こころ

下 先生と遺書( 6 / 56 )

「私は縁談の事をそれなり忘れてしまいました。私の周囲を取り捲いている青年の顔を見ると、世帯染みたものは一人もいません。みんな自由です、そうして悉く単独らしく思われたのです。こういう気楽な人の中にも、裏面にはいり込んだら、あるいは家庭の事情に余儀なくされて、すでに妻を迎えていたものがあったかも知れませんが、子供らしい私はそこに気が付きませんでした。それからそういう特別の境遇に置かれた人の方でも、四辺に気兼をして、なるべくは書生に縁の遠いそんな内輪の話はしないように慎んでいたのでしょう。後から考えると、私自身がすでにその組だったのですが、私はそれさえ分らずに、ただ子供らしく愉快に修学の道を歩いて行きました。
 学年の終りに、私はまた行李を絡げて、親の墓のある田舎へ帰って来ました。そうして去年と同じように、父母のいたわが家の中で、また叔父夫婦とその子供の変らない顔を見ました。私は再びそこで故郷の匂いを嗅ぎました。その匂いは私に取って依然として懐かしいものでありました。一学年の単調を破る変化としても有難いものに違いなかったのです。
 しかしこの自分を育て上げたと同じような匂いの中で、私はまた突然結婚問題を叔父から鼻の先へ突き付けられました。叔父のいう所は、去年の勧誘を再び繰り返したのみです。理由も去年と同じでした。ただこの前勧められた時には、何らの目的物がなかったのに、今度はちゃんと肝心の当人を捕まえていたので、私はなお困らせられたのです。その当人というのは叔父の娘すなわち私の従妹に当る女でした。その女を貰ってくれれば、お互いのために便宜である、父も存生中そんな事を話していた、と叔父がいうのです。私もそうすれば便宜だとは思いました。父が叔父にそういう風な話をしたというのもあり得べき事と考えました。しかしそれは私が叔父にいわれて、始めて気が付いたので、いわれない前から、覚っていた事柄ではないのです。だから私は驚きました。驚いたけれども、叔父の希望に無理のないところも、それがためによく解りました。私は迂闊なのでしょうか。あるいはそうなのかも知れませんが、おそらくその従妹に無頓着であったのが、おもな源因になっているのでしょう。私は小供のうちから市にいる叔父の家へ始終遊びに行きました。ただ行くばかりでなく、よくそこに泊りました。そうしてこの従妹とはその時分から親しかったのです。あなたもご承知でしょう、兄妹の間に恋の成立した例のないのを。私はこの公認された事実を勝手に布衍しているかも知れないが、始終接触して親しくなり過ぎた男女の間には、恋に必要な刺戟の起る清新な感じが失われてしまうように考えています。香をかぎ得るのは、香を焚き出した瞬間に限るごとく、酒を味わうのは、酒を飲み始めた刹那にあるごとく、恋の衝動にもこういう際どい一点が、時間の上に存在しているとしか思われないのです。一度平気でそこを通り抜けたら、馴れれば馴れるほど、親しみが増すだけで、恋の神経はだんだん麻痺して来るだけです。私はどう考え直しても、この従妹を妻にする気にはなれませんでした。
 叔父はもし私が主張するなら、私の卒業まで結婚を延ばしてもいいといいました。けれども善は急げという諺もあるから、できるなら今のうちに祝言の盃だけは済ませておきたいともいいました。当人に望みのない私にはどっちにしたって同じ事です。私はまた断りました。叔父は厭な顔をしました。従妹は泣きました。私に添われないから悲しいのではありません。結婚の申し込みを拒絶されたのが、女として辛かったからです。私が従妹を愛していないごとく、従妹も私を愛していない事は、私によく知れていました。私はまた東京へ出ました。

下 先生と遺書( 7 / 56 )

「私が三度目に帰国したのは、それからまた一年経った夏の取付でした。私はいつでも学年試験の済むのを待ちかねて東京を逃げました。私には故郷がそれほど懐かしかったからです。あなたにも覚えがあるでしょう、生れた所は空気の色が違います、土地の匂いも格別です、父や母の記憶も濃かに漂っています。一年のうちで、七、八の二月をその中に包まれて、穴に入った蛇のように凝としているのは、私に取って何よりも温かい好い心持だったのです。
 単純な私は従妹との結婚問題について、さほど頭を痛める必要がないと思っていました。厭なものは断る、断ってさえしまえば後には何も残らない、私はこう信じていたのです。だから叔父の希望通りに意志を曲げなかったにもかかわらず、私はむしろ平気でした。過去一年の間いまだかつてそんな事に屈托した覚えもなく、相変らずの元気で国へ帰ったのです。
 ところが帰って見ると叔父の態度が違っています。元のように好い顔をして私を自分の懐に抱こうとしません。それでも鷹揚に育った私は、帰って四、五日の間は気が付かずにいました。ただ何かの機会にふと変に思い出したのです。すると妙なのは、叔父ばかりではないのです。叔母も妙なのです。従妹も妙なのです。中学校を出て、これから東京の高等商業へはいるつもりだといって、手紙でその様子を聞き合せたりした叔父の男の子まで妙なのです。
 私の性分として考えずにはいられなくなりました。どうして私の心持がこう変ったのだろう。いやどうして向うがこう変ったのだろう。私は突然死んだ父や母が、鈍い私の眼を洗って、急に世の中が判然見えるようにしてくれたのではないかと疑いました。私は父や母がこの世にいなくなった後でも、いた時と同じように私を愛してくれるものと、どこか心の奥で信じていたのです。もっともその頃でも私は決して理に暗い質ではありませんでした。しかし先祖から譲られた迷信の塊りも、強い力で私の血の中に潜んでいたのです。今でも潜んでいるでしょう。
 私はたった一人山へ行って、父母の墓の前に跪きました。半は哀悼の意味、半は感謝の心持で跪いたのです。そうして私の未来の幸福が、この冷たい石の下に横たわる彼らの手にまだ握られてでもいるような気分で、私の運命を守るべく彼らに祈りました。あなたは笑うかもしれない。私も笑われても仕方がないと思います。しかし私はそうした人間だったのです。
 私の世界は掌を翻すように変りました。もっともこれは私に取って始めての経験ではなかったのです。私が十六、七の時でしたろう、始めて世の中に美しいものがあるという事実を発見した時には、一度にはっと驚きました。何遍も自分の眼を疑って、何遍も自分の眼を擦りました。そうして心の中でああ美しいと叫びました。十六、七といえば、男でも女でも、俗にいう色気の付く頃です。色気の付いた私は世の中にある美しいものの代表者として、始めて女を見る事ができたのです。今までその存在に少しも気の付かなかった異性に対して、盲目の眼が忽ち開いたのです。それ以来私の天地は全く新しいものとなりました。
 私が叔父の態度に心づいたのも、全くこれと同じなんでしょう。俄然として心づいたのです。何の予感も準備もなく、不意に来たのです。不意に彼と彼の家族が、今までとはまるで別物のように私の眼に映ったのです。私は驚きました。そうしてこのままにしておいては、自分の行先がどうなるか分らないという気になりました。

下 先生と遺書( 8 / 56 )

「私は今まで叔父任せにしておいた家の財産について、詳しい知識を得なければ、死んだ父母に対して済まないという気を起したのです。叔父は忙しい身体だと自称するごとく、毎晩同じ所に寝泊りはしていませんでした。二日家へ帰ると三日は市の方で暮らすといった風に、両方の間を往来して、その日その日を落ち付きのない顔で過ごしていました。そうして忙しいという言葉を口癖のように使いました。何の疑いも起らない時は、私も実際に忙しいのだろうと思っていたのです。それから、忙しがらなくては当世流でないのだろうと、皮肉にも解釈していたのです。けれども財産の事について、時間の掛かる話をしようという目的ができた眼で、この忙しがる様子を見ると、それが単に私を避ける口実としか受け取れなくなって来たのです。私は容易に叔父を捕まえる機会を得ませんでした。
 私は叔父が市の方に妾をもっているという噂を聞きました。私はその噂を昔中学の同級生であったある友達から聞いたのです。妾を置くぐらいの事は、この叔父として少しも怪しむに足らないのですが、父の生きているうちに、そんな評判を耳に入れた覚えのない私は驚きました。友達はその外にも色々叔父についての噂を語って聞かせました。一時事業で失敗しかかっていたように他から思われていたのに、この二、三年来また急に盛り返して来たというのも、その一つでした。しかも私の疑惑を強く染めつけたものの一つでした。
 私はとうとう叔父と談判を開きました。談判というのは少し不穏当かも知れませんが、話の成行きからいうと、そんな言葉で形容するより外に途のないところへ、自然の調子が落ちて来たのです。叔父はどこまでも私を子供扱いにしようとします。私はまた始めから猜疑の眼で叔父に対しています。穏やかに解決のつくはずはなかったのです。
 遺憾ながら私は今その談判の顛末を詳しくここに書く事のできないほど先を急いでいます。実をいうと、私はこれより以上に、もっと大事なものを控えているのです。私のペンは早くからそこへ辿りつきたがっているのを、漸との事で抑えつけているくらいです。あなたに会って静かに話す機会を永久に失った私は、筆を執る術に慣れないばかりでなく、貴い時間を惜むという意味からして、書きたい事も省かなければなりません。
 あなたはまだ覚えているでしょう、私がいつかあなたに、造り付けの悪人が世の中にいるものではないといった事を。多くの善人がいざという場合に突然悪人になるのだから油断してはいけないといった事を。あの時あなたは私に昂奮していると注意してくれました。そうしてどんな場合に、善人が悪人に変化するのかと尋ねました。私がただ一口金と答えた時、あなたは不満な顔をしました。私はあなたの不満な顔をよく記憶しています。私は今あなたの前に打ち明けるが、私はあの時この叔父の事を考えていたのです。普通のものが金を見て急に悪人になる例として、世の中に信用するに足るものが存在し得ない例として、憎悪と共に私はこの叔父を考えていたのです。私の答えは、思想界の奥へ突き進んで行こうとするあなたに取って物足りなかったかも知れません、陳腐だったかも知れません。けれども私にはあれが生きた答えでした。現に私は昂奮していたではありませんか。私は冷やかな頭で新しい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています。血の力で体が動くからです。言葉が空気に波動を伝えるばかりでなく、もっと強い物にもっと強く働き掛ける事ができるからです。

下 先生と遺書( 9 / 56 )

「一口でいうと、叔父は私の財産を胡魔化したのです。事は私が東京へ出ている三年の間に容易く行われたのです。すべてを叔父任せにして平気でいた私は、世間的にいえば本当の馬鹿でした。世間的以上の見地から評すれば、あるいは純なる尊い男とでもいえましょうか。私はその時の己れを顧みて、なぜもっと人が悪く生れて来なかったかと思うと、正直過ぎた自分が口惜しくって堪りません。しかしまたどうかして、もう一度ああいう生れたままの姿に立ち帰って生きて見たいという心持も起るのです。記憶して下さい、あなたの知っている私は塵に汚れた後の私です。きたなくなった年数の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかにあなたより先輩でしょう。
 もし私が叔父の希望通り叔父の娘と結婚したならば、その結果は物質的に私に取って有利なものでしたろうか。これは考えるまでもない事と思います。叔父は策略で娘を私に押し付けようとしたのです。好意的に両家の便宜を計るというよりも、ずっと下卑た利害心に駆られて、結婚問題を私に向けたのです。私は従妹を愛していないだけで、嫌ってはいなかったのですが、後から考えてみると、それを断ったのが私には多少の愉快になると思います。胡魔化されるのはどっちにしても同じでしょうけれども、載せられ方からいえば、従妹を貰わない方が、向うの思い通りにならないという点から見て、少しは私の我が通った事になるのですから。しかしそれはほとんど問題とするに足りない些細な事柄です。ことに関係のないあなたにいわせたら、さぞ馬鹿気た意地に見えるでしょう。
 私と叔父の間に他の親戚のものがはいりました。その親戚のものも私はまるで信用していませんでした。信用しないばかりでなく、むしろ敵視していました。私は叔父が私を欺いたと覚ると共に、他のものも必ず自分を欺くに違いないと思い詰めました。父があれだけ賞め抜いていた叔父ですらこうだから、他のものはというのが私の論理でした。
 それでも彼らは私のために、私の所有にかかる一切のものを纏めてくれました。それは金額に見積ると、私の予期より遥かに少ないものでした。私としては黙ってそれを受け取るか、でなければ叔父を相手取って公沙汰にするか、二つの方法しかなかったのです。私は憤りました。また迷いました。訴訟にすると落着までに長い時間のかかる事も恐れました。私は修業中のからだですから、学生として大切な時間を奪われるのは非常の苦痛だとも考えました。私は思案の結果、市におる中学の旧友に頼んで、私の受け取ったものを、すべて金の形に変えようとしました。旧友は止した方が得だといって忠告してくれましたが、私は聞きませんでした。私は永く故郷を離れる決心をその時に起したのです。叔父の顔を見まいと心のうちで誓ったのです。
 私は国を立つ前に、また父と母の墓へ参りました。私はそれぎりその墓を見た事がありません。もう永久に見る機会も来ないでしょう。
 私の旧友は私の言葉通りに取り計らってくれました。もっともそれは私が東京へ着いてからよほど経った後の事です。田舎で畠地などを売ろうとしたって容易には売れませんし、いざとなると足元を見て踏み倒される恐れがあるので、私の受け取った金額は、時価に比べるとよほど少ないものでした。自白すると、私の財産は自分が懐にして家を出た若干の公債と、後からこの友人に送ってもらった金だけなのです。親の遺産としては固より非常に減っていたに相違ありません。しかも私が積極的に減らしたのでないから、なお心持が悪かったのです。けれども学生として生活するにはそれで充分以上でした。実をいうと私はそれから出る利子の半分も使えませんでした。この余裕ある私の学生生活が私を思いも寄らない境遇に陥し入れたのです。

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作家:夏目漱石
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