蟹工船

五( 3 / 3 )

 夜になった。
「一万箱祝」を兼ねてやることになり、酒、焼酎、するめ、にしめ、バット、キャラメルが皆の間に配られた。
「さ、親父のどこさ来い」
 雑夫が、漁夫、船員の間に、引張り凧になった。「安坐さ抱いて見せてやるからな」
「危い、危い! 俺のどこさ来いてば」
 それがガヤガヤしばらく続いた。
 前列の方で四、五人が急に拍手した。皆も分らずに、それに続けて手をたたいた。監督が白い垂幕の前に出てきた。――腰をのばして、両手を後に廻わしながら、「諸君は」とか、「私は」とか、普段云ったことのない言葉を出したり、又何時もの「日本男児」だとか、「国富」だとか云い出した。大部分は聞いていなかった。こめかみと顎の骨を動かしながら、「するめ」を咬んでいた。
「やめろ、やめろ!」後から怒鳴る。
「お前えなんか、ひっこめ! 弁士がいるんだ、ちアんと」
「六角棒の方が似合うぞ!」――皆ドッと笑った。口笛をピュウピュウ吹いて、ヤケに手をたたいた。
 監督もまさか其処では怒れず、顔を赤くして、何か云うと(皆が騒ぐので聞えなかった)引っ込んだ。そして活動写真が始まった。
 最初「実写」だった。宮城、松島、江ノ島、京都……が、ガタピシャガタピシャと写って行った。時々切れた。急に写真が二、三枚ダブって、目まいでもしたように入り乱れたかと思うと、瞬間消えて、パッと白い幕になった。
 それから西洋物と日本物をやった。どれも写真はキズが入っていて、ひどく「雨が降った」それに所々切れているのを接合させたらしく、人の動きがギクシャクした。――然しそんなことはどうでもよかった。皆はすっかり引き入れられていた。外国のいい身体をした女が出てくると、口笛を吹いたり、豚のように鼻をならした。弁士は怒ってしばらく説明しないこともあった。
 西洋物はアメリカ映画で、「西部開発史」を取扱ったものだった。――野蛮人の襲撃をうけたり、自然の暴虐に打ち壊されては、又立ち上り、一間々々と鉄道をのばして行く。途中に、一夜作りの「町」が、まるで鉄道の結びコブのように出来る。そして鉄道が進む、その先きへ、先きへと町が出来て行った。――其処から起る色々な苦難が、一工夫と会社の重役の娘との「恋物語」ともつれ合って、表へ出たり、裏になったりして描かれていた。最後の場面で、弁士が声を張りあげた。
「彼等幾多の犠牲的青年によって、遂に成功するに至った延々何百哩の鉄道は、長蛇の如く野を走り、山を貫き、昨日までの蛮地は、かくして国富と変ったのであります」
 重役の娘と、何時の間にか紳士のようになった工夫が相抱くところで幕だった。
 間に、意味なくゲラゲラ笑わせる、短い西洋物が一本はさまった。
 日本の方は、貧乏な一人の少年が「納豆売り」「夕刊売り」などから「靴磨き」をやり、工場に入り、模範職工になり、取り立てられて、一大富豪になる映画だった。――弁士は字幕にはなかったが、「げに勤勉こそ成功の母ならずして、何んぞや!」と云った。
 それには雑夫達の「真剣な」拍手が起った。然し漁夫か船員のうちで、
「嘘こけ! そんだったら、俺なんて社長になってねかならないべよ」
 と大声を出したものがいた。
 それで皆は大笑いに笑ってしまった。
 後で弁士が、「ああいう処へは、ウンと力を入れて、繰りかえし、繰りかえし云って貰いたいって、会社から命令されて来たんだ」と云った。
 最後は、会社の、各所属工場や、事務所などを写したものだった。「勤勉」に働いている沢山の労働者が写っていた。
 写真が終ってから、皆は一万箱祝いの酒で酔払った。
 長い間口にしなかったのと、疲労し過ぎていたので、ベロベロに参って了った。薄暗い電気の下に、煙草の煙が雲のようにこめていた。空気がムレて、ドロドロに腐っていた。肌脱ぎになったり、鉢巻をしたり、大きく安坐をかいて、尻をすっかりまくり上げたり、大声で色々なことを怒鳴り合った。――時々なぐり合いの喧嘩が起った。
 それが十二時過ぎまで続いた。
 脚気で、何時も寝ていた函館の漁夫が、枕を少し高くして貰って、皆の騒ぐのを見ていた。同じ処から来ている友達の漁夫は、側の柱に寄りかかりながら、歯にはさまったするめを、マッチの軸で「シイ」「シイ」音をさせてせせっていた。
 余程過ぎてからだった。――「糞壺」の階段を南京袋のように漁夫が転がって来た。着物と右手がすっかり血まみれになっていた。
「出刃、出刃! 出刃を取ってくれ!」土間を匐いながら、叫んでいる。「浅川の野郎、何処へ行きゃがった。居ねえんだ。殺してやるんだ」
 監督のためになぐられたことのある漁夫だった。――その男はストーヴのデレッキを持って、眼の色をかえて、又出て行った。誰もそれをとめなかった。
「な!」函館の漁夫は友達を見上げた。「漁夫だって、何時も木の根ッこみたいな馬鹿でねえんだな。面白くなるど!」
 次の朝になって、監督の窓硝子からテーブルの道具が、すっかり滅茶苦茶に壊されていたことが分った。監督だけは、何処にいたのか運良く「こわされて」いなかった。

六( 1 / 1 )

 柔かい雨曇りだった。――前の日まで降っていた。それが上りかけた頃だった。曇った空と同じ色の雨が、これもやはり曇った空と同じ色の海に、時々和やかな円るい波紋を落していた。
 午過ぎ、駆逐艦がやって来た。手の空いた漁夫や雑夫や船員が、デッキの手すりに寄って、見とれながら、駆逐艦についてガヤガヤ話しあった。物めずらしかった。
 駆逐艦からは、小さいボートが降ろされて、士官連が本船へやってきた。サイドに斜めに降ろされたタラップの、下のおどり場には船長、工場代表、監督、雑夫長が待っていた。ボートが横付けになると、お互に挙手の礼をして船長が先頭に上ってきた。監督が上をひょいと見ると、眉と口隅をゆがめて、手を振って見せた。「何を見てるんだ。行ってろ、行ってろ!」
「偉張んねえ、野郎!」――ゾロゾロデッキを後のものが前を順に押しながら、工場へ降りて行った。生ッ臭い匂いが、デッキにただよって、残った。
「臭いね」綺麗な口髭の若い士官が、上品に顔をしかめた。
 後からついてきた監督が、周章てて前へ出ると、何か云って、頭を何度も下げた。
 皆は遠くから飾りのついた短剣が、歩くたびに尻に当って、跳ね上がるのを見ていた。どれが、どれよりも偉いとか偉くないとか、それを本気で云い合った。しまいに喧嘩のようになった。
「ああなると、浅川も見られたもんでないな」
 監督のペコペコした恰好を真似して見せた。皆はそれでドッと笑った。
 その日、監督も雑夫長もいないので、皆は気楽に仕事をした。唄をうたったり、機械越しに声高に話し合った。
「こんな風に仕事をさせたら、どんなもんだべな」
 皆が仕事を終えて、上甲板に上ってきた。サロンの前を通ると、中から酔払って、無遠慮に大声で喚き散らしているのが聞えた。
 給仕が出てきた。サロンの中は煙草の煙でムンムンしていた。
 給仕の上気した顔には、汗が一つ一つ粒になって出ていた。両手に空のビール瓶を一杯もっていた。顎で、ズボンのポケットを知らせて、
「顔を頼む」と云った。
 漁夫がハンカチを出してふいてやりながら、サロンを見て、「何してるんだ?」ときいた。
「イヤ、大変さ。ガブガブ飲みながら、何を話してるかって云えば――女のアレがどうしたとか、こうしたとかよ。お蔭で百回も走らせられるんだ。農林省の役人が来れば来たでタラップからタタキ落ちる程酔払うしな!」
「何しに来るんだべ?」
 給仕は、分らんさ、という顔をして、急いでコック場に走って行った。
 箸では食いづらいボロボロな南京米に、紙ッ切れのような、実が浮んでいる塩ッぽい味噌汁で、漁夫等が飯を食った。
「食ったことも、見たことも無えん洋食が、サロンさ何んぼも行ったな」
「糞喰え――だ」
 テーブルの側の壁には、


一、飯のことで文句を云うものは、偉い人間になれぬ。
一、一粒の米を大切にせよ。血と汗の賜物なり。
一、不自由と苦しさに耐えよ。


 振仮名がついた下手な字で、ビラが貼らさっていた。下の余白には、共同便所の中にあるような猥褻な落書がされていた。
 飯が終ると、寝るまでの一寸の間、ストーヴを囲んだ。――駆逐艦のことから、兵隊の話が出た。漁夫には秋田、青森、岩手の百姓が多かった。それで兵隊のことになると、訳が分らず、夢中になった。兵隊に行ってきたものが多かった。彼等は、今では、その当時の残虐に充ちた兵隊の生活をかえって懐しいものに、色々想い出していた。
 皆寝てしまうと、急に、サロンで騒いでいる音が、デッキの板や、サイドを伝って、此処まで聞えてきた。ひょいと眼をさますと、「まだやっている」のが耳に入った。――もう夜が明けるんではないか。誰か――給仕かも知れない、甲板を行ったり、来たりしている靴の踵のコツ、コツという音がしていた。実際、そして、騒ぎは夜明けまで続いた。
 士官連はそれでも駆逐艦に帰って行ったらしく、タラップは降ろされたままになっていた。そして、その段々に飯粒や蟹の肉や茶色のドロドロしたものが、ゴジャゴジャになった嘔吐が、五、六段続いて、かかっていた。嘔吐からは腐ったアルコールの臭いが強く、鼻にプーンときた。胸が思わずカアーッとくる匂いだった。
 駆逐艦は翼をおさめた灰色の水鳥のように、見えない程に身体をゆすって、浮かんでいた。それは身体全体が「眠り」を貪っているように見えた。煙筒からは煙草の煙よりも細い煙が風のない空に、毛糸のように上っていた。
 監督や雑夫長などは昼になっても起きて来なかった。
「勝手な畜生だ!」仕事をしながら、ブツブツ云った。
 コック部屋の隅には、粗末に食い散らされた空の蟹罐詰やビール瓶が山積みに積まさっていた。朝になると、それを運んで歩いたボーイ自身でさえ、よくこんなに飲んだり、食ったりしたもんだ、と吃驚した。
 給仕は仕事の関係で、漁夫や船員などが、とても窺い知ることの出来ない船長や監督、工場代表などのムキ出しの生活をよく知っていた。と同時に、漁夫達の惨めな生活(監督は酔うと、漁夫達を「豚奴々々」と云っていた)も、ハッキリ対比されて知っている。公平に云って、上の人間はゴウマンで、恐ろしいことを儲けのために「平気」で謀んだ。漁夫や船員はそれにウマウマ落ち込んで行った。――それは見ていられなかった。
 何も知らないうちはいい、給仕は何時もそう考えていた。彼は、当然どういうことが起るか――起らないではいないか、それが自分で分るように思っていた。
 二時頃だった。船長や監督等は、下手に畳んでおいたために出来たらしい、色々な折目のついた服を着て、罐詰を船員二人に持たして、発動機船で駆逐艦に出掛けて行った。甲板で蟹外しをしていた漁夫や雑夫が、手を休めずに「嫁行列」でも見るように、それを見ていた。
「何やるんだか、分ったもんでねえな」
「俺達の作った罐詰ば、まるで糞紙よりも粗末にしやがる!」
「然しな……」中年を過ぎかけている、左手の指が三本よりない漁夫だった。「こんな処まで来て、ワザワザ俺達ば守っててけるんだもの、ええさ――な」
 ――その夕方、駆逐艦が、知らないうちにムクムクと煙突から煙を出し初めた。デッキを急がしく水兵が行ったり来たりし出した。そして、それから三十分程して動き出した。艦尾の旗がハタハタと風にはためく音が聞えた。蟹工船では、船長の発声で、「万歳」を叫んだ。
 夕飯が終ってから、「糞壺」へ給仕がおりてきた。皆はストーヴの周囲で話していた。薄暗い電燈の下に立って行って、シャツから虱を取っているのもいた。電燈を横切る度に、大きな影がペンキを塗った、煤けたサイドに斜めにうつった。
「士官や船長や監督の話だけれどもな、今度ロシアの領地へこっそり潜入して漁をするそうだど。それで駆逐艦がしっきりなしに、側にいて番をしてくれるそうだ――大部、コレやってるらしいな。(拇指と人差指で円るくしてみせた)
「皆の話を聞いていると、金がそのままゴロゴロ転がっているようなカムサツカや北樺太など、この辺一帯を、行く行くはどうしても日本のものにするそうだ。日本のアレは支那や満洲ばかりでなしに、こっちの方面も大切だって云うんだ。それにはここの会社が三菱などと一緒になって、政府をウマクつッついているらしい。今度社長が代議士になれば、もっとそれをドンドンやるようだど。
「それでさ、駆逐艦が蟹工船の警備に出動すると云ったところで、どうしてどうして、そればかりの目的でなくて、この辺の海、北樺太、千島の附近まで詳細に測量したり気候を調べたりするのが、かえって大目的で、万一のアレに手ぬかりなくする訳だな。これア秘密だろうと思うんだが、千島の一番端の島に、コッソリ大砲を運んだり、重油を運んだりしているそうだ。
「俺初めて聞いて吃驚したんだけれどもな、今までの日本のどの戦争でも、本当は――底の底を割ってみれば、みんな二人か三人の金持の(そのかわり大金持の)指図で、動機だけは色々にこじつけて起したもんだとよ。何んしろ見込のある場所を手に入れたくて、手に入れたくてパタパタしてるんだそうだからな、そいつ等は。――危いそうだ」

七( 1 / 2 )

 ウインチがガラガラとなって、川崎船が下がってきた。丁度その下に漁夫が四人程居て、ウインチの腕が短いので、下りてくる川崎船をデッキの外側に押してやって、海までそれが下りれるようにしてやっていた。――よく危いことがあった。ボロ船のウインチは、脚気の膝のようにギクシャクとしていた。ワイヤーを巻いている歯車の工合で、グイと片方のワイヤーだけが跛にのびる。川崎船が燻製鰊のように、すっかり斜めにブラ下がってしまうことがある。その時、不意を喰らって、下にいた漁夫がよく怪我をした。――その朝それがあった。「あッ、危い!」誰か叫んだ。真上からタタキのめされて、下の漁夫の首が胸の中に、杭のように入り込んでしまった。
 漁夫達は船医のところへ抱えこんだ。彼等のうちで、今ではハッキリ監督などに対して「畜生!」と思っている者等は、医者に「診断書」を書いて貰うように頼むことにした。監督は蛇に人間の皮をきせたような奴だから、何んとかキット難くせを「ぬかす」に違いなかった。その時の抗議のために診断書は必要だった。それに船医は割合漁夫や船員に同情を持っていた。
「この船は仕事をして怪我をしたり、病気になったりするよりも、ひッぱたかれたり、たたきのめされたりして怪我したり、病気したりする方が、ずウッと多いんだからねえ」と驚いていた。一々日記につけて、後の証拠にしなければならない、と云っていた。それで、病気や怪我をした漁夫や船員などを割合に親切に見てくれていた。
 診断書を作って貰いたいんですけれどもと、一人が切り出した。
 初め、吃驚したようだった。
「さあ、診断書はねえ……」
「この通りに書いて下さればいいんですが」
 はがゆかった。
「この船では、それを書かせないことになってるんだよ。勝手にそう決めたらしいんだが。……後々のことがあるんでね」
 気の短い、吃りの漁夫が「チェッ!」と舌打ちをしてしまった。
「この前、浅川君になぐられて、耳が聞えなくなった漁夫が来たので、何気なく診断書を書いてやったら、飛んでもないことになってしまってね。――それが何時までも証拠になるんで、浅川君にしちゃね……」
 彼等は船医の室を出ながら、船医もやはり其処まで行くと、もう「俺達」の味方でなかったことを考えていた。
 その漁夫は、然し「不思議に」どうにか生命を取りとめることが出来た。その代り、日中でもよく何かにつまずいて、のめる程暗い隅に転がったまま、その漁夫がうなっているのを、何日も何日も聞かされた。
 彼が直りかけて、うめき声が皆を苦しめなくなった頃、前から寝たきりになっていた脚気の漁夫が死んでしまった。――二十七だった。東京、日暮里の周施屋から来たもので、一緒の仲間が十人程いた。然し、監督は次の日の仕事に差支えると云うので、仕事に出ていない「病気のものだけ」で、「お通夜」をさせることにした。
 湯灌をしてやるために、着物を解いてやると、身体からは、胸がムカーッとする臭気がきた。そして無気味な真白い、平べったい虱が周章ててゾロゾロと走り出した。鱗形に垢のついた身体全体は、まるで松の幹が転がっているようだった。胸は、肋骨が一つ一つムキ出しに出ていた。脚気がひどくなってから、自由に歩けなかったので、小便などはその場でもらしたらしく、一面ひどい臭気だった。褌もシャツも赭黒く色が変って、つまみ上げると、硫酸でもかけたように、ボロボロにくずれそうだった。臍の窪みには、垢とゴミが一杯につまって、臍は見えなかった。肛門の周りには、糞がすっかり乾いて、粘土のようにこびりついていた。
「カムサツカでは死にたくない」――彼は死ぬときそう云ったそうだった。然し、今彼が命を落すというとき、側にキット誰も看てやった者がいなかったかも知れない。そのカムサツカでは誰だって死にきれないだろう。漁夫達はその時の彼の気持を考え、中には声をあげて泣いたものがいた。
 湯灌に使うお湯を貰いにゆくと、コックが、「可哀相にな」と云った。「沢山持って行ってくれ。随分、身体が汚れてるべよ」
 お湯を持ってくる途中、監督に会った。
「何処へゆくんだ」
「湯灌だよ」
 と云うと、
「ぜいたくに使うな」まだ何か云いたげにして通って行った。
 帰ってきたとき、その漁夫は、「あの時位、いきなり後ろから彼奴の頭に、お湯をブッかけてやりたくなった時はなかった!」と云った。興奮して、身体をブルブル顫わせた。
 監督はしつこく廻ってきては、皆の様子を見て行った。――然し、皆は明日居睡りをしても、のめりながら仕事をしても――例の「サボ」をやっても、皆で「お通夜」をしようということにした。そう決った。
 八時頃になって、ようやく一通りの用意が出来、線香や蝋燭をつけて、皆がその前に坐った。監督はとうとう来なかった。船長と船医が、それでも一時間位坐っていた。片言のように――切れ切れに、お経の文句を覚えていた漁夫が「それでいい、心が通じる」そう皆に云われて、お経をあげることになった。お経の間、シーンとしていた。誰か鼻をすすり上げている。終りに近くなるとそれが何人もに殖えて行った。
 お経が終ると、一人々々焼香をした。それから坐を崩して、各々一かたまり、一かたまりになった。仲間の死んだことから、生きている――然し、よく考えてみればまるで危く生きている自分達のことに、それ等の話がなった。船長と船医が帰ってから、吃りの漁夫が線香とローソクの立っている死体の側のテーブルに出て行った。
「俺はお経は知らない。お経をあげて山田君の霊を慰めてやることは出来ない。然し僕はよく考えて、こう思うんです。山田君はどんなに死にたくなかったべか、とな。――イヤ、本当のことを云えば、どんなに殺されたくなかったか、と。確に山田君は殺されたのです」
 聞いている者達は、抑えられたように静かになった。
「では、誰が殺したか? ――云わなくたって分っているべよ! 僕はお経でもって、山田君の霊を慰めてやることは出来ない。然し僕等は、山田君を殺したものの仇をとることによって、とることによって、山田君を慰めてやることが出来るのだ。――この事を、今こそ、山田君の霊に僕等は誓わなければならないと思う……」
 船員達だった、一番先きに「そうだ」と云ったのは。
 蟹の生ッ臭いにおいと人いきれのする「糞壺」の中に線香のかおりが、香水か何かのように、ただよった。九時になると、雑夫が帰って行った。疲れているので、居睡りをしているものは、石の入った俵のように、なかなか起き上らなかった。一寸すると、漁夫達も一人、二人と眠り込んでしまった。――波が出てきた。船が揺れる度に、ローソクの灯が消えそうに細くなり、又それが明るくなったりした。死体の顔の上にかけてある白木綿が除れそうに動いた。ずった。そこだけを見ていると、ゾッとする不気味さを感じた。――サイドに、波が鳴り出した。

七( 2 / 2 )

 次の朝、八時過ぎまで一仕事をしてから、監督のきめた船員と漁夫だけ四人下へ降りて行った。お経を前の晩の漁夫に読んでもらってから、四人の外に、病気のもの三、四人で、麻袋に死体をつめた。麻袋は新しいものは沢山あったが、監督は、直ぐ海に投げるものに新らしいものを使うなんてぜいたくだ、と云ってきかなかった。線香はもう船には用意がなかった。
「可哀相なもんだ。――これじゃ本当に死にたくなかったべよ」
 なかなか曲らない腕を組合せながら、涙を麻袋の中に落した。
「駄目々々。涙をかけると……」
「何んとかして、函館まで持って帰られないものかな。……こら、顔をみれ、カムサツカのしやっこい水さ入りたくねえッて云ってるんでないか。――海さ投げられるなんて、頼りねえな……」
「同じ海でもカムサツカだ。冬になれば――九月過ぎれば、船一艘も居なくなって、凍ってしまう海だで。北の北の端れの!」
「ん、ん」――泣いていた。「それによ、こうやって袋に入れるッて云うのに、たった六、七人でな。三、四百人もいるのによ!」
「俺達、死んでからも、碌な目に合わないんだ……」
 皆は半日でいいから休みにしてくれるように頼んだが、前の日から蟹の大漁で、許されなかった。「私事と公事を混同するな」監督にそう云われた。
 監督が「糞壺」の天井から顔だけ出して、
「もういいか」ときいた。
 仕方がなく彼等は「いい」と云った。
「じゃ、運ぶんだ」
「んでも、船長さんがその前に弔詞を読んでくれることになってるんだよ」
「船長オ? 弔詞イ? ――」嘲けるように、「馬鹿! そんな悠長なことしてれるか」
 悠長なことはしていられなかった。蟹が甲板に山積みになって、ゴソゴソ爪で床をならしていた。
 そして、どんどん運び出されて、鮭か鱒の菰包みのように無雑作に、船尾につけてある発動機に積み込まれた。
「いいか――?」
「よオ――し……」
 発動機がバタバタ動き出した。船尾で水が掻き廻されて、アブクが立った。
「じゃ……」
「じゃ」
「左様なら」
「淋しいけどな――我慢してな」低い声で云っている。
「じゃ、頼んだど!」
 本船から、発動機に乗ったものに頼んだ。
「ん、ん、分った」
 発動機は沖の方へ離れて行った。
「じゃ、な!……」
「行ってしまった。」
「麻袋の中で、行くのはイヤだ、イヤだってしてるようでな……眼に見えるようだ」
 ――漁夫が漁から帰ってきた。そして監督の「勝手な」処置をきいた。それを聞くと、怒る前に、自分が――屍体になった自分の身体が、底の暗いカムサツカの海に、そういうように蹴落されでもしたように、ゾッとした。皆はものも云えず、そのままゾロゾロタラップを下りて行った。「分った、分った」口の中でブツブツ云いながら、塩ぬれのドッたりした袢天を脱いだ。

forkN運営事務局
作家:小林多喜二
蟹工船
0
  • 0円
  • ダウンロード

14 / 23