想念

物と想念について

私の人生は、物を大切にすることで輝き始めました。しかし、今、想念を大切にすることに移り変わりつつあります。

 

物であって物でないものが、この世にはあります。四つ葉のクローバーもそうですし、髪の毛もそうですね。こういうものには、鍵があります。願いや思いがこもっているのです。

 

例えば、今私の大切なものは、こうして書くことです。書いたものは、物としてはあまり認識できませんが、これも、物であって物でないもの、想念への移り変わりと言っていいでしょう。

 

物だけを大事にすることから抜け出していくことは、前向きに生きていく力を押し出します。

何かをすることを、物と想念の間のものが、あと押しするからです。

 

私は、一つの哲学に答えを出したあと、アクセサリーを買いあさりました。何か自分へのごほうびが欲しかったのでしょう。しかし、こうして書き続ける、物と想念の間の宝を見つけ、物には決してできない、前に進む力をもらいました。

 

物にこだわっていれば、停滞するだけだとわかったのです。

アクセサリー

しかし、今、私は二つのネックレスを大切にしています。いつもポケットに入れて持ち歩いています。それは何故か。

 

想念というものは、この世ではとてもとらえにくいのです。

もし、この二つのアクセサリーがないと、私はいつも何かを追い求めてしまう。

例えば、必要でないものを買ったり、いつも何か不満を感じて生きてしまう。

創価学会について。真光との違い

私が今付き合っている人は、創価学会に入っています。しかし、何かを持っている・・・という、「持っている人」に見えます。いつも満ち足りて、不満を言わず、ただ、日々を楽しみ、真面目に生きています。

 

私が、何か宝物はあるの?と聞くと、その人は、「御本尊様」と答えてくれました。彼の家には、御本尊様という、仏壇のようなものがあります。私が、同じようなものが欲しくて神棚を買おうとしたら、その人は、やめとき、と言いました。

 

私は、宗教には入っていません。しかし、以前、真光に入っていたことがありました。真光とは、おみたま、というものを身につけると、全てのことから守られる、という、思い上がった宗教です。しかも、自分たちの宗教を、「宗教」とは言いません。「崇教」という、他の一切を統べるものだと言っています。

 

この、「宗教」は、危険思想です。何故なら、「おみたま」をもらったが最後、何も努力を重ねなくても守られると思ってしまうからなのです。

 

おみたま、と、アクセサリー

私は、真光を、すぐにやめました。真光に誘ってきた、ピアノの先生が、こう言ったからです。「力というものは、おみたまにしか宿らない。」

私はそれはおかしいと思いました。力は、想念です。観念です。信じれば、何にでも力は入るはずなのです。持ち主の心がきれいであれば。

 

以前、私が好きになった人は、いつも左手にパワーストーンをつけていました。私が今持っている、二つのネックレスも、パワーストーンのような、数珠のような形をしています。

 

私は、今、ネックレスにこの形が流行っているのは、宿命のような気がしてならないのです。

このネックレスがパワーストーンに似ていると思ったとき、私は好きだった人に連絡をとりたくなったのですが、きっぱりとやめました。

 

あの、パワーストーンをつけていた人が、今も、パワーストーンをしていても、私とは何のつながりもない。あの人のパワーストーンは、「自分は、助かりたい!!」という、「おみたま」にすぎないから・・・。

karinomaki
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