く微笑して、大手町の駅を颯爽と歩んで行った。
【第2章 エステに通う男】
永瀬の密かな趣味は、2011年11月にさかのぼる。同年の東日本大震災。あの災害が起きたことで、いつ死ぬか分からないと強く感じて、ならば明日死んでも良いように、やり残したことをやりたい、と考えたとき、自然に浮かんだのが「女性のように、美しい、贅をこらした衣装を着てみたい」であったのだ。
十代の頃に自らの願望に気がついてはいた。高校2年になったある日、谷崎潤一郎の短編小説「秘密」を読んで、そのなかに、
「藍地に大小あられの小紋を散らした女物の袷が眼についてから、急にそれが着て見たくてたまらなくなった。」との文章に、ここに自分の同類がいるとは、と大きな驚きと喜びを感じたのだ。
だが、それだけだった。少年だった永瀬は、このような性癖が笑い者にならないか、つまはじきにならないか、という懸念の方が強かったし、谷崎潤一郎のような芸術的センスも文才もないことも自覚していた。だから、好きになって告白したガールフレンドにさえ自分の心の奥底は打ち明けなかった。ただ、彼女の着ているブラウスやスカートを、「わぁ、今日の服可愛いね」と笑顔で触るだけで。
ファッションデザイナーになれば美しい衣服と一緒にいられるという発想がなかったのは、多分に「一流企業に入れば生涯安泰」と考える家庭に育ったせいだと永瀬は思う。
一生懸命勉強し慶応義塾大学に入り殿馬証券に入社したことで、それはかなった。ただし、2008年から年俸制が導入されたので、来年の収入は3割減、という事態もあり得るのだ。
(リサーチ・アナリストなんて、契約社員に置き換えよう、という発想が出ても何の不思議もないからな、いまのご時世は)
(おれの能力は中途半端だ。ゴールドマンサックスやHSBC といったグローバル金融に転職するには英語力が足りないし、世間が刮目する金融商品をつくるには、数学力が足りない。多分おれの出世は頭打ちだ。殿馬ホールディングス