他に無い役割

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 担当の若いナースはいかにも愛情深い天使のような眸をしていた。本当にい
い子だった。
 次の日、彼女は冷たい突き放すような視線を向けた。本当に冷たく、いやい
やながら仕事をした。郁子はわけがわからなかった。

 次にはまた天使の彼女にもどっていた。次にはロボットの視線に。郁子が片
言の英語でデイヴに語ると、同じ人物かい、と尋ねられた。同人物の顔だった。

 上天気はずっと続いていた。デイヴは毎日来て、花壇のある庭を少し散歩し
た。郁子は鏡で蒼白な自分の顔が美しいのを知った。デイヴは郁子に妊娠を強
要したことにはふれず、静かに語った。


「イクコがまだ処置されている間、ジミーは突然僕の腕におしつけられたんだ
よ。簡単に拭かれただけで生まれたてだった。ぜんぜん泣かずに黒い眸を大き
く見開いていた。世界を感じているように。回転椅子を静かに回すと、テーブ
ルのランプの明かりをジミーは目で追った。視線を右に左に動かしたんだ。い
きなり新生児を抱かされて、僕がどんな気持ちだったか想像できる?」

 郁子はそんな様子の夫に満足し、希望をいだいた。家事育児、仕事を平等に
する、それを郁子は結婚の条件にしたはずだが、それが今からためされようと
していた。

 病院の裏庭の明るい夏の日の、希望のような雰囲気を、郁子はその後も忘れ
ないでいた。
 十日もするともう退院だった。下腹には横一文字にピンクのケロイドが凄ま
じいほどだった。                 

 同居していた姑は休暇に出かけたので、夫と新生児の三人暮らしが始まる。
あらゆる仕度は夫の手で準備されていた。ただ、実家では母親の助けがあり、
休養できるはずの部分が、夫は知らないらしく、いきなり日常にもどった。

 まだ出血が続いていたのが、少し増えたように思われた。次第に息を切らす
ようになって、洗濯の水を出しっぱなしにしたり、哺乳瓶を煮立てたまま、い
つの間にかベッドに倒れこんで眠っていたりした。

 夫はお風呂から飛び出してきて怒鳴った。部屋中にゴムの焼けた臭いがこ
もってしまった。次の日には、座ったままどうしても立つことができなく
なった。不思議な脱力感だった。かなりの出血となっていた。


 同じ病院に入院となった。また子宮が充分に元に戻れなくなったのだ。緑の
手術着、麻酔、突然の黒いカーテンのどんという落ち方、繰り返された。

 この時郁子は例の天使のようなロボットのようなナースの秘密がわかった。
やはりそれは別人だったのだ。今回は識別できた。

 ジミーの額の上には一年以上も直径三センチほどの丸い痕が膨れて残っていた。





 思いもよらず、三人の男児を郁子は生んだ。
 ジミーはレゴで対称的な立方体を見事に作るようになったが、それにプラス
して美的な工夫を凝らした。日本の歌をたくさん歌ってやっても歌うようには
ならなかったが。

 郁子が美しい男が好きだったのは、自分より優れた容貌の子となって報いら
れた。息子達のみが自分の為した技であると、それ以外はなにものでもない自
分であるとわかっていく未来が、郁子の前に続いていた。

 まずは幸運が、一家を日本へと連れて行った。望みうる最高の職をデイヴは
大学に得た。
 ジミーは、日本語を解することはできていたのだが、喋ることは出来な
かった。五歳であった。三ヶ月間、教育テレビの子ども番組をだまって観てい
たのだが、突然標準語で話し始めた。英語は理解するが、話さなくなった。


 その後は、幸運を台無しにすることばかりが続いた。阪神と東北の名高い二
つの大地震を体験した。その間の二十年は夫婦の関係をひたすら悪化させた。

 郁子の出産以来、夫婦生活に飢えていたデイヴはすぐに男好きのするホステ
スの手に落ちた。出産以来、夫に疎んじられ、かつなじられてばかりいて、絶
望していた郁子だったが、飢えていたために夫を失いたくなくて、三角関係に
はまり込んでいった。
 
 この間の詳細については墓場までもっていくような悲惨な話ばかりが積み重
なっている。

 最終的にホステスと手が切れたのは、デイヴの入院であった。破滅的な生活
のせいで心臓を悪くしたのだ。

 運良く、体は生き延びてきたのだが、郁子に賭けたデイヴの人生は失敗
だった。関係の修復ができるはずもなく、ただ生活のために日本に、職に、郁
子にしがみついていた。

 しがみつかれた郁子は離婚できない理由を探した。結局は慣れと便利さ
だった。

 充と雅名、忘れたことのない子ども達、郁子はかれらとの絆をいつも信じて
いた。その信頼は正しかった。

 母親は子のあとをストーキングしてまわり、決して目から離さなかった。デ
イヴのせいで頻繁に会うことができなかったが、手紙やメールのやりとりで親
密な絆を保っているところだった。花のように美しく育った二人だった。三人
の誇らしい子どもの存在は郁子を満たしていた。

 郁子は、自分なりの充実感をもとめて生きようとしていた。そんな土曜日の
正午、電話が鳴った。河田雅彦の声だった。


「充が自殺した」

 あの手術されたときのように、黒い幕が郁子の人生に落とされた。
 どんなにのた打ち回って号泣しても訴えても、死はくつがえらなかった。
 誰一人として郁子の感じるものを分かち合えない、それも辛いことだった。
 どんな光もこの闇を照らすことはないと思い知った。

 なんとか生き延びていったそんな十年あまりの後、職場の事情が変わり、デ
イヴの仕事ぶりが非難される時がきた。これが終わりへの序章である。

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東天
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