おじいちゃんもう一度最期の戦い

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おじいちゃんもう一度最後の戦い

CONTENTS




おじいちゃん流の人助け


おじいちゃん、隣人トラブルに魔女投入


おじいちゃん、息子殺害を決意

おじいちゃんもう一度最後の戦い

イラスト:スケコロ

序 章( 1 / 1 )

おじいちゃんもう一度最後の戦い



  序章



 俺の名前はほしなおという。

21歳で、美術専門学校は出たけど無職で、いろいろ最低だ。

 住んでいる所も最低だ。西にしとうきょう市にある公団はっこう団地という、西東京だけじゃなく全国的にもトップクラスの荒廃団地で、年寄りと犯罪と孤独死が多すぎる。こういえば大体想像がつくと思う。

 正確にはわからないけど1500人くらい住んでいて、住民同士ははっきりいって仲が悪い。なんでこんなに感じの悪い人間ばっかり集まってしまったんだろうって思う。特に年寄りがひどい。ひどすぎるんだ。頭のおかしい奴や、すぐにカッとなって刃物持ち出す奴や、マナーという言葉を知らない奴とか、そんなのばっかりだ。まぁ、ダメな野郎や性悪ビッチが年取って急に人間が丸くなって優しくなるなんてことあるわけがないってことなんだ。ここには感じのいいほがらかなおじいさんおばあさんなんて一人もいない。もっともそういういいおじいちゃんやおばあちゃんなら、こんな所には住もうとしないだろう。

 俺がここに越してきたのは20歳になったばかりの頃だ。

 それまでは区のじんぼうちょうっていう、東京駅にも近いまさに東京の真ん中で、そのわりにはうるさすぎない街に住んでいた。

 俺の家族が住んでいた高層マンションの周りには出版社がたくさんあった。俺の父親も出版社に勤めていた。そんなに大手ではないけど。そこで俺が一生買うことも読むこともないような趣味の本とか占いの本とかを作る編集者だったんだ。

 さっき俺は「いろいろ最低」と言ったけど、その中でも、特に最低なのが、残念ながら俺の父親なんだ。

 親父はたけといって、今51歳だ。

 俺がかん神保町っていう知的な都会から、こんなひどい荒廃団地に住まなきゃならなくなったのも、全部親父のせいだ。

 親父が何か悪いことしたのかだって?

 まず言っとくけど、親父は罪を犯してはいない。電車内で痴漢したわけでもないし、飲み屋で気に入らない客と口論になって殴ったりもしていないし、東日本大地震の時に大勢の人がやったような、他人の自転車を盗んで帰宅したってわけでもない。

 じゃあ、何をやらかしたのか。

 ツイッターは知ってるよね、みんな。

 実名でも匿名でもいいからアカウント作って、気になる著名人や友達同士でフォローしたりされたりして、みんなで「つぶやく」んだ。

 親父もツイッターをやっていたんだ。俺も母さんも全然知らなかったけど。母さんのことは後で話す。まず親父だ。

 ある日、帰宅した親父の様子がすごく変だった。

 ネクタイを大きく緩め、スマートフォンを握り締めて帰宅して、母さんの「おかえりなさい」にも応えず、俺が座っていたソファに鞄を投げて「くそっ、ああくそっ」とつぶやきながら書斎に駆け込んだんだ。

 これまで不機嫌な親父は数え切れないほど見ていたけど、この夜の親父は不機嫌というより、怒りとおびえがごちゃまぜになっているという感じだった。

 会社でトラブルがあったんだろうか。

 俺はその時『iカーリー』のDVDを観ていたんだけど、親父が気になって集中できなくなった。

「あなた夕飯まだなんでしょ?」

 母親が話しかけると、親父はドアの向こうから「あとだぁっ!」と怒鳴った。

 やがて書斎からパソコンのキーを乱暴に叩くがちゃがちゃという音が聞こえ出した。

 それを聞いて俺は、ものすごく急な原稿の修正とか、そういう仕事ができて、あまりにも急なのでそれでてんぱっているんじゃないかと思った。

 もし、そうなら俺が心配することはあまりないなと思った。たかが仕事なんだし。

 おかげで『iカーリー』にまた集中できた。ちなみに俺はミランダ・コスグローブが好きだ。明るくて、ひょろっと細長いけどセクシーで、多分俺がこの先いくら長生きしても会えなさそうなところがいい。気軽に会いに行けるアイドルなんて安いよ。

 深夜0時を過ぎてもまだ書斎から仕事している音が聞こえた。

 そして時折「ふざけ……」「畜生……」「ああもう!」などというおとない呟きとも悪態ともつかない声が聞こえた。


 翌朝、俺の小さな寝室の壁越しに親父の声が聞こえてそれで起きてしまった。時計を見たら5時10分くらいで、そんな時間に一体誰と話してるんだろうと思った。

「……まことにもうしわけありません……ええ、はい……はい」

 親父が誰かにしきりと謝っている。

 たかが仕事でてんぱっているだけだと思って落ち着いていた俺の心臓がまたざわつき始めた。

 何かよっぽど大きなミスでもしたんだろうか。それとも原稿が間に合わないんだろうか。親父が誰かに平謝りするのなんて聞いたことがなかった。

「わかりました。すぐに伺います。……1時間以内に必ず。……はい、あの全部消したんですが、すでに大勢にふぁぼられてしまいまして、ツイート収集サイトにも……まことにもうしわけありません……はい! はい、すぐまいります」

 (ふぁぼられてしまいまして)という言葉で、ツイッターが絡んでいることがわかった。発言は全部消したけどすでに大勢ふぁぼられた……て親父、ツイッターやってたのか?

「くそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそ!」

 親父が突然「くそ」を10数連発したので俺は怖くなった。

 親父がドアを開ける音がしたので、俺も部屋のドアから顔をのぞかせた。するとおやじが洗面所に駆け込んで、顔を水でじゃぶじゃぶ洗っていた。いや、水をぶっかけていたと言った方が正しいだろう。俺がそんなふうに乱暴に顔を洗ったら文句をいうくせに、親父が俺の数倍も乱暴に顔を洗っている。

 しかも、なんと昨夜帰宅してから着替えていなかった。白い下着のシャツは真夏でもないのに汗でびったりと貼りついている。

 突然親父が水を出しっぱなしで、トイレに飛び込み「ぶおろええええ!」と物凄い音でゲロを吐いた。

 さすがに黙って見ていられず、俺は部屋から出た。

「父さんどうしたの?」

「あなたどうかしたの?」

 母さんも寝室から出てきた。

「いいんだほっとけ!」

 親父は怒鳴り、トイレを流すとまた洗面所で口をゆすぎ、それから水を出しっぱなしにしていきなり肌着を脱いで新しいものを着て、書斎に駆け込んだ。

「なんなの騒々しいわねぇ」

 母親は文句を言って流しっぱなしの水を止めた。

「どうしたのよいったい!」

 母さんの問いかけにも応えず、親父はワイシャツを着てネクタイをパンツのポケットに突っ込んで出てきた。

 そして上着も羽織らず、昨夜自分がソファに放った鞄を持って、「いってきます」ともなんとも言わずに家を出て行った。

 たった4、5分のことだった。


 その日は午後から専門学校で就職相談があったけど、親父が気になってそれどころじゃなかった。

 俺もだいぶ前にツイッターのアカウントは作っていたけど、俺みたいな卒業したら無職決定のつまんない男が呟いたところで誰が気にかけてくれるわけでもないことに気づいたのと、たまたま俺がフォローした人間たちが期待したほど面白いこと呟かなくて、24時間ひたすら愚痴女とか、他人の発言のリツイート中毒野郎とか、自分のブログへの誘導ツイートオンリー自称芸能人の女とか、ろくなのがいないんで見るのをやめてずっと放置していた。

 久しぶりにログインするとみんな相変わらずで、愚痴女はいつまでも愚痴女、リツイート中毒はいつまでもリツイート中毒、誘導女は永遠に誘導女だった。誰も何も改めていないのが笑えた。別にいいけど。

 もしかしたら親父のアカウントを突き止められるんじゃないかとうっすら期待したんだ。

 そしたら俺がフォローしているリツイート中毒者の今日午前3時ごろRTの中に、非常に気になるものを見つけた。

「お前もイラマってやろうか!」レイプ推進出版人が臨界爆発するまでのまとめ。

 親父も出版人だから、まさかと思ってまとめに飛んでみた。


10分後、俺は今朝の親父と同じようにトイレでゲロ吐いていた。

 結論から言うと、問題の「お前もイラマってやろうか!」レイプ推進出版人は間違いなく俺の親父だった。

 なぜ確信できたかというと、胸糞悪くなるまとめをざっと読んでからそいつのアカウントのプロフィールを見たら(本の町・神田でゆるゆる、時にキツキツ働く出版人。大人のお酒、70年代ギターロック(洋楽メイン)、60年代超大作クラシック映画、ノージャガイモのカレー、ジョギング、朝風呂、湿度の低い朝。フォローリムーブご自由に)と書いてあって、全部俺の親父が好きな物事だったんだ。

 ここまで全部一致してて別人なんてことがあるわけないだろ?

 簡単に「まとめ」てしまおう。

 親父は、親友が元カレからレイプされたという大学生の女の子のツイートに絡んで、地位と良識のある社会人が決して言ってはならないことを連発してしまったのだ。

 勿論、親父以外にも大勢の男、女もいた、がこの女子大生にすごく気持ち悪い感じに絡んで、しかもその女子大生も微妙に頭悪い感じの自分大好き親友大好きな女で、正直どっちもどっちもだったんだけど、親父はその女子大生に勢いで「だったらお前が親友の身代わりになりゃよかっただろ」、「お前、どこのバカ大学だ? 実は高卒じゃないのか? 大卒の文章じゃないぞ」、「実はやられたのは親友じゃなくてお前じゃないのか? お前みたいなアホに親友なんかいるわけがない」などとねちねち絡み、その女子大生がキレて「あんた自分が恥ずかしくないのかよ!」と親父にリプライしたら、遂に親父は「お前もイラマってやろうか!」と返してしまった。

 その時にはもう、親父と女子大生の一騎打ちになっていて、他のヒマ人たちは見物に回って面白がっていた。

 さすがに親父はまずいと感じ、すべての問題発言を削除したけど、時すでに遅しでリツイートやお気に入り登録されまくって、2チャンネルにもスレッドが乱立していて完全なお祭りになっていた。

 残念だけど、これが親父のしたことだ。


 昼近くなって、嫌なことを考えたくないので外に出て新鮮な空気を吸ってこようとシャワーを浴びて着替え、じゃあ行くかとなったところで親父が帰ってきた。

 まさかそんな早い時間に帰ってくるとは思わなかったので、俺はますますうろたえた。

 俺以上にうろたえたのが母さんだった。そりゃそうだ、夫が普段なら仕事してるはずの時間に突然帰ってきたら心臓破れそうになるだろう。

「どうしたのよ!」

 母さんが訊くと、親父は「………え?」とだけ応えた。

 おやじ、魂が抜けてる!

 本能的に、俺は自分がここにいちゃいけないと強く感じた。ここは夫婦二人だけで話しあった方がいい。子供の俺はいない方がいい。俺はそう感じた。

 実は俺って結構気が利く人間なんだ。なかなかそこをわかってくれる人はいないんだけど。

「ちょっと出かけてくるね」

 俺は言い、あわてて出て行った。

 金もないのに外で時間潰すのは本当に大変だし疲れるんだけど、幸い神田には新刊本屋も古書店もたくさんあって、神田川沿いは散歩の定番コースだし公園もあるから、なんとか3時間ほど時間をやり過ごすことができた。

 よせばいいのに公園でネットにアクセスして、ついに親父が本名と勤務先の出版社までネット上にさらされているのを発見した時は、あまりの恐ろしさに足元に真っ暗で底なしの穴が開いて頭上に照っている太陽でさえなんだかとてつもなく邪悪なものに思えたよ。

 肩が普段の10倍くらいの重さに感じられ、一歩進むごとに足が地面に根を張りそうになったんだけど、俺は頑張って家に帰った。そうするしかないから。


 自分の家のドアの前に立って耳を済ませるなんてこれまでしたことなかった。

 とりあえず、中で怒鳴り合いになっていないことだけはわかったので、鍵を使って開けた。そして「……ただいま」と自分の足元だけを見て言った。

 恐る恐る顔を上げると、リビングのソファで母さんが中古で買った俺の『名探偵モンク』のDVDを観ていたのでおどろいた。主人公が気持ち悪いとか言ってこれまで観なかったくせに。

 しかし母さんはどうもドラマを真剣に観ているわけじゃなくて、とりあえずなんでもいいから映像を流して頭を空っぽにするために眺めているだけのような気がした。つまり、そうしなきゃいけないほど頭が混乱したってことだ。

 親父はいない。

 でも親父の靴はある。昼に帰って脱ぎ捨てたそのまんまだ。

 俺は靴を脱いで上がり、「父さんは?」と小声で訊いた。

「寝てる」

 母さんはそれだけ答えた。俺の顔も見ようとしない。

 何があったの? と訊くのも変だ。何があったのか俺は既に知っているんだから。

「………そう」

 俺はそれだけ言って、静かに自分の部屋に引っ込んだ。

 1時間ほどして夕食になったけど、親父は現れなかった。夕食はとりあえず全部食べたけど、はっきり味なんかわからなかった。 

 親父、どうなるんだろう。

 もしかして親父は会社をクビになるんじゃないか。そんなことを考えながら熟睡なんてできると思う? できるわけないよ。


 翌朝、親父のツイッターアカウントが消えていた。ネットの祭り状態も沈静化に向かいつつあったが、だからといってこの家に平和が戻るわけじゃない。

 絶望のため息をつき、起きてリビングに行くと、親父はまだいなかった。ていうか、絶対俺のこと避けてるよな。

 母さんがキッチンのテーブルに一人、コーヒーの入ったマグカップを前にテーブルに肘をついて固まっていた。

 俺に気づくと顔を上げた。その顔が、ノーメイクだからっていうのもあるけど、恐ろしく老けて見えた。目の下のクマもすごかった。俺と同じで一睡もできてないんだ。

「直人、ちょっと話があるの」

「うん」

 俺は、母さんの斜め向かいに座って、とんでもなく悪い話を聞かされることを覚悟した、いや、本当は覚悟なんかできてなかったけど。

「父さんがね、しばらく会社休むの」

「……そうなんだ」

 理由は知ってるよ、とは言えなかった。

「ちょっと、大きなミスをしちゃってね」

 どうしてツイッターのことを隠すんだろう。

 夫婦で口裏合わせしているのはどうしてなんだ? 決まってる、あんまりにも格好悪いからだ。息子に話せないほどみっともなくて醜いことだからだ。

「……どれくらい、休むの?」

 俺は神妙な顔をして訊いた。

「長くはないわ、きっと数日だと思う」

「……そう」

「父さんには、あんまり構わないであげて」

 親父に詰め寄って(本当の理由はツイッターでのイラマ発言だって知ってんだぞ! なんで嘘つくんだおやじぃ!)とか言って困らせないでくれということだ。

「わかった、そっとしとくよ」

 俺はそう言って、シャワーを浴びるために母さんから離れた。


 その日も、次の日も、親父は姿を見せなかった。俺も頑張って最低6、7時間は外にいようと頑張ったけど、金はないし遊んでくれる友達もいない俺にはすごくきつかった。なんで友達がいないかってことについてはいずれ話すよ、理由はあるんだ。


 次の日の午後に専門学校の就職相談室に行って、もうすぐ20歳という若さにもかかわらずなぜか正規雇用の仕事がまったくないことを知り、そこにいた同じく仕事がない学生たちからたっぷり過ぎるほどの重たくどんよりとした電波を放射能みたいに浴びて、もともと少なかった元気をさらになくして俺は家に帰ることにした。

 本当に金がないので、帰りは歩くことにした。地下鉄でふた駅だから歩けない距離じゃないんだ。

 それにしても1日が長いのなんの。時間の進み方が普段の5倍くらい遅く感じる。


 家に帰りつくと、親父がリビングのソファに足を組んで座っていたので俺の心臓は一瞬で冷えた。

 約90時間ぶりに見た親父の顔は蒼白で、俺や母さんと同じく目の下がパンダみたいにどす黒く、頬がこけて、唇がかさかさに乾いてひび割れていた。

「おかえり」

 親父が言った。俺はまるで「地獄へようこそ」と言われたような気分になった。

「ただいま」

 俺はつとめてほがらかに言い、靴を脱いで洗面所で手を洗ってうがいする。心臓の鼓動がどんどん早くそして大きくなっていく。

 ついでに顔も洗ってからタオルで拭いていると、親父が声をかけた。

「直人、ちょっと話があるんだけどいいか?」

 遂にきた。

「うん、ちょっと待って」

 俺はタオルを顔に押し当てた状態で鼻から大きく息を吸って吐き、こっそり深呼吸した。

 落ち着け、俺。

 洗面所から出ると、親父が尻をずらして俺が座るスペースを作ってくれていた。

「話って、何?」

 俺は明るい声を無理やり作って、親父の隣に座った。

「うん。実は母さんから聞いてたと思うが……父さん、仕事でちょっと大きなミスをやらかしてしまってね」

 やっぱり嘘つきやがる。だから俺の目を見ないんだな。

「処分保留になって、自宅きんしんを命じられていたんだ」

「うん」

 (お前もイラマってやろうか!)ってツイッターで言ったんだろうが。

「で、1時間くらい前に社長から電話がかかってきて、処分が正式に決まったんだ」

 俺は黙って先を促した。

「言いにくいことなんだが……父さん、会社を辞めることになった」

 クビになったんだろうがよ!

 辞めることになったとか、カッコつけてんじゃねえよ!

 俺は自分の父親がこんなつまんない、みっともない男だったってことが、今の今になってやっとわかった。

 昔から親父はカッコつけたがりで、少し差別主義者なところがあった。でも俺や母さんにはまあまあ優しかったら、これまで本気で嫌いになったことはなかったんだ。ムカついた時も後になれば自分が悪かったっていうケースがほとんどだった。

 でも、これは許せなかった。

 息子に嘘ついてまで父親の威厳をたもとうって根性が腐っている!

「怒ってるか?」

 そう訊かれ、何もかもぶちまけてやりたい衝動に駆られた。

 でも、悲しいかな俺には真実を親父に突きつけることができなかった。

 だって、あまりにも親父が弱っていたからだ。そんな親父に追い討ちをかけるだけの覚悟も度胸もサディズムも俺にはない。

「いや……怒ってなんか、いないよ」

 結局、俺はそう言ってしまった。もう怒るタイミングを逃した。

「済まない」

 そこで親父はやっと俺の顔を見た。

「お前も自分の就活で忙しいのに、こんなことに……」

「それは別に、いいよ」

 俺はもごもごと言った。

「でも心配しなくていい。すぐに次の仕事が見つかるから。編集者ってのは、大抵何度か会社を変えるものなんだ。そういう業界なんだ」

 親父と視線を合わせるのがつらかった。

「心配してないよ」

 俺は言った。これ以上親父の顔を見て、嘘の土台に築かれた会話を続けるのがとてつもなく苦痛だった。だから早く会話を終わらせたかったんだ。


 (すぐに次の仕事は見つかるから)と言った親父の言葉も結果として嘘になった。

 親父のしでかしたことは既に業界に知れ渡っていたんだろう、ひと月経っても親父は再就職できなかった。

 夜中に親父と母さんが言い争う回数が増えた。聞きたくないけど聞こえてしまう。

 母さんはもはや出版業界にこだわらないでとにかく今すぐ働いてくれって言う。このままじゃすぐに貯金が底をつく、ここにもいずれ住めなくなる。

 それに対して親父は出版以外の仕事は断固拒否する。そこを譲ったら俺は人間としての最低限の尊厳をなくす、冗談じゃない、と。

 ああ、せめて俺がちゃんと働いていて収入があったら……自分の甲斐性なしぶりが残念すぎる。

 親父の味方するわけじゃないけど、気持ちはわかる。長年出版の世界で生きてきた男が50歳超えていまさら他に何をしろというんだ。掃除人や運転手や荷物運びや給仕なんかに落ちるくらいならいっそ死んだほうがマシだという気持ちになるだろう。

 深夜の口論は日を重ねるごとにヒステリックになっていった。そして親父が次第に劣勢になっていくのもわかった。当たり前だ、もとはといえば親父が悪いんだから。そして俺は完全に傍観者の立場に置かれていた。そして俺自身にも傍観者の立場から一歩前に踏み出す勇気がなかった。俺がヒステリックな口論に乱入して少しでも建設的なことが言えるんだったら、たとえばしばらくは俺が生活費稼ぐからあんまり悲観的になるなよ、とか言えればいいけど、どう考えたって俺はこの家のお荷物だ。


 眠れない夜が続き過ぎて、俺はまっ昼間に公園のベンチで何度も瞬間的な眠りに落ちたり、学校やハローワークに行った帰りにぼおっとして車にかれかけたことも数回あった。

 食欲がなくなり、一気に4キロ痩せた。髪の毛も結構抜けた。何かまともなことを考えようとしても断片的なネガティブ言葉がミニマルテクノみたいに延々とループしているだけでとても考えているとはいえない。

 とにかく、なんでもいいからこの状況が変わって欲しかった。できるだけ早く。


 親父がクビになってから44日目。

 公園からわざと小さな歩幅で30分かけて帰宅する途中、自宅から俺のスマートフォンに電話がかかってきた。

 ──直人今どこにいるの?

 母さんだった。

「今、帰るところだよ」

 ──そう。ちょっと話したいことがあるの。

「……うん、わかった」

 それだけ言って切った。俺はこれまでの小さな歩幅を取り返すように股が裂けそうな歩幅で歩き出した。だけど走る元気はなかった。


「お前を驚かせたくはないんだが、私たちは引越すんだ」

 憔悴しょうすいしきってミイラに一歩近づいたような親父からいきなりそう言われた。

「え……」

 それしか言葉が出なかった。

 再就職が決まったわけじゃなかったんだ。

「というか引越しせざるを得ないんだ、今の経済状況では」

 俺は追加の説明を求めるような目で母さんを見たが、母さんは残念そうに、黙ってうなずくだけだった。

 そうか、この家の経済状況、実はかなり余裕がなかったんだな。知らなかったよ、俺は。事態の深刻さが俺のはらわたに爪を立てて掻きむしるようだ。

「……どこに引越すか、もう決まったの?」

 俺は引きつった喉からなんとか声を絞り出して訊いた。

 まさか、地方とか言わないよね? 俺は、それはできないよ、無理だよ。地方は怖いよ、パチンコ天下だから。他にも色々嫌だ。

「実は、すごく久しぶりに父さんに電話して相談したらな……」親父が言う。

 それはつまり俺のおじいちゃんということだ。

 おじいちゃんの名前はいわおだ。

「父さんの団地に空きが一杯あるから越してこいよって言われたんだ。家賃も安いし……」

「どこなの? その団地」

 俺は親父を遮って訊いた。

 実を言うと、俺はおじいちゃんがどこにいるのか知らない。

 俺は親父とおじいちゃんが仲悪いことだけ、子供の頃に母さんから聞いて知っている。原因はわからないけど、なんかあったんだろう。子供心に触れてはいけないタブーなんだと感じていた。

「西東京市だよ」

 親父のその答えに、俺は詰めていた息を鼻からそっと吐いた。とりあえず地方じゃないとわかってほっとした。

「直人はほとんど会ったことないんだよな、おじいちゃんに」

 親父の口元が気味悪い感じに歪んだ。微笑ほほえんだつもりらしい。

「うん」

 確か幼稚園時代に1度、親戚の何かの集まりで会った気がするが鮮明な記憶がない。顔も思い出せない。

 今回のことがきっかけで、親父は巌じいちゃんと仲直りしたんだろうか。したんだよな、きっと。

 仲直りしたからこそ、団地に住めよっていう話が出たんだ。

 団地か……どんな所なんだろう。いや、その前に……。

「じいちゃんて、元気なの?」

 もしかしておじいちゃんが介護を必要としてるんじゃないかと思ったんだ。だから自分の住んでる団地に来てもらいたかってるんじゃないかと。もしそうなら、1番暇な俺がそれを任されるかもしれない。

「大丈夫だ」親父ははっきりと言った。「すごく元気だ。まだ現役でギターのリペアマンをやってるんだ」

 よかった。介護はしなくていいんだ。じいちゃんて、ギターのリペアマンだったんだ。

「それで、いつ引越すの?」

「もう話はまとまった。土曜日に引越す」

 今日は水曜日だった。俺は唖然とした。

「直人、今度の家はこの家よりずっと小さいんだ。だから家族全員、荷物を減らさないといけない」

「どのくらい小さいの?」

 俺は恐る恐る聞いた。

「ここの……3分の1くらいかな」

 そう言われて、まるで俺の未来の可能性が3分の1くらいに縮小するような気分になった。

「こんなことになってすまないと思ってる」

 親父は俺の目を見ずに謝った。

「だけど、ずっとじゃない。いつかきっとまた神田に戻るから、少しの間辛抱してくれ」

 それはないな、と俺は思った。だけど親父がもう1度這い上がってここに戻ってこようと思って頑張るつもりなら、水を差すつもりはない。

「わかったよ、父さん」

 俺はそういうしかなかった。そして心の中で2度とツイッターはやるなよ、とつけ加えた。


 不幸自慢みたいな自分語りにも、そろそろ疲れてきたよ。辛気臭い話だから聞いてるほうも疲れるだろう?

 この後、あわただしく引越しして、おじいちゃんと会って、ここには書きたくないようなこともたくさんあって、なんとか専門学校は卒業したけど全然意味なくって、それで気づいたら俺は20歳を過ぎていた。そして相変わらず無職だ。まだしばらく努力は続けるけど、もうなるようになれって気持ちもある。

 俺のバックグラウンドはこんなもんでいいよね? 自分で語っておいて言うのもなんだけど、つまんない男だよな。

 でも大丈夫、この話の主役は俺じゃないから。

 俺のじいちゃんなんだよ。

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オークス
作家:戸梶圭太 著/スケコロ 画
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