東国の佛教

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蒼い雪原 - 前書きとして -

 信州は天に近い。
 信濃上野両国の国境をなす碓氷峠は、典型的な片峠である。
長野市方向からゆっくりと坂を登りつめた高原のまち軽井沢から、人びとは壁を滑り落ちるかのように、関東平野の入り口である群馬県松井田町横川へたどり着く。
 昭和六〇年一月午後、ぼくは新潟県高田の駅から国鉄信越本線上り電車に乗った。
 長野、篠ノ井を出る頃は満員だった車内は上田を過ぎるとすっかり空いて、小諸からは乗客が各車両に数人程度となった寂寥感が漂った。電車が小駅に停まった。窓の外に信濃追分と書かれた駅名標がみえた。左窓は真白な浅間山。山国の冬のせっかちな太陽が、一日の仕事の終い支度を急ぎ、光線を斜めに投げだして、追分から浅間へつづく大地を白く染める雪の原を蒼い色に変えていた。電車から降りた幾人かの女の高校生がその蒼い雪原を去っていった。厳しい寒さが彼女たちの頬を紅くさせていた。「まだあげ初そめし前髪の、林檎のもとに見えしとき、やさしく白き手をのべて、林檎をわれにあたへしは、薄紅の秋の実に、人こひ初めしはじめなり」藤村の詩の一節がふとうかんだ。


 あたたかき光はあれど 野に滿つるかをりも知らず

 暮れ行けば浅間も見えず 歌哀し佐久の草笛


 勾配を登りつめた軽井沢駅で、一呼吸するかのように、数分間電車が停まった。この先の急坂を転がり落ちぬよう踏ん張る青い色の機関車を前に連結するためであった。高名な観光地も、正月過ぎた冬の黄昏時では人影はなかった。
 翌昭和六十一年冬、高田へ戻るべく、国鉄上越線の夜行に乗った。乗った車両は各車輌に三つのドアをつけたなんの変哲もない通勤用電車であった。深夜一時頃高崎駅を出た。十両近くつないでいた。客はほとんど乗っていなかった。後ろのほうの客車に団体のスキー客がいたようだが、ぼくが乗った先頭車両の人間はたったの一人だった。いや精確に言うと、見えないけれどもう一人乗っていたはずだ。運転士である。
 その電車は変哲もない通勤用だったので、ドアの脇に公園の長ベンチのような長いシート式座席を備えていた。他に一人でも乗客がいれば遠慮してしないが、深夜で眠いし、誰の迷惑になるわけでもないから、そこに横になって眠ろうとした。寝台料金無料の寝台車である。横になると断然楽だった。三十分くらいうとうとしただろうか。寒さをおぼえて起き上がった。窓やドアの隙間から容赦なく車内に冷気が流れ込んでいた。真っ暗な窓の外を眼を細めて眺めると、沼田の先、後閑か上牧あたりを駆けているらしかった。
 外は白い雪の夜。まだ関東の群馬県である。
 国境の長いトンネルを抜ける前に雪国になった。夜の底が白くなった。水上駅に電車がとまった。寒いよう、と叫びたくなった。水上を出てから、車内への雪粒の吹き込みと、車内温度の低下がさらにひどくなった。持ちあわせのありったけの服を体に羽織った。寒くてせっかくの無料寝台で眠るどころではなくなった。電車が新清水トンネルをぬけ、ほんとうの雪国に入った。白い夜の底がさらに深くなった。午前四時四十分ごろ長岡に着いた。夜明け前の凍えるホームにぼくはいた。
 信州の峻嶮な山岳が突然途切れ、真っ平らな西関東平野が拡がる。それが上信国境である。群馬県側から見あげる信濃国とは、まさに山上の天にちかい国である。古来、その天に近く高く爽やかな国から関東へ。低く湿って泥のような大地が平らにひろがる関東平野へと、おおくの人びとが、物資と情報と知識技術を運んだ。それはこの弧状列島内部の人ばかりでなく、海の向こうの大陸からやってきた人びともおおくいた。
 そのメインルートは碓氷峠であるが、他にもルートがいくつかあった。
 碓氷のやや南方に信州佐久平から上州下仁田へ抜ける街道がある。北方には、信州上田より東進し、鳥井峠を越して上州吾妻川上流部へでる街道。ここも峠道であるが碓氷よりは勾配が緩い。この街道の傍らに著名な草津温泉が湧出する。草津の湯畑に、草津温泉を訪れた人々というプレートが並べてある。そこに浄土真宗の蓮如の名がある。かれは足利時代の京都の人であるが、何回か、かれの先祖である親鸞の故地関東を訪れた。その際この街道を歩いたのであろう。
 著者は馬齢を重ねた。
 武蔵国に生まれた。武蔵は今の埼玉県と東京都と神奈川県の一部である。そして家庭の事情で、千葉県を除く関東のすべての都県で育った。人生最初にした仕事が幼児のころの大衆芝芝居一座の子役だった。大きな車に道具と一座の大人のひとたちが乗って、関東の平野から福島県浜通りあたりを興行して廻った。プロの俳優ではないが、お客さんからお代をいただいていたからセミプロ役者の一座だったと言えるだろう。演じた演目や台詞はすべて忘れた。髷の鬘、着物に二本差し衣装の時代物ばかりだった。
 幼児ながらお客さんが喜んでくれた時の嬉しさと、うけない時、空席が目立つ日の侘しさはわかった。蕭しかった。はんたいに、喜んでもらえると素直に嬉しい。昔も今も、大衆芝居のお客さんは、一年の労働を終え骨休めする農閑期の農家の人だ。一座に子役がいるといないとでは「おひねり」の額がぜんぜんちがう。舞台に上がって、衣装の懐におひねりを直接ねじり込んでくれたお客さんもいた。ぼくはきっとたくさん稼いだ。でも給料というのをもらった記憶がない。大人たちの飲み代に化けたのだろう。
 そののち、半世紀以上クルマに乗らない生活をした。代わりに自分の足で歩いた。だから関東の地理に明るい。群馬県と東京都の間を歩いたこともあった。必要があって歩いたのではない。歩いてみたかっただけだ。
 一回めは正月休みを利用して日光街道を歩いた。群馬から日本橋まで二日の行程であった。この時は親類の子供たちの集金活動をかわす邪まな目的も兼ねていた。貧乏なのだ。それにしても恐ろしく寒い日だった。皮膚を切るように冷たい空っ風の暴風のせいで歩いても歩いても身体が温まらなかった。
 二回めは夏の盆休みを使って板橋宿から上州倉賀野宿へ歩いた。今回は中山道である。前回と反対にとてつもなく暑い日であった。道中の熊谷気象台の観測気温が三十七か八度だった。流汗瀧の如し、であった。
 クルマや電車はある種の魔物である。あれに乗っていると、人力では到底たどりつけない遠い街に思えてしまう。しかしながら同じ距離をじぶんの足で歩いてみると近く感じるのだ。あっけないほど近く感じる。江戸ってこんなに近いところなのかと思うものである。
 歩くとクルマのスピードでは決して見えないものがみえる。そのまちのにおいがわかる。また、歩くと意外に近く感じるものである。徒歩で移動していた昔の人たちの感覚がなんとなくわかるようになる。歴史研究者は若いうちに街道を歩いておくといい。昔の人の感覚を知らずに二十一世紀人の感覚だけで歴史資料を読むと、独りよがりのとんでもない勘違いをしかねない。東海道を東京から京都まで全区間歩き通せ、とは言わないから、せめて墨田区本所松坂町から港区高輪泉岳寺までくらいは歩いてみてほしい。ゆっくり歩いたとて半日かからない。東京は小さな町である。仕事中もときには地下鉄に乗らず歩くといい。ぼくは階段の上り下りを煩わしく感ずるとき、しばしば地下電車を使わず歩いて行ってしまう。地下鉄を使った場合よりやや遅い程度で着けるものだ。時と場所によっては地下鉄より徒歩の方が早く着ける。おかげで、都心の地理をしぜんに憶えた。築地、銀座、日比谷、神田、麹町、新橋、芝あたりなら地図もスマートフォンも不要だ。どこでもわかる。歩いて行ける。
 この本は関東平野の佛教の歴史いついて語るごく軽い随筆である。学問的厳格さをめざさない。
 全体は前半と後半の二部構成。前半にて昔の関東平野の文化状況と佛教一般について語る。後半では鎌倉時代の北関東に住んだ親鸞の足跡をたどる。

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金井隆久
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