私の過去の傷についてはさんざん今まで別の電子書籍に書いてきたし、改めては今は書かないことにします。
傷というものは、埋められる、癒されるとき、傷と言いません。一生残るから傷なのです。しかし、戦うことが心地いい。それを感じることができれば、あなたは傷に打ち勝っています。あなたを傷つけた人に完全勝利しています。
傷は、人に傷つけられてできます。しかし、埋める作業から逃げない方法がひとつあります。探すこと、考えることです。何でもいい、傷を埋めてくれるものを探すのです。高校の時の勉強は、私にとって一時のものでしたが、大きな収穫がありました。用意したたくさんのノートは、私を前に押し出してくれました。
私は心から、前へ進もうと必死になっていると思えました。その必死な私を、「着実に前に進んでるね。妹のように思うよ。」と言った人がいましたが、その人は私がすでに道をたくさん歩いてきたことを全く知り得ません。
誰がどう思おうといいではありませんか。ゆっくりと傷と向き合えばいいのです。傷つけてくる人なんて、所詮は最後、神に裁かれるだけです。
私は、一人、自分が地に落ちても助けたい人がいました。その人は、奥さんに苦しめられ、ぬけがらのようになっていました。しかし、私はその人から手を離し、その人は奈落の底におちていきました。私を苦しめぬいたのは、傷つけぬいたのは、その奥さんです。しかし、私は住んでいた地を離れ、幸せを自分なりにつかみました。もう振り返らないと言い聞かせ・・・。
どんなに私が痛かったか・・・。その痛みは、ぬかるみの中でノートをたくさん買って、高校の勉強をしたことで、クリアーになりました。
ああ、私は頭の中の膿を出したいのだ・・・女の人の醜さに、私の頭は膿んでいた。その頭のズキズキは、旦那さんを助けることではとれるものでなく、あのような醜い奥さんを選んでしまったあの人を見放すことでしかとれないのだと。理系の勉強を少しすることで、「切り捨て」ということがはっきり認識できました。腐ったみかんを大事にする人に未来はない、神の世界はもうひらかれないと。だから、周りにはバカにされましたが、私はノートを買って理系の勉強をしました。それは、私の頭の中の手術でした。