尼寺

 鳥羽は、路肩に停められるちょっとしたスペースはないかと前方に目をやった。20メートルほど先の左側に車が離合できるほどのスペースを発見した。「よかった、あそこに、ちょっとした空き地があります。あそこで、休憩しましょう。なんだか、心配ばかりしてると、おなかがすきましたね。サンドイッチでも、食べましょう」ゆう子は、休憩できると聞いて、ホッとした。腕時計を見ると11時半を過ぎていたが、山道に入って、それほどは走っていないように感じた。鳥羽が、アクセルを緩め、停車すると、声をかけた。「ゆっくり降りてください。踏ん張っていますから。ゆう子は、ステップに左足を乗せて踏ん張ると、右脚を大きく持ち上げて、ゆっくりとシートから降り立った。

 

 そして、大きく息を吐きながら、赤いヘルメットを取り外した。「あ~~、しんど。鳥羽君も、疲れたでしょ」鳥羽は、スクーターを路肩に停め、トランクから、ピクニック用のシートを取り出した。片隅にパッと広げると笑顔のスヌーピーが現れた。「休んでください。腹が減っては、戦はできぬ、って言いますからね」スクーターに駆け寄った鳥羽は、緑茶のペットボトルとサンドイッチをトランクから取り出し、シートに並べた。ゆう子の横に腰掛けると、ペットボトルを手渡し、サンドイッチを差し出した。「どうぞ」ゆう子は、ニコッと笑顔を作って、ハムサンドを手にした。卵サンドを手にした鳥羽は、ちらっと、ゆう子の横顔を覗き見て声をかけた。「なんだか、ピクニックに来てるみたいですね。でも、こんなにさみしい、ピクニックっていうのはないか?」

 

 ゆう子は、クスクスと笑い声をあげた。「そうよね、オオカミが出るかもしれないような、さみしい場所のピクニックって、聞いたことない。でも、頼もしい鳥羽君と一緒だから、安心。でも、山道に入って、まだ、ほんの少ししか、走ってないんじゃない。後、どのくらいあるんだろうね。約束は、1時半だから、時間はあると思うけど。「そうですね~。まったく、見当がつきません。でも、大丈夫ですよ。キャンプ場には、案内板があるんでしょ。ということは、キャンプ場から、そう、遠くないってことです。まあ、気楽に、道中を楽しみましょう。ゆう子姫と二人っきりになれる機会は、二度とないかもしれないし」ゆう子は、ワハハ~~と笑い声をあげた。「鳥羽君、ゆう子姫は、やめてよ。江戸時代じゃないんだから。ほんと、鳥羽君って、面白いんだから」

 

 

 

 鳥羽は、ゆう子先輩というより、ゆう子姫と言うほうがしっくりいった。心では、いつもゆう子姫と言っていた。「そう、からかわないでください。いいじゃないですか、僕の気持ちなんです。ゆう子姫と呼ばせてください」ゆう子は、あきれた顔で返事した。「そ~~、それだったら、好きに呼んでもらってもいいけど。なんだか、ムズかゆくなるのよね。ま、いっか。江戸時代にタイムスリップしたことにしよう。姫と呼ばれるのも悪くないし」鳥羽が、腕時計を見て声をかけた。「姫、もう、そろそろ参りましょう」ゆう子は、姫になった気分で返事した。「それでは、まいりましょう」ゆう子は、クスクス笑っていた。

 

 鳥羽が、スヌーピーシートを折りたたみ、それとまだ残っていたお茶のペットボトルと一緒にトランクにしまい込んだ。先に、鳥羽がスクーターにまたがると、鳥羽の左肩に手を置いたゆう子が、エイッと勢いよく後部座席にまたがった。鳥羽が、掛け声をかけた。「姫、よろしいですか?出立します」鳥羽は、アクセルをゆっくり吹かし、前進し始めた。スクーターが動き始めるとゆう子の腕に力がこもった。「鳥羽君、もう少しよ。頑張って」鳥羽は、姫の家来のごとく返事した。「かしこまりました。姫、ご安心を。でも、車も、人も、通らいというのは、どういうことですかね。上には、キャンプ場がるんですよね。だったら、車が通ってもいいと思うんですけど」しっかり目を閉じたゆう子が、返事した。「今は、冬じゃない、キャンプ時期じゃないのよ。だからよ」

 

 鳥羽は、うなずいた。雪が積もっていれば、スキーができると思えたが、雪も積もっていなかった。そう考えると、山頂に向かう人がいないのも、もっともだと思えた。「そうですよね。こんな時期に山頂に向かうのは、尼寺に行く人ぐらいですね。偶然、誰かに出会えば、元気が出るのに。ヤッパ、人がいないって、さみしいですね」ゆう子は、大きくうなずき、鳥羽の背中にヘルメットをこすりつけた。鳥羽は、お茶を飲みすぎたのと寒さのせいか、トイレに行きたくなってしまった。「姫、僕、トイレに行って、いいですか?お腹、冷えちゃって」ゆう子は、即座に返事した。「いいわよ。遠慮しないで」鳥羽は、左の路肩にスクーターを停めると、左足でサイドスタンドを立てた。スクーターが左に傾いたため、危険を感じ、ゆう子を先に降ろすことにした。

 

 後ろを振り向いた鳥羽は、声をかけた。「転倒したらいけないので、姫も降りてください」スクーターが傾いて、びっくりしたゆう子は、恐る恐る鳥羽にしがみついてシートから降り立った。降りたのを確認した鳥羽は、慎重に降りて、メインスタンドを立てた。「ちょっと、待っててください。あっちのほうで、用をたしてきます」ヘルメットをシートの上にポンと置いた鳥羽は、路肩から杉林の中を歩きだし、大きな杉の木の裏で、用をたした。気分がスッキリした鳥羽が、戻ろうとした時、パタパタという羽ばたく音が耳に飛び込んできた。目の前を飛び立つ茶色の小柄な二羽の山鳩が、目に入った。ゆう子も目を丸くして二羽の山鳩を見つめていた。ゆう子の元に戻った鳥羽は、声をかけた。「あの鳥は、山鳩ですよ。きっと、このあたりには、野ウサギやタヌキもいるんじゃないですか?」

 

 ゆう子は、うなずき返事した。「山奥だもんね。野ウサギだったらかわいいけど、まさか、クマが飛び出すってことは、ないよね」ワハハ~~と笑い声をあげた鳥羽は、返事した。「いませんよ。北海道じゃあるまいし。そう、姫は、トイレは大丈夫ですか?」ゆう子は、まだ大丈夫だったが、万が一、トイレに行きたくなったら、どうしようと不安になった。こんな山奥だから、人に見られることはないと思ったが、突然、トイレの最中に、蛇が出てきたらどうしようと思った。「今のところは、大丈夫。トイレするとしても、こんなところじゃ、気持ち悪い。蛇が出てきたら、どうしよう」鳥羽が、即座に返事した。「大丈夫。僕が、ちゃんと監視しますから」顔を引きつらせたゆう子は、甲高い声で返事した。「え、鳥羽君に監視されながら、トイレするの。いやよ~~」

 

 ちょっと返事に困った鳥羽は、出立することにした。「そうですよね。それでは、出立しましょう」二人は、スクーターに乗り、急坂を走り出した。疲れ始めたゆう子は、愚痴をこぼした。「こんなに遠くにあるんだったら、やめとけばよかった。もっと、簡単に行けるところだと思ったのよ。私って、方向音痴だし、地理に弱いのよね~。ごめんね、鳥羽君」鳥羽は、大きな声で返事した。「とんでもない。このくらいの道中は、へっちゃらです。おそらく、後、10分もすれば、キャンプ場だと思います。問題は、キャンプ場から、どのくらいかです。近ければいいんですが」

 

 体が冷えてきたのか、ゆう子はトイレに行きたくなった。尼寺まで我慢できるか不安になってきた。キャンプ場には、簡易トイレがあるように思えたが、そこになかったら、どこでトイレすればいいのだろう、とますます、不安が込み上げてきた。「鳥羽君、キャンプ場には、トイレ、あると思う?もしなかったら、どうしよ~」鳥羽は、即座に、ゆう子の尿意を察知した。「簡易トイレは、あるとは思うんですが、我慢できないんですか?」返事に躊躇したゆう子は、不安を打ち明けた。「我慢できないってことはないんだけど、もし、なかったらどうしよう、と心配になったの。あればいいんだけど」鳥羽は、再確認した。「あればいいですが、ないかもしれません。雑貨屋でもあれば、そこで借りればいいんですが、こんな山奥に、お店がるかどうかですよね~。でも、スキー場があることだし、意外と、レストランがあったりして」

 

 レストランと聞いて、一瞬、気持ちが楽になったが、これは、鳥羽の単なる憶測に過ぎなかった。簡易トイレも、レストランも、雑貨屋も、ない場合も考えられた。ゆう子の膀胱は、徐々に膨らみ、尿意が強くなっていた。「たとえ、キャンプ場にトイレがあったとしても、後、どのくらいかかるか、わかんないし。あ~~、どうしよう」鳥羽は、ゆう子の我慢を感じ取り、提案した。「この際、林の陰で、トイレされては?誰も見てませんよ」ゆう子は、こんな山奥でトイレするは、恥ずかしかったが、我慢できずに、漏らしたら、それこそ、恥ずかしいと思ってしまった。後、どのくらい我慢すればいいかと考えているとますます尿意が強まってきた。「そうよね。大きな杉の木の裏だったら、誰にも見られないし。でも、ヘビが飛び出してきたら、どうしよう」

 

 鳥羽が、即座に返事した。「僕がついています。心配せずに、どうぞ。漏らさないうちに」ゆう子は、漏らす方が、恥ずかしいと思い、林の中でトイレすることにした。「そうね。適当な場所で止めて」鳥羽は、少し平らになったところで、路肩に停車した。「あそこに、大きな杉の木があります。あの裏なんかはどうです。でも、足元に気を付けてください。山の斜面は、滑りますから」ゆう子は、左手にある大きな杉の木を見つめた。「あの木ね。鳥羽君は、ここで見張りをしてね。見ちゃ、いやよ」うなずいた鳥羽は、胸を張って返事した。「オオカミが来ようとも、クマが来ようとも、姫を守ります。安心して、トイレに行ってください」こんな山奥でトイレするのは、一生に一度の経験だと思い、勇気を出して、トイレすることにした。大きな杉は、山道から10メートルほど離れていた。しかも、3メートルほど下ったところにあった。

 

春日信彦
作家:春日信彦
尼寺
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