アンソロジー『出逢い』

彼の迂遠なるプロローグ( 1 / 3 )

彼の迂遠なるプロローグ

彼の迂遠なるプロローグ( 3 / 3 )

 暖炉の薪が火の粉を散らして爆ぜた。
 ログハウス風の古めかしい店内はその日一番の繁盛も過ぎ去って静まり返る。夕焼け色の照明に照らされながら、いつもより芳醇な茶葉とコーヒーの余香が漂っていた。
「それじゃあ杉山さん、お先に失礼します!」
 窓際の日溜まり、カウンターの脇に位置する一席で僕はじっと息を潜めていた。食器棚と観葉植物の鉢に挟まれてそこは異様に狭苦しい。
「はい。お疲れ、×××ちゃん」
 名前を呼ばれた彼女の首もとで赤いマフラーの尾が跳ねる。振り返ると暖炉の火に照り映えた黒髪が弧を描く。
「明日も午前から入るので、よろしくお願いします!」
 そう言って彼女は勢い良く頭を下げる。
 その装いはなぜだか休日ですら制服で、何よりもそのよく通る声が印象的な少女だった。頭の中に長く澄んで響き渡る。
「いつも助かるわぁ。帰り道、気をつけてね」
「はいっ、ありがとうございます! ではまた!」
 マスターに送り出された彼女の足音が遠ざかっていく。耳を澄ませているとそれは重たい扉に打ち切られた。
「……で、いつまでそこでそうしてるわけ?」
 視線を感じて食器棚の陰から慎重に顔を覗かせる。
「もう帰りましたよね?」
「あんたがそこでヘタれてる間にね」
 呆れた、とでも言いたげに肩を竦めるのは身長一九〇センチ超の筋骨隆々とした巨漢である。……と僕は思っているが、実のところマスターの性別は本人以外の誰も知らない。
「じゃ、僕も出るんで」
 頭を引っ込めると、テーブルに広げっぱなしの参考書を掻き集めてカバンにしまい込んだ。
「あぁあぁはいはい、いつものね……」
 眉間を指で揉みほぐすマスターの脇を通り抜けようとすると呼び止められる。
「ちょっと待ちなさいよ」
「何ですか? 見ての通り、僕は急いで……」
「今のままじゃどうせ無駄足でしょう?」
 ぐ、と足踏みを繰り返していた僕はその場につんのめる。
「悪いこと言わないから私を頼んなさいよ。そうすればこんなまどろっこしいことしなくても……」
 マスターの言いたいことはよく分かる。よく分かるけれど。
「お代はここに置いてくんで!」
 カウンターのコイントレーにコーヒー三杯分の代金を残して店を飛び出す。マスターの止めどない溜め息が扉の内側に閉じ込められた。
「うぅ……さぶっ」 
顔面に雪の混じった寒風が吹き付ける。埃臭くて生温い店内とは打って変わり、澄み渡る冷気は吸い込んだ途端に鼻腔をじくじくと痛めつけて吐き出せば口から白く棚引いた。
凍える冬空から舞い落ちた牡丹雪が見窄らしい住宅街を灰色に染め上げていく。
「えぇと、彼女は――」
その住家は地区の東端、喫茶店からは向かって左方向に位置していた、はずだが。
「――やっぱりこっちじゃないよな」
 そちらの方角に彼女を見つけられず、反対方向に目を向ければ降り注ぐ雪の垂れ幕の向こうにコート姿の背中を見出す。
制服に防寒具、という出で立ちは僕と変わりないものの、彼女の足取りは乱れも迷いもしない。その消えかけた足跡を追って僕も雪道に踏み出した。
「今晩はどこへ行くのやら」
 いつも通りならばこれから表通りに出て、最寄りのコンビニに立ち寄る。その入口の傍らでくたびれ果てた公衆電話から連絡を取るのが普段の流れである。
案の定、その日も雪道を超えてコンビニ前の公衆電話に向かっていった。その後ろ姿から目を離し、物陰にある近くの自販機を物色しているとスラックスのポケットが震える。
「えぇとはい、もしもし」
 昨今は絶滅しかけのストレート式ケータイを耳に当てた。
『首尾はどうなの?』
「マスター、家電からかけるときは始めに名乗って欲しいっていつも言ってますよね?」
 喫茶店の固定式電話は常連客から公衆電話のような扱いを受けている。おかげで通話相手がマスターだとは限らない。
『どうせあんたにかけるのなんて私だけでしょ?』
 それも、その通りではあるのだが。
「始めに名前を伝えるのって、電話だとか初対面の相手には欠かせない挨拶だと思いませんか?」
『そうね。それさえできずにストーキングしてるなんて悲惨だもの』
 誰の話をしてるんだか。
「で、何の用ですか? まさか僕をからかうのが目的だなんて言いませんよね?」
『さっさと声をかけなさいよ』
 マスターは何の前触れもなくそう切り出した。
『まだ後ろから見つめてるだけなんでしょ? あんたを見てるとやきもきするの! いい加減勝負に出なさいよ!』
 苛立たしげな、それでもマスターらしい後押しが耳朶に叩きつけられた。気圧され、そしてそれ以上に心を揺り動かされながらも鼻で笑って見せる。
「何度も言いますけど、人の評価は第一印象、出会いの一瞬が全てを決めるんです」
『あぁ……また始まったわよ、いつものが』
 あからさまな溜め息をつかれるが僕は怯まない。
「いいですか、よく聞いて下さい。僕だって何も一目惚れされたいわけじゃない」
 せめて魅力的な……そう、例えば恋愛対象になり得る異性の一人として彼女の目に映るようになりたかった。そのために僕はたった一度の好機を掴み取ろうと、それがなせるだけの状況を待ちわびて彼女のあとを尾けているのだった。
……たとえ、そのせいでマスターからストーカー呼ばわりされていても。

 それから数週間を経た冬晴れのある日も僕は喫茶店で彼女の様子を窺っていた。ただしその日はカウンターの裏で。
「本当に……突然のことで申し訳ありません! だけど、やらなくちゃいけないことができて、どうしても働けないんです……っ!」
「ま、そうまで言われたら……そうね。私としても止められないけど」
 開店前の喫茶店で二人、対峙した制服姿の彼女がマスターに頭を下げていた。
「でも理由ぐらいは聞かせてくれないかしら」
「あのっ、えっと……それは」
 顔を上げた彼女が、必死になって話を整理しようとしているのは漏れ聞こえる切れ切れの声から察しがついた。しかし何度口を開きかけてもそれらが言葉になることはない。
「別に責めてるわけじゃないんだから、無理に話さなくてもいいわよ」
「でもそれじゃ……っ」
「話せないんじゃ仕方がないでしょう」
 マスターの指摘に彼女は肩を落として頷く。
「ま、あなたにもあなたなりの事情があるんでしょうし、今日は家に帰んなさい」
 マスターから改めてそう命じられても、彼女はしばらくその場に踏み留まって唇を噛み締めていた。けれどやがて、諦めたように溜め息をつく。
「ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」
 再び深々と頭を下げた彼女に、マスターは肩を竦めて「ホントよ!」と笑いかけた。
「あなた目当てのお客様からなんて言われるか! いろいろと落ち着いてからでいいから、早く帰ってきてちょうだい!」
 その軽口めいた台詞に、彼女は大きく目を見開いて。
 それから泣き出しそうなほど儚げに表情を綻ばせる。
「……はい! 用事が済んだらまた戻ってきますから、そのときはまた、よろしくお願いしますっ!」
 そして例の如く一気に頭を振り下ろす。
普段の忙しなさを取り戻した彼女は、軽快な足取りで雪の残り滓が縁取る街路に飛び出していった。
「さて、と」
 マスターがカウンターの裏に回り込んでくる。
「あんたはいつまでそこで、そうしてるわけ?」
「そうですね。僕も迷ってはいましたが、そろそろ切り上げようかと」
 できるだけにこやかに答えたつもりなのにマスターの視線は寒々しい。
「あの子の用事って奴に、あんたは心当たりはないわけ?」
「あると言えば、ありまくりですが」
 何せ、彼女のことはずっと後ろから見つめてきたし。
「ただ知らないことだとも限りません。何だかワケのありのようでしたからね」
「そうよね。最近はストーカーまで出没するようだし、彼女も何かと気苦労が絶えないでしょうね」
「ストーカーですか? 許せませんね。僕が見つけたらとっちめてやりましょう」
 これ見よがしなマスターの溜め息に耳を塞ぐと僕は裏口から喫茶店を抜け出した。

 まだ肌寒くはあるが澄み渡った青空は寂れた田舎町を明るく照らし出す。
 この一帯は脇道と隘路が溢れ返り、適当に歩けばいつの間にかどこかの農地に出てしまう。少なくとも人を尾行するには向いていない。僕は記憶と経験を何度も確かめながら喫茶店前の通りに続く道を選び出していった。
 彼女を見つけたのは車道を二分するY字路でのことだった。その裂け目にある扇形の二階建ての玄関口で、彼女は同年代の少女と何やら言葉を交わしている。
「あの家は……」
 彼女が何度か泊まっているのを目撃したことがある。
ついでに言えば僕のクラスメートが住んでいて、顔を見られるのは大変にまずい。できれば何気ない風を装って、などと辺りを窺っていたら公民館の軒先に据え置かれた自販機を見つける。より正確には、その筐体の中に並べられたサンプルの一本、缶コーヒーの新商品を。
「今はお金が……いや、これは尾行のためだ」
 自分の中で瞬く間に大義名分をでっち上げると自販機に取り付く。百円玉一枚と十円玉数枚を投入、迷わず目的のボタンを押して落ちてきたものを取り出した。
 その細身のスチール缶は緑色を貴重として茶色い帯状の模様にブランド名が刻印されている。プルタブをこじ開けると微かに香ばしい匂いが溢れ出した。
僕はそっと口を寄せて、すすり上げた液体に味覚と嗅覚を研ぎ澄ませ――
「――てるのっ!」
 勢い込んだ彼女の叫びに意識を引き戻される。
「あぁ……と? で……つ……」
 彼女とは打って変わって話し相手の少女は落ち着いている、というより気怠そうだ。そんなに嫌ならそこを代われ。
 ……いや、そういうわけにもいかないのは誰より僕自身が承知しているところではあるが。
「でも、どうしても……っ!」
 彼女の口振りはいつも前のめりで、大体において言葉が足りていない。それでも言いたいことが伝わるくらいにその全身は大袈裟な身振り手振りで感情を表現する。
「……で……に必死……け?」
「それはまだ話せなくて……っ!」
 何かを訴える代わりに彼女は両拳をぶんぶんと振るって地団駄を踏む。
 眺めていると大変に愛らしい。もとい愛おしい。
「……った……よ! かし……げ……らっ!」
 何を言っているのかさっぱり意味不明だが、とにもかくにも話はまとまったようだった。話し相手の少女は一度家の中に引っ込むと何やらショルダーバッグを引っ提げて玄関に戻ってくる。
「……れが……よ」
「ありがとっ!」
 女からショルダーバッグを手渡されて、彼女の表情が……あぁ、遠目からでも満面の笑みを浮かべたことがはっきりと見て取れた。その無邪気な陽気さが周囲に雪解けをもたらしている(ような気がする)。
 ひとまず彼女は詳細不明の『用事』とやらの達成にこれで一歩近づいたらしい。
 協力してくれた少女――などと呼んでは失礼かもしれない。友人Aとでも呼び習わそう――に別れを告げると彼女は踵を返した。身を捩り、大きく手を振りながら走り去っていく。
「また落ち着いたら連絡するからぁー!!」
 元気だなぁ……というか、また僕も走らなきゃならないのか。
 軽くなったスチール缶を一気に傾ける。その中身はすっかり冷め切っていた。

 しかし追いかけたところ、その日の彼女は真っ直ぐに帰宅したせいで僕も喫茶店に戻るしかなくなってしまった。
「ちょうどいいところに帰ってきたわね。今忙しいの、あんたも手伝いなさい」
帰ってくるなりマスターから手渡されたエプロンは彼女が使用したもので「いいんですか? 本当にいいんですか!?」と念入りに訊ねたら頭をはたかれる。
 そういうことなら止むを得まい、とエプロンを身にまとったところでマスターに指示をあおいだ。
「じゃあこの皿を……いえ、あんたを表なんかには出せないわね」
 ひでぇ。自覚はあるけど、せめて言い方くらい何とかならないもんなのか?
「いいわ、じゃあ厨房でお皿を洗っといて。もう結構溜まってるの」
 そう言ってマスターが指差した流しにはうずたかく積み上げられたカップと皿の山。
「私は忙しいから、あとよろしく」
 見事に雑用を押しつけられてしまった。
「はぁ……」
 もっとも日頃から世話になりっぱなし、おまけに今は空き部屋の一室を間借りしている身としては断れるはずもなく、仕方なしに腕まくりをすると洗い物の山に立ち向かっていく。
「おいマスター、最近何かあったのかぁ?」
 スポンジを泡立てていると店の表の会話が耳に入ってくる。
「何かって何?」
「いや、最近バカにお巡りがほっつき歩いてるだろ? 何か事件でも起きたんじゃないかって」
「あんたは新聞広げていっつも何を見ているの……?」
 平日の昼下がり、この時間に店を訪れるのはどんな客層なのだろう? 手を動かす傍ら、雑談に耳を傾ける。
黙々と手を動かしていた僕だったが、やがて肩に分厚く大きな手が置かれた。
「ありがとう。もう十分だけど……今日はこれからどうすんの?」
「実は彼女が家に帰ったものですから、もうすることがなくて」
 マスターは眉間にできた凶悪そうな皺を揉みほぐす。
「そうことを聞きたいんじゃ……いいえ、それよりあの子の様子はどうだった?」
「というと?」
 マスターは複雑そうな顔で歯噛みする。
「ほら、あの子の家ってただでさえいろいろあるんでしょ? それなのにまた……」
 マスターの言う『いろいろ』とは父親不在の家庭環境、平たく言えば母子家庭のことだ。
「気にし過ぎですよ。本人はえぇと、片親がいないことをとやかく言われたくないようですし。僕らは普通に接してればいいんです」
「あんたがそういうんなら……ううん、でも正直信用ならないわね」
 マスターは僕のことを何だと思っているのだろう?
「というか私って、そろそろあなたのことを通報するべきなのかしら?」
「それ、普通僕に聞きますかね!?」
 そんな僕の絶叫を置き去りにしてマスターはひらひらと手を振ると職務に戻っていった。

 そして翌日、乾き切った寒空の下。
「あれー? あれー!?」
 間抜けな声が響き渡る。
 そこは喫茶店からほど近い私立高校の校門前。それなりの進学校でそれなりに偏差値も高い。その中に吸い込まれていった彼女を追いかねて、僕は立ち往生していた。
 そして何よりも困惑していた。
 今し方放課後から登校した、という点に目を瞑れば学生が高校を訪れるのは不思議なことではない。
 ……はずなのだが。
「違うはずなんだよなぁ!?」
 ここじゃない。彼女の母校はここじゃない。
 喫茶店で彼女がエプロンの下に着ている紺色のセーラー服は近くの公立校のものだ。少々堅苦しいデザインではあるが彼女が身に纏えば何もかもが愛嬌に変わる。
 一方で先ほど彼女が着ていたブレザー――おそらく例の友人Aにでも借りたのだろう――はこちらの私立校で採用された、いくらかカジュアルな代物だ。普段よりどことなく幼げで明るい印象を受けた。
 ……などという品評がしたいのではなく。
「どうして彼女がこの学校に……?」
 彼女の用事とやらに関係があるのか?
疑問は募るばかりだった。真相を探りたいところだが実はこの頃、この周辺を警官が執拗に巡回している。そうでなくとも下校途中の生徒の注目を集めかねない。僕のような不審者が自由に出歩ける世間様でもないのである。
 仕方なしに僕はポケットをまさぐった。変装用に調達した金色の大仏マスク(税込み一〇八円)に指が触れる。
 そいつを取り出し――余計に目立つだけと気づいて再びポケットにしまい込んだ。そうでなくともこのマスクは一度彼女に見られている。こいつにだけは頼れない。
「どこかで暇を潰すしかないか」
 できればこの高校の生徒たちが寄りつかないような、と条件を掲げながら、そんな場所が近場にあるはずもない。かといって喫茶店に度々顔を出すのも気が引けたし、となると思い当たるのは。

 彼女には父親がない。
 つまり母子家庭であるわけだが、実はそんな状況も、もうじき終わりを迎えようとしている。というより、していた。
 詳しく調べたわけではないが、彼女の母親が彼氏を作って、じきに再婚しようとしている、というような情報を掴んだ。
 その彼氏こと義理の父親(予定)の姿を僕が初めて目にしたのがこの公園である。
 喫茶店から少し歩いたところにあるここは遊具と言えば錆び付いたブランコただ一つ、緑色のペンキが剥がれ落ちた鉄柵に囲まれ、その縁にそうようにしてコナラだかクヌギだかの植木がドングリを振りまいている。その主役たる子供にすら見放され、夜中には野良猫の集会所となっていた。
 ひどくうら寂しい場所だが、バイトに疲れた彼女の休憩所にもなっている。
 彼女がよくベンチ代わりにしていたブランコに腰掛け、僕は長く全身から疲労を押し出すように吐息をついた。
「疲れた……」
 手の中でカフェオレのスチール缶を転がす。くたびれた体にはこいつの甘さが身に染みる。
……だけど僕はいつまでこんなことを続けているつもりなのだろう?
 ここにいても彼女には会えない。一度義父(予定)と出くわして以来彼女はここに寄りつかなくなっていた。秘密の隠れ家だったのだろう。
こんなうら寂しい公園にいたって何も始まらない。
「何もないからなぁ、ここ」
 そう遠くないうちに取り潰されるんだろうな。そんなふうにして暢気に構えていたら。
 カサリと。
 誰かが落ち葉を踏み締めた。入り口の方からだ。僕は咄嗟に駆け出す。
「んぅ~、良かった! 今日は誰もいないんだぁ!」
 ここにいるよ、とそう叫び出しそうになるのを僕は植木の幹の裏でじっと堪えていた。
「慣れない制服って肩凝るなぁ」
 果たしてそこを訪れたのは普段と異なる制服姿の彼女である。
「……本当に誰もいないよね?」
 呟くと油断なく辺りを見回す。
 無論、ここにいるのは置物と化した不審者一名のみである。警戒すべきものしかいない。
 やたらと周囲を気にする彼女であったが、やがてふっと肩の力を抜くとブランコに腰掛けた。
「やっぱり、ちょっとあったかい……」
 今日は妙に鋭いなぁ!?
「最近視線を感じるけど、誰かが見守ってくれてたりするのかな……?」
 ただ追い回しているだけだよ、なんて伝えたらどんな顔をされるのだろう?
 けれど彼女が思い描いているのは見知らぬストーカーなどではないようで。
 その証拠にこっそりと覗き見た彼女の横顔は手元の小物……遺品だろうか、そいつに目を落としていた。
「お父さん……」
 見てはいけないものを、目にしてしまったような気がして。
 もぞもぞ居住まいを正そうとした僕であったが、何気なく動かした頭が木の幹と擦れる。
「痛……ッ!?」
「……あれ? そこに誰かいるの?」
 気づかれたのか!?
 ブランコの鎖が軋む。彼女が立ち上がる。
 痛む後頭部を抱えながら左右を見渡した。何でもいい、注意を逸らせるものがあれば。
 目に付くものと言えば辺り一面に散らばるどんぐりである。それを一掴み、握り締め――
「――ってこんなもんが役立つかよッ!?」
「いま声が……やっぱりそこに誰か!」 
 僕の馬鹿野郎、ノリツッコミをしてる場合か!?
 限界まで頭を巡らせると、僕は震える指でケータイを取り出してマスターの番号を呼び出す。
 1コール、2コールと虚しく繰り返される呼び出し音。あわや3コール目が鳴り終わろうとする頃に。
『お電話ありがとう――』
「――マスター、僕です! 今すぐ彼女に電話をかけて下さいっ!」
『は?』
「いいから早く! ではこれで!」
 小声かつ早口で用件だけを伝えると返事も待たずに通話を中断する。
「ふぅ……これで間に合うといいが」
 つい先日から彼女がケータイを所持し始めたことは確認している。あとはマスターの気分次第なのだが。
「あれー?」
 彼女の足音が止まらない。おそらくは可愛らしく小首を傾げながら着実にこちらの気配を嗅ぎ取りつつある。犬か何かのようである。たぶん柴犬の子犬辺り。
 マスターはまだなのか?
「……ってケータイが震えてる」
 彼女の方からガサゴソとポケットをまさぐる音が聞こえてきた。マナーモードにしていたらしい。
おいおい勘弁してくれよ。
「え? 何ともありませんけど……忘れ物?」
 どういったやりとりがあったのかは推察できなくもないが、それはともかく。
 マスターに呼び出されたようで、彼女は怪しげな物音のことなど忘れてとぼとぼとと歩き去る。
「ブチかクロだと思ったのになぁ」
 確か、そんな名前で呼ばれている野良猫たちがいたはずだった。

「こんな時間まで何してたの? これから忙しくなるから手伝ってちょうだい」
 時刻はお昼どき、にわかに混雑し始めた店内を背にマスターはエプロンを投げつけてきた。
「ぼふっ」
 顔に命中したそれを胸の前で受け止める。それでも僕の頭は呆けたままだった。
「何やってんのよ。あんたさっきからどこ見て……」
 呆れたマスターが、それでも僕の視線の向かう先を追いかけた頃には素早くカウンターの裏に引っ込んでいる。
「あ、ちょっと……!」
 物音に気づいたマスターが呼び止めようとするが当然聞いちゃいない。
 重たげな扉がのっそりと外側に引きずられる。光が差し込み、こじ開けられた扉の隙間からその小さな体が滑り込できた。
「杉山さん、こんにちは!」
 額を拭ってはにかみながらもいつもの制服姿の彼女が微笑む。
「え、えぇ……」
 マスターが明らかに僕の隠れたカウンターの方を気にしながらも曖昧な笑顔で答えた。
 その表情の意味を捉えかねたのか、彼女が不安げにマスターの顔を覗き込んで。
「え、えっと……ご迷惑でしたか?」
「そんなことない! そんなことないわよ!」
 幸いにもマスターは僕のことなど捨て置き、彼女の応対に当たった。
「それで、今日はどうしたの? もしかしてもう用事が済んだとか?」
「いえ、そういうわけじゃなくて……」
 快活な彼女にしては歯切れ悪く、ちらちらと何やら窓際のとある一席を頻りに気にしている。それから足下に目を落としてもじもじとつま先を弄び、色あせた床板を踏み締めて顔を上げた。
「あっ、あの! あの席にいた男の子って……」
 僕は溜まらず息を呑む。そしてその反応はマスターにしても似通ったものであった。
「もしかして知り合いだったの!?」
 訂正、僕が気にしているのはそこじゃない。
「いえ、全然名前も知らない人で、あたしが来るといっつも隠すので顔も分からなくて」
「そりゃそうよねぇ……」
 マスターが意味深に溜め息をつくとカウンターを振り返る。
「ですけど、どうしても会いたい人がいて、もしかしたら彼がそうかもしれないんです」
「どういう経緯があれば、そんな状況に陥るのよ……」
 やっぱりというかマスターは呆れ気味で、でももう僕を振り返ろうとはしなかった。
「つまり家の場所でも教えればいいわけ?」
「い、いいんですかっ? もし教えていただけるのなら、ぜひ……っ!」
 この野郎、人の住所を許可もなく……待てよ、僕の家だと?
「メモになるものを……あったあった」
 マスターはカウンターの台帳からメモ用紙を一枚引き裂くと手早くペンを走らせる。
 まずい、僕の家はまずい。だけど今ここで顔を出せばここにいるとバレてしまう。こんな不本意極まりないシチュエーションで彼女と初顔合わせにはなりたくない。
「……ほらできた」
「やった! ……じゃなくて、ありがとうございます!」
 表情豊かに小さく飛び跳ねる彼女の姿はやはり愛らしい。……などと考えている場合ではなく。
「それじゃあ早速行ってみます! ありがとうございました!」
 慌ただしく、それでも扉で一旦苦戦してから彼女はまたたく間に店を飛び出していく。
 それと同時に僕もカウンターから這い出ていた。
「やばいですってマスター! 僕の家は……!!」
「え……? って、……あ」
 今になってマスターもようやく思い至ったらしい。巨躯がたちまち竦み上がる。
「ど、どうしましょう、今あの子が……」
「ともかく、僕はあとを追いかけますからっ!」
 僕はこの店の表口を使えない。この店の常連だったと知れ渡っているせいだ。どこから監視されているか分かったもんじゃない。
 僕は焦る気持ちを呑み下し、多少の遠回りを覚悟した上で裏口に回ると店外へ駆け出した。

 狭くて入り組んだ塀と塀の隙間を駆け巡る。
 寒さが幾分か和らぎ、晩冬の空からも雪の気配が遠のいていた。いくらか暖かくなったその下を全速力で駆ければ首筋や額にも汗が滲む。
 それでも表通りが使えない僕は回り道をするしかなかった。足は緩められない。
「クソっ! 時間がないってのに……!」
 目的地までもうそれほど遠くはない。人目を避けて、細い路地を選んでいるのに遠くからじわじわと喧噪が静寂を蝕んできた。
 その発端に徐々に近づくに連れて僕の動悸は不規則に高鳴り、喉から心臓が飛び出しそうで吐き気がする。
 やがて車一台分ほど横幅のある小道に出ると、そこから二車線の道路が走る(この辺りにしては)大通りの寸前まで駆け抜けた。
 その曲がり角で足を止めてそっと小道から顔を覗かせる。
 通りの向こう、一本隣の国道に通じるT字路に面した家屋の前で記者らしき一団がたむろしていた。先日までは見かけなかったカメラクルーやらマイクを持ち込んだ報道陣までもが紛れ込んでいる。
 そして、そんな彼らのただ中に飛び込んでいく小さな人影。
「通して下さい! どうしても、会わなきゃいけない人がいるんです……っ!」
 人垣を押しのけて、目的の家屋に分け入ろうと彼女が奮闘していた。押しては押し返され、程なくして小柄な少女はあっさりと跳ね退けられる。
 そうして尻餅をつき、注目を浴びて。
「あれ……この子って……?」
 集まった視線の色合いが一瞬で変じた。彼女を起点として連中が一斉に色めき立つ。
 僕は気づかれないように顔を引き戻すと生け垣に背中を押しつけるようにして息を整えた。
 このまま彼女を放ってはおけない。だけど顔を見られるわけにもいかない。
 だから頭を巡らせて、考えつき、渋々例の大仏マスクを取り出した。塗装が剥げかけて汗くさくて、それでも顔を隠す用途に支障はない。
 こいつがあれば顔を見られずに済む、だけど……。
「確か見られてるんだよなぁ、彼女に」
 そうなのである。こいつをつけた状態で、僕は一度彼女とはち合わせている。こいつに頼れば最高の出会いを果たそうという僕の計画が――
「――待てよ」
 現在、間違いなく彼女は報道陣の群れの中で揉みくちゃに弄ばれている。そこに颯爽と駆けつけて彼女を助け出す僕の姿は、うん、大仏マスクに目を瞑ればそれなりに格好はついている。
 決断すると同時に僕は物陰を飛び出していた。彼女を待たせてはいられない。
 いつの間にか彼女を飲み込んでいた人の群の中に全速力で駆けつけて勢いを緩めずそのまま肩をねじ込んでいく。
「どけぇ!」
 怒号と悲鳴が飛び交う。無数の手のひらが僕の顔を叩き、集団から引きずり出そうとする。
 けれど金色の大仏さまは――そのカワを被った変質者は、そんなことでは怯まない。
「邪魔だぁあああ!!」
 汗で湿ったTシャツの背中の山に埋もれていく。手をがむしゃらに伸ばして左右の肩に手をかけ、自らを前方へと引きずり出し――
「――おっと」
 突然手応えが途切れて、前のめりに人混みの間隙に落ち込んだ。そこで誰かと額をぶつけて。
「「痛ッ!?」……って、あなたは!?」
 額をぶつけた当の相手であるところの少女が呆けた顔で僕の大仏マスクを見上げる。
へたり込んでいた彼女に僕は手を差し伸べた。
「いいから、今はともかくここを離れよう」
 彼女は無言で頷くと僕に付き従ってくれた。

 けれど彼女が唯々諾々と従ってくれたのはほんの短い間の出来事だった。必死になって彼女を引っ張り出してしまうと、すっかり名前も告げずに逃げ出すことばかりを考えていた僕だったのだが。
「ついてきて下さい!」
「え? でも……」
「いいから!」
 そうして情けないことに何の反抗もできず、僕が引きずられていったのは赤褐色の壁面が薄汚れた一軒家であった。二階の窓ガラスが大きく張り裂けて木板とガムテープで簡易な修繕が施されている。
「ただいま」
 そこが彼女の住まい。随分と寂れて生気を失った、彼女の帰るべき場所である。
 その二階の廊下では窓が列をなしていた。そこから差し込む日溜まりの中で煌めく無数の埃が舞い上がる。
 その列の中でただ一点、ガラスの代わりに填め込まれた木板が作る日陰を境に僕らは足を止めた。
「この割れた窓に覚えがありますよね?」
 彼女は振り返るなりそう質問をぶつけてきた。応えるように後頭部がずきずきと痛む。
「そんなことが聞きたくて僕を呼びつけたわけじゃないよね?」
 言葉を選ぼうとしたのか彼女の視線が宙をさまよう。
「そうだけど、そうじゃありません。ともかくあなたに会いたかった」
 彼女が僕に、この大仏マスクの変質者に会いたがった理由。苦々しいものが去来する。
「それは……僕が、――君のお父さんを殺したから?」
 彼女は目を見開く。それから何かを堪えるように息を呑み込み、それでも抑えきれずに声を張り上げた。
「――あんな奴、お父さんなんかじゃありません!」
 真っ先に、何よりも早く言い放った台詞がそれだった。僕に対する恨み言ではなく。
「あなただって見てたんですよね!? あの人が公園であたしに何をしようとしてたのか!」
 見ていた、というか、バレていたのか。
「あのとき、アイツに石を投げて助けてくれたのってあなただったんですよね!?」
「石じゃなくてどんぐりだけどね」
 たぶん大事なところはそこじゃない。だけど僕だってどう取り合えばいいのか分からなかった。
 だって彼女は、あの母親の彼氏から。
「だから君はここにも帰れずに、ずっと友達の家に泊めてもらっていたんだっけ」
「なんでそんなことをあなたが知ってるんですか?」
「そりゃあ……」
 まさかずっとあとを尾けていたから、なんて言えるわけもなく。
「あの……最近ずっと視線を感じてたんですけどもしかして……」
 僕が居たたまれなさのあまり顔を背けると「だからだったんですね」と彼女は言葉を続けた。
「あの日……あたしがこの家に連れ込まれたあのとき、あなたはこの家に飛び込んできた。……襲われていたあたしを助けてくれた」
 おめでたい解釈だけど、その通りだ。
 あの日、門前で悲鳴を聞きつけた僕はマスクを被ってここに踏み込んだ。男と揉み合い、その最中に頭をぶつけてガラスをかち割って、それから。
「そこの窓から落ちた君の……えっと、母親の彼氏は結局亡くなったんだよね?」
「はい。二階からでしたが、運悪く首の骨が折れたって……」
 彼女はそんな台詞を苦々しげに、悼みも喜ぶこともできずに顔を伏せて呟く。
「君は別に、そのことで僕を恨んで探してたわけじゃないんだろ?」
「当たり前ですっ! 絶対違います!!」
 恨まれてるなぁ。だからといって同情心は一片もわき起こらない。
「だったらどうして僕なんかを探していたんだ?」
「え……?」
 顔を上げた彼女の黒目がちな瞳に大仏の顔が映り込む。
「探してただろ。僕が通っていた高校に制服を借りてまで忍び込んで、最後には僕の家を訪れて」
「ホントにずっと見てたんですね……」
 彼女はぎこちなく微笑みながらも頷く。
「はい、探してましたよ。探して、それからお礼が言いたかったんです」
「お礼?」
「あなたが一番の味方だったから」
 ただのストーカーを相手に買い被り過ぎである。見ていられなくて僕は足下に目を落とす。
「理由なんて関係はありませんよ! 現実に駆けつけてくれたのはあなただけだったんです!」
「……そ、そっか。うん、じゃあ素直に受け取っておこうか」
 たぶん反論を始めたらキリがない。僕は素直に頷くと背を向けて――
「――待って下さい! またそうやって逃げるんですか!? 卑怯ですよ、あたしにばっかりこんな話させて!」
 自覚はあるが改めて卑怯者呼ばわりされると地味に傷つく。傷つくけど、その認識は改めないで欲しい。
「……そうだよ。僕は卑怯者だ。ストーカーで、しかも今は殺人犯で、見ての通り人間のクズだ」
 マスターに匿われてほんの数日逃げ延びた。だけどここらが限度だ。僕にしてやよくやった方だと思う。
「君の顔が見られただけでも……それから少し話せただけでも、十分過ぎるんだ。もう満足した」
 だからいい加減に向き合おう。僕を待ち受ける現実は彼女との幸せな日常なんかじゃない。
「ありがとう、僕なんかに――いっ、でっ、で!?」
 皮膚がひきつる。巻き込まれた毛髪と頭皮が悲鳴を上げる。
「こんなマスク、ずっとつけてるなんてずるいですよっ!」
「待った待った待った! 引っ張るな自分で外せるから!」
 悲鳴を上げると彼女は手を放した、その代りに。
「こっち向いて下さい!」
 肩を掴んで向き直らされた。遠慮と容赦がなさ過ぎる。
 だけど僕はその時になって初めて真正面から彼女と向き合った気がした。僕よりもずっと懸命で、真っ直ぐな眼差し。
「何のためにあたしの後をつけてたんですか?」
「へ?」
「何のためについて回ったのかと聞いてるんです!」
 覚えている。覚えているけど、今の自分が今更あんな動機を抱えて彼女と向き合えるとは思えない。
「いいから教えて下さい!」
 異論も許さずにぐいと彼女は詰め寄ってくる。迫る彼女の瞳が間近から僕の目を覗き込んでいた。
「そんなことを聞いてどうするの?」
「自分を助けてくれた人のこと、知りたいと思っちゃいけませんか?」
「そんなの……」
 彼女の理屈でしかない。でも口では勝てる気がしなかった。
「大した理由じゃないよ。ただ声をかけられなかったんだ。だからずっと後をつけるしかなかった」
 最高のチャンスがやってくるはずだと自分に言い聞かせ、そいつを待ち侘びているのだと好都合な言い訳を拵えて。
「君の言う通り卑怯者なんだよ僕は。だからもう……」
「……待ってください。もう少しだけ、ここにいて下さい」
 僕よりも一回り小さな手が僕をその場に繋ぎ止める。
「他に頼れる人がいないんです! お母さんはおかしくなっちゃって、お父さんは勝手に死んじゃって! あたしのこと、見守ってくれるなら最後まで傍にいて下さいよ!」
 無茶苦茶な理屈だった。けれどもそれで彼女を捨ておけるようなら、僕はこの場に立ってはいない。
「分かったよ。じゃあもう少しだけここに居残るそれで――」
「――そんなんじゃ納得できません! 何もかも誤魔化したまま、ほんのひととき慰められるなんて惨めなだけじゃないですか!? あたしはそんなものが欲しいわけじゃない!」
 だったらどうしろって言うんだ?
 僕がそう問いかける前に彼女は僕のマスクに手を伸ばす。
「だからそれを外すんです!」
 油断していた僕はあっさりとマスクを、最後の障壁を引き剥がされる。
「……抵抗、しないんですね」
 油断していただけだ。
「今は別れるのならそれでも構いません。だからせめて始めませんか? あたしたちの関係を」
 ストーカーとその被害者ではなく、不運な少女とそれを助けたヒーローでもなく。
 彼女が求めているのはきっと演出された僕じゃない。
「僕の努力は一体……」
「今、何かおっしゃいましたか?」
「いいや、何でもないよ」
 仕方がない、彼女が望んだことなのだから。
息を吸って、吐いて、それから全てを一から始める。
「初めまして。僕の名前は――」

オリスト
作家:oristo
アンソロジー『出逢い』
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