた。小さくうなずくと話を続けた。申し訳なさそうな表情で告げた。「検査の結果、ピースは、終末期の悪性リンパ腫です」

 

 

 三人は、悪性リンパ腫という初めて聞く病名に戸惑ったが、なんとなくガンであることは察知できた。アンナは、恐る恐る確認した。「先生、その病気は、治るんですか?治す薬はあるんですか?」主治医は、ゆっくり答えた。「残念ですが、おそらく、余命三日というところです。奇跡を信じるしかありません。薬はありますが、ピースを苦しめるだけで、命が助かる保証はありません」

 

 最悪の結果を聞かされた三人は、呆然とし、言葉が出てこなかった。主治医は、飼い主の気持ちを察し、話を続けた。「ご自宅でも入院でも、栄養剤、痛み止めを打つことができますが、どのようになされますか?もし、容体をお知らせなされたい方があれば、早めになされたほうがいいかと思います。突然の病状の悪化は、考えられますので」

 

  しばらく、三人に沈黙が流れた。余命三日という言葉をどう受け入れればいいのか心が混乱していた。アンナがピースの最期のことを考え、気持ちを述べた。「最期は、自宅で看取りたいと思います。ピースを愛してくれた仲間ともお別れをさせてあげたいと思いす。さやか、亜紀、二人はどう思う?」さやかも亜紀もうなずいた。亜紀が息を詰まらせて話し始めた。「ピースをおうちに帰らせてあげたい。スパイダーも心配してるし」

 

 主治医も自宅で最期を看取ることに賛成した。「ピースは、皆さんに愛されて幸せですね。ご自宅で最期の時間をお過ごしください」主治医は、そう弔いの言葉を残し、静かにドアを開けて部屋を出ていった。亜紀は、ぐっすり寝込んだピースを抱きかかえ自宅に帰った。亜紀は、ゆっくり階段を上がり、ピースの部屋に入った。そして、ピースのためにオーダーメイドで作られたピース専用のベッドにそっと寝かせ、白地に真っ赤なバラがプリントされたタオルをかけた。

 

             さようなら

 

ピースを寝かせると三人は、キッチンテーブルに集まった。今後のことを話し合うことにした。アンナが、話し始めた。「ピースの命は、20日の金曜日まで。このことをヒフミンに知らせるべきだと思う?二人はどう思う?」まず、亜紀が答えた。「ヒフミンの結婚相手でしょ。知らせなくっちゃ」次に、さやかが答えた。「ピースは、家族の一員じゃない。できる限りの多くの仲間たちに、知らせてあげましょう」

 

アンナもさやかの意見に賛成だった。「そうよね、鳥羽君にも、桂会長にも知らせましょう」亜紀が話をつないだ。「それに、スパイダー、秀樹君、風来坊、ひろ子お姉ちゃん、ゆう子お姉ちゃん、それと~」さやかがさらにつけくわえた。「安部教授、篠田校長、伊達刑事、沢富刑事、お菊さん」それぞれ思いつく仲間を述べた。アンナが、締めくくった。「涙を流していたんじゃだめ。みんなでピースを天国に見送ってあげなくっちゃ。各自、思いついた仲間に連絡してちょうだい。いい」

 

突然、アンナの顔に不安げな影が差した。「二人とも、仲間に知らせるのは、ピースがなくなってからにして。ヒフミンは別だけど。ピースにとって一番大切な人は、ヒフミン。ピースは、ヒフミンとの静かな別れを望んでるはず。ママが、ヒフミンに知らせる。今は、二人とも、ピースの容体について、誰にもしゃべっちゃダメ、いい」二人は、うなずいた。

 

 アンナは、その日の夕方、ヒフミン宛に「ピース、キトク」とだけの電報を送った。その電報を受け取ったヒフミンは、即座に電話してきた。「もしもし、アンナさん。電報受け取りました。どういうことですか?」アンナは、回りくどい話をしても、逆に、ヒフミンを不安がらせると思い、単刀直入に答えた。「ヒフミンは、男でしょ。腹をくくって聞くのよ。ピースの命は、後三日。このことは、ヒフミンしか知らせない。これは、ピースの気持ちだと思うから」

 

 

 しばらく、沈黙が続いた。ヒフミンの顔から血の気が引いていた。気持ちを落ち着かせたヒフミンは、やっと言葉を出した。「三日ですか、どうにもならないんですか?手術とか、薬とか?アンナさん」アンナの目から涙がこぼれていた。「ピースは、悪性リンパ腫という病気なの。しかも、終末期の・・天命を受け入れる意外なのよ。だからといって、動揺しちゃダメ。ヒフミンのピースへの思いは、将棋で勝つことよ。わかる。つらいと思うけど。対局で勝って、ピースを天国に見送ってあげて」

 

 ヒフミンには、これ以上の言葉は出てこなかった。「わかりました。ピースをお願いします。ありがとうございました」呆然となったヒフミンは、力なく電話を切った。アンナは、ちょっと不安になった。ピースの危篤を知って、試合に負けてしまうのではないかと。ヒフミンは、明日に対局を控えていたが、頭の中は真っ白になっていた。現在、ヒフミンは、破竹の勢いで竜王戦の予選を勝ち抜いていた。本戦に向けて、あと一歩のところまで来ていた。

 

 ヒフミンは、心を落ち着かせ考えた。”あと三日の命ということは、命は金曜日まで”ということだ。明日、水曜日のNHK杯予選の対局は、キャンセルできない。でも、木曜日の竜王戦予選の対局は、不戦敗にできる。おじいちゃんが危篤といって、明日の対局後、すぐに、伊丹空港から、飛行機で糸島に帰ろう。水曜日の夜には到着できる。きっと、間に合う。それまで、ピース、生きていてくれ。

 

 しかし、竜王戦予選の大切な対局を不戦敗していいものか。もし、嘘が発覚すれば、師匠から破門されるかもしれない。師匠には、正直に話し、承諾を得なければならい。もう、俺はプロだ。とにかく、師匠に本当のことを言って、糸島行きを許してもらおう。翌日の対局は、いつもの棒銀戦法で苦戦を強いられたが、かろうじて、勝利した。対局後、ピースの危篤のことを話すために、自宅に飛んで帰った。

 

春日信彦
作家:春日信彦
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