芸術の監獄 ジャン・バラケ(後編)

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ジャン・バラケ(後編)( 2 / 3 )

ブーレーズはバラケと違って、「大スター」になったわけだが、50年代末頃は両者の名声は拮抗していた。やはりバラケは、寡作なのがたたった、と言わざるを得ない。ブーレーズは1年に3作くらい書いて、その上論文を書くような人ですからね。私は「ピアノソナタ2番」は好みに合わなかったが、彼の「Pli selom pli 襞にそって襞」(1960年)は好きである。これは、フランスの大詩人ステファヌ・マラルメの詩を構成し直して曲をつけたもので、「文学と音楽との接近」の例として挙げることができる。だが、50年代のブーレーズが熱中していた詩人はルネ・シャールで、彼はシャールの詩編をむさぼり読んで暗記していた。(のちに、シャールの「Le marteau sans maitre 主なき槌」がブーレーズの器楽曲の代表作と呼ばれることになる)



 

そして、文学作品に深い造詣を持つ新進の学者が、この音楽家たちと出会うこととなる。彼の名前はミシェル・フーコー。1926年生まれだから、バラケより2歳上。1951年に哲学の教授資格試験に合格し、フランス独自の「学術文化のエリート公務員」(いや、そんな名称は本当はないのですが)の道を踏み出した青年だった。

 

バラケとフーコーの関係は、一部の人々の間では妙に有名になってしまって、かえって書きづらいのだが、端的に書くと、2人は恋愛関係に至ったのですね。

ずいぶん長い間、このことは噂にすら上らなかった。(まあ、「僕たち同性愛です!」などといえる時代ではなかった)有名になってからのフーコーは、少しづつ少しづつ「自分のセクシュアリティ」「同性愛者である自分の生存の美学」などについて発言していったが、その時にはバラケはすでに死亡していた。

 

フーコーは、意識せずしてバラケの人生を大きく変えた。なぜなら、「ウェルギリウスの死」をバラケに紹介したのがフーコーだからだ。

 

2人が出会ったのは、1952年から53年にかけてのことで、最初はフーコーとブーレーズが意気投合し、その後バラケと出会った。フーコーの最大の目標は「ジャン=ポール・サルトルを越える哲学者になる」こと。今では考えられないが、実存主義哲学というのは当時は、「可能性に満ちた新しい時代の哲学」だった。しかし、この神経過敏な青年には(フーコーは学生時代、しばしば自殺騒ぎを起こした)サルトルのテクストの、その哲学の「落ち度」が見えていた。いずれ彼は、サルトルの権威を引きずり下ろすことになるだろう。歴史の証拠資料を、自身の社会批判の主張の周りに美術品のごとくに配置し、鮮烈で単純なイメージと、陰影のある仮説と、その忍耐強い証明の記述によって。

 

先走ってしまったが、当時のフーコーはあくまでも「学者の卵」である。ニーチェに没頭し、覆面批評家モーリス・ブランショの書評を毎月読み、その神秘性にあこがれていたようだ。実は私もブランショのファンで、今でも著作の文章を書き留めている。例えば:

「象徴は物語であり、その物語の否定であり、その否定の物語である。」

「意味は説明から解放されてこそ説明であるが、説明と不可分であればこそ説明ともなる」

 

分かりやすいですね、という冗談はさておき、「ウェルギリウスの死」の書評を書いたのがまさにブランショだった。なんというか、文学ー哲学ー音楽、の綺麗な連関ができてしまっている。
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深良マユミ
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