紅ヴァンパ ようこそ紅浪漫社へ

紅ヴァンパ ようこそ紅浪漫社へ638の有料書籍です。
書籍を購入することで全てのページを読めるようになります。
紅ヴァンパ ようこそ紅浪漫社へを購入

第一章 獣人( 1 / 3 )

紅ヴァンパ ようこそ紅浪漫社へ




「おまえら、高校生になって初の定期試験が終わったからって、気を抜くんじゃないぞ」

 教壇きょうだんで日本史の教科書を持つ教師が、生徒たちを見てそんなことを言ってきた。

「さて、ここでいよいよ聖徳太子しょうとくたいしの登場だ。数多くの伝説を残した日本史上の有名人だな」

 と言った教師が、教卓に置いたタブレット端末に軽く指を触れる。その操作に合わせて、電子黒板に聖徳太子のしょうぞうが映し出された。

 ただし、生徒たちの教科書には聖徳太子の肖像画は載っていない。一般に知られている聖徳太子像は後世に描かれたため、時代的に正しくない服装になっているからだ。

「聖徳太子。最近は平安時代に作られた架空の人物という説もあるが、授業では教科書にある通り、実在しているものとして説明するぞ」

 説明を続ける教師が、またタブレット端末を操作した。肖像画の下に『うまやどのおう』という文字が現れる。それを真剣に見る生徒たちが、その文字を授業ノートへ書き写していた。

 だが、最前列の窓ぎわに座る女生徒だけが、ノートを取らずに窓から外を見ていた。

「日出ずるところの天子、書を日没するところの天子に致す。つつがなきや?」

 女生徒がぼそっと一節をこぼして、小雨まじりの曇り空を見上げる。

 季節は梅雨が始まった頃。今日も朝から陽射しがないため、肌寒い一日だ。そのため制服は夏物に替わっていても、多くの生徒たちは長袖を着ている。しかも、ほとんどの女生徒たちはサマーベストを着ているほどだ。

「浅葉。浅葉香菜。ちゃんと聞いてるか?」

 教師がくもり空を見ていた女生徒──香菜に注意してきた。

 香菜は女生徒の中でも小柄な方だった。美人というよりは、可愛いという印象の強い女生徒である。その香菜が、視線をゆっくりと前へ戻してきた。

「あ、すみません」

「浅葉。最近、ちょっとたるみすぎだぞ」

 前を向いた香菜に、教師がそんな注意をしてきた。

「おまえは入学式の総代で一組のルーム長を任せてるというのに、この前の中間テストの成績は何だ? 全教科赤点スレスレなんて、たるみすぎだぞ」

「え? 総代とかルーム長は、あたしが一組の出席番号一番だから任されたんじゃ?」

 ぼやく教師に、香菜がそんな言葉を返す。それに教師が、

「まあ、いい。そういうことにしておこうか」

 すぐに注意を切り上げて、わざとらしく大きな溜め息を吐いた。その教師が髪をぽりぽりと掻きながら、

「えっと……。次はおのいもけんずい使だな」

 と、歴史の授業へ戻っていく。

 香菜はしばらくの間、その教師に目を向けていた。だが、

「……だるぅ」

 と小さく零すと、また顔を窓の外へと向けた。

 先ほどよりも雨粒が大きくなったのか、雨音が少しだけ大きくなっていた。西の空からは厚い雨雲が流れてきている。

 そんな空をボーッと見ている香菜の様子を斜め後ろに座る髪の長い女生徒が、無表情な顔で観察するように見ていた。



「……なるってぇ〜っ、い・る・ん・じゃ・ないっ!」

 その日の放課後、香菜はカラオケ店に寄っていた。

 今、カラオケルームではマイクを持った香菜が元気に踊っている。

 カラオケ機の上には小さなミラーボールがあり、そこに光が当てられている。曲に合わせて点滅したり色を変える仕掛けの光だ。その光がミラーボールに乱反射させられて、細かな光の粒が室内をクルクルと回っている。

「……てぇ〜るっ♪ イェ〜ッ!」

 元気に歌い終えた香菜が、マイクを高く上げてピョンと跳ねた。それで広がったスカートが、次の瞬間には香菜の脚に巻きついている。

「あはは。香菜、音程はずしまくってたよ」

「相変わらず、無駄にテンション高いわね」

 部屋には香菜の他に、二人の女子高生がいた。とはいえ同じ学校の生徒ではない。三人とも制服の違う、別の高校へ通う者同士だ。

「あ〜、喉が渇いた」

 まだアウトロは続いているが、香菜がマイクを持って席に戻ってくる。

「なぁ〜んだ。が香菜が元気ないってゆーから心配したのに、ぜんぜん元気じゃん」

「え!? あたし、元気なさそうに見えた?」

 セーラー服の女子高生の言ったことに、香菜が飲み物を口へ運びながら聞き返す。

「うん。見えたよ。この前、街で見かけた時、声をかけるの、ためらったもの」

 もう一人の女子高生──千華が、そんなことを言いながら自分でも飲み物に手を伸ばした。

 その千華がコップを口に近づけて、

はらってすごい進学校だから、香菜、勉強が大変なんじゃないかと思って……」

 と、心配そうな声で尋ねてくる。

「うん。この前の中間テスト、全教科平均以下だったわ。それも赤点スレスレよ」

「あはは。元気がないのは、それが原因ね」

 香菜の答えに、セーラー服の女子高生が明るく笑う。だが、

「違うよ、。なぁ〜んか、この一か月ぐらい、やたらと身体がだるいのよねぇ〜」

 と、香菜が訂正してきた。

「だるい? 五月病なの?」

「うん。たぶん」

 セーラー服の女子高生──由希の問いかけに、香菜が苦笑を浮かべながら答える。

「何て言うかさぁ。家と学校では気だるいのに……」

「ここでは思いっきり元気よね?」

「千華。そうなのよ。ここに来たら、だるさがすっかり消し飛んだのよ」

 香菜が元気な声で肯定する。その香菜に、

「それにしても香菜が茅野原に通ってるなんて、今でも信じられないよね」

 と、由希が言ってきた。その話に千華が、

「香菜、夏休みの前までは、あたしたちと同じぐらいの成績だったのにね」

 と乗ってくる。集まった三人は、中学時代の仲好しトリオだ。

「『絶対にお医者さんになるんだ』って、すっごく勉強して茅野原に入ったものね」と千華。

「それで燃え尽きちゃったのかな?」と訊いてきたのは由希だ。

「燃え尽きた……ねぇ。そうかも……」

 少し考えながら、香菜がまた飲み物に手を伸ばした。そして、

「うん。それで五月病になったのかもね。もう六月だけど」

 と言うと、グラスの残りを一気に飲み干した。

「じゃあ、カラオケに誘って正解だったかな? 気分転換に……」

「うん。ありがとうね。そういう由希も、よくせいせん女子に入れたわね。あそこ、超有名なお嬢さま学校なんでしょ?」

「それ、あたしも聞きたい。女子高の実態って、どんな感じ? 外ではお澄まししてるけど、学校の中では女を捨ててる人が多いって話はホントなの? それとも都市伝説?」

 香菜が切り返した話題に、千華が興味津々に乗ってきた。それに、

「そうねぇ。あたしも入る前は校内に男子がいないから、お気楽だと思ってたんだけど……」

 と語り出した由希が、うつろな目で天井を見上げる。

「あいさつは何でも『ごきげんよう』。先輩を呼ぶ時は『お姉さま』。先生や先輩にあいさつする時は、立ち止まって腰を一五度の角度に……。その時の手の位置は必ず身体の前で、おヘソよりも上であること。まるで異世界に放り込まれたような気分だわ。マジで……」

「うわぁ〜。由希には似合わねぇ〜」

 香菜がちゃすような口調で言う。それに、

「うん。それは自分でもわかってる」

 と答えた由希が、手でスカートを押さえながらソファの上であぐらをかいた。

 入力用タブレットを持った千華が二人に「歌わないの?」というような仕種を見せながら、

「ところで香菜。茅野原は授業の進みが早いって聞くけど、今は何をやってるの? 理数系だとわからないから……。そうね、歴史はどのあたりなの?」

 ということを尋ねてくる。

「歴史の授業? 今日は聖徳太子だったわ」

「聖徳太子!? ウソ。うちは平安時代よ。夏休みまでに鎌倉時代を済ませるって……」

「あ、教える順番が違うのよ。四月五月に幕末からの近代史を先にやっててね。中間テストが終わってから教科書の初めに戻って、縄文時代からやってるところなの。それで時間に余裕があったら、もう一度近代史を深く掘り下げてやるって言ってたけど……」

「何、それ? なんか、すごそう……」

 質問に答える香菜は、タブレットを持って曲を選んでいた。その香菜に、

「そういえば香菜。あんたが目標にしてるお医者さんだけど……」

 と、由希が別の話題を振ってくる。その話に、香菜が顔を向けてきた。

「最近、よく金髪の若い女の子を連れてるのを見かけるわ」

「きゃあ! ひょっとして新しい恋人?」

 香菜よりも先に、千華が話題に喰いついてきた。

「由希。どんな人なの? 美人?」

「それは……」

 千華の放つ聞かせてオーラに、由希が退いていた。その由希に代わるように、

「ベリア・マクローリさん。ジャーマイン先生の新しい秘書さんよ」

 と、香菜が女性についての情報を教える。

「なぁ〜んだ。もう知ってたのね」

「うん。春休みに茅野原に合格したって、ジャーマイン先生に報告しに行った時にね。新しく来た秘書さんだって紹介されたの」

「ねえねえ。前の綺麗な人は?」

 また千華が、瞳を輝かせて訊いてきた。

「エリスさんは秘書を辞めたって聞いたけど……」

「結婚するの?」

「さあ、そこまでは聞いてないわ。国へ帰ったんじゃないかな?」

「アメリカだっけ?」

「うん。アメリカのフィラデルフィア。ロングビーチに近いところらしいわ」

「フィラデルフィア? ニューヨークの右だっけ? 下だっけ?」

「由希。あんたねぇ」

 セーラー服を着た由希の言葉に、千華が笑いながらツッコむ。その一方で香菜は、

「二人とも歌わないんだったら、またあたしが歌っちゃうわよ」

 と言って、持っていた入力用タブレットで曲を選んだ。

 それからほとんど間を空けずに、イントロが流れてくる。



「それじゃ、香菜。また遊ぼうね」

「うん。またね!」

 カラオケ店から出た頃には、すっかり雨は上がっていた。点々と水溜まりが残っているものの、商店街を行き交う人たちは誰もが傘を閉じている。

 その商店街を出たところで、香菜たちは別れることになった。香菜が帰るのは商店街を出て右へ向かう新興住宅地。二人が帰るのは反対側の旧市街地の方向だ。

「香菜、意外と元気そうで良かったわね」

「千華が心配しすぎなんだよ。ああぁ〜、今日はなんだか疲れたわ」

「久々に香菜のテンションに合わせて、騒いじゃったからね」

 由希と千華が香菜を見送りながら、そんな言葉を交わす。

「ところでさ。中学の時のクラスから茅野原には、ひろも行ってるでしょ」

 千華が手を振るのをやめて、帰る方へ身体を向けた。

「その宏美から聞いたんだけどさ。茅野原の入学式で、香菜、新入生の総代だったらしいわ」

「香菜が総代? 高校の総代って、その年の入試で一番成績が良かった人がやるんじゃなかった? 何かの間違いじゃないの?」

 一緒に歩き出した由希が、千華に事実を確かめてくる。

「それがさ、宏美の話だと、香菜、一組のルーム長らしいのよね。茅野原って、入試の成績で一組から順番にクラスが分けられて、各クラスで一番成績のいい人がルーム長を任されるって話よ。香菜は一番上の特進クラスのルーム長。ということは学年トップで……」

「千華。その情報、間違ってない? 香菜、この前の中間テストで、全教科赤点スレスレって言ってたじゃない」

「それ、あたしたちが思ってる赤点と同じなのかな?」

 千華がそう言ったところで、二人が同時に立ち止まった。そして顔を向け合って、

「香菜の言ってる赤点って、茅野原では下のクラスに落とされるって意味だったりして……」

「それは、ありそうな話ね」

 という言葉を交わす。

「千華。宏美って、何組?」

「三組だって聞いたわ」

「宏美って、中学ではいつも学年の上位にいたよね?」

「総合成績では、ずっと一〇位以内にいたと思うわ」

「香菜は?」

「さあ? 学校が貼り出した上位二〇人の中に、名前を見たことないけど……」

 そこまで言いかけて、千華が「う〜ん」とうなる。

「その香菜が、茅野原にトップ入学?」とは由希のひとこと。

「香菜。受験前、ヘロヘロになるまで猛勉強してたものね」とは千華の言葉。

 そこでまた二人が顔を見合って、しばらくの間黙り込んでしまう。

 『ありえねぇ〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!

 二人の声がハモった。しかも仲好く頭まで抱えている。

「か、香菜に確かめよう」

 千華が携帯電話を出して、電話をかけようとする。

「ま、待ってよ。千華。香菜には何て訊くつもり……」

 そう由希が言う頃には、千華は携帯電話を耳に当てていた。すでに呼び出し中だ。だが、

「話し中……だわ」

 電話は香菜につながらなかった。それで電話を切った千華が、どこかホッとしたような顔をしている。

「えっと、どうしようか?」

「忘れましょ。そんな異世界の話は」

 そう答えた由希が、ゆっくりと歩き始めた。その後ろから近寄ってきた千華が、

「由希の周りって、異世界だらけね」

 と、身体をやや前かがみにして、由希の顔を横から見上げるような恰好で言う。

「そうよ。あたしたちの住む世界のすぐ隣には、パラソルワールドって異世界があるのよ」

「パラソル? パラレルワールドじゃなくて?」

「あぁ〜……」

 由希は言い間違えたらしい。だが、持っていた傘を開いて、

「ほら、知らないことって、どんどん増えるじゃない。それが末広がりに膨らんでいって、最後にはパラソルに……」

「苦しい、苦しい」

 由希が続けた言葉を、千華が笑いながら聞いている。

 高校生になって通う学校は分かれても、仲の好さは変わりないようだ。

 その二人と別れた香菜は、

「うん。ゴメンね。お母さん。中学の時の友だちと話してたら、つい時間を忘れちゃって」

 携帯電話で家に帰りが遅くなることを伝えていた。

 遅くなるといっても、まだ空は明るい。夏至が近いため、日の入りが遅くなってるからだ。

「今? 青葉の商店街から、病院の前を通る道よ。うん。一〇分ぐらいで帰れると思う」

 電話で話しながら、香菜がちらっと大きな建物を見上げた。りつあおびょういんの建物だ。

 病院の入り口の上にある時計は、夕方の七時過ぎを示している。外来の診療時間は終わっているためか、正門にある金属製のスライド式のもんは半分だけ閉じられていた。

「……あれ? お母さん?」

 突然、携帯電話の通話が途切れた。それで携帯電話の画面を見ると、

けんがいになってる……」

 携帯電話を肩に掛けたスクールバッグのポケットに仕舞って、香菜は周りを見まわした。

「……誰も……いない?」

 香菜の背筋に電気が走った。

 今、香菜がいるのは、商店街から新興住宅地へ向かう近道だ。途中に急な坂があるため、わざわざ遠まわりする人の多い道である。とはいえ坂の下にも住宅地があるので、この時間帯に人通りが途切れるとは思えない。

「うわぁ〜。時空のはざまにでも落っこちた感じだわ」

 病院を通りすぎたところで香菜が振り返った。

 百数十メートル先に大通りが見える。そこをたくさんの人や車が横切っているのが見えるが、こちらへは誰も入ってこない。視線を坂の方へ戻すと、そこにも人の姿はなかった。それどころか病院からも、出てくる人がいない。半径百数十メートルの中に、香菜一人だけが取り残されたような雰囲気だ。

「これは魔空間?」

 などと言いつつ、香菜が坂へ向かっていく。

 とはいえ遠くから街の喧騒は聞こえてくるし、民家の前を通るとテレビやピアノの音などが聞こえてくる。誰もいないわけではないが、ただ外にいるのが香菜だけという状況だ。

 普通ではちょっと有り得ない状況に、香菜は妙な胸騒ぎを感じている。

「この街の上を、天使が集団で通ったのかなぁ?」

 ふと立ち止まった香菜が、空を見上げた。

 空は今も梅雨時の雲に掩われているが、何か所か雲の切れ目から夕方の空が顔を覗かせている。その切れ目も西から流れてくる雲にふさがれ、替わりに別の場所に切れ目ができる。

「あたし以外にもいるじゃない」

 視線を地上へ落とした香菜の目に、坂道を横切る人の姿が飛び込んできた。それで人通りが消えたのは偶然のイタズラと感じた香菜が、ホッと一安心してから坂を登っていく。

「このへんに住んでるのかな?」

 見かけた人物は、香菜と同じ制服を着ていた。同じ茅野原高校へ通う女生徒だ。

 その彼女は坂道を右から左へと横切っていった。その彼女が入っていった道に目を向けながら、香菜が通りすぎようとする。その時、

「浅葉……さん?」

 戻ってきた女生徒が、また香菜の前に姿を現した。髪の長い女生徒だ。その女生徒の姿を見て、香菜が驚いた顔で後ずさっている。

 それもそのはず。女生徒は顔に大きなゴーグルをかけて、手に自動小銃と思われる武器を持っていた。しかも耳には通信用のヘッドセットまでしている。

 その女生徒の銃口が、今、香菜に向けられていた。

「どうして、ここに?」

「……まさか、……さん?」

 相手の女生徒は、香菜にとって意外な人物だった。教室では香菜の斜め後ろの席に座るクラスメートだ。その加賀谷という女生徒が無表情なまま、香菜に銃口を向け続けている。

「街中でサバイバルゲームをやってるの? そういうの、市街戦って言うんだっけ?」

 香菜の口を衝いて、そんな言葉が出てきた。

 香菜が見詰める女生徒の掛けているゴーグルに、赤い光が点滅している。それと一緒に白い文字や青い矢印が浮かんでいる。何かの表示だろう。

 そこへ、

ぃ〜っ! 獣人じゅうじんは見つかったぁ?」

 と声をかけながら、誰かが駆け寄ってきた。

 顔を向けると、女生徒──優花里と同じような装備をした女の子だ。九歳から一〇歳ぐらいで、ピンク色をした少女趣味の服を着ている。その女の子が香菜を見て、

「な、なんで一般人がいるのよ!? ひとばらいしたはずじゃ……」

 と驚くが、すぐに、

「優花里。こいつ、新手のVだわ」

 と言って、香菜に銃口を向けてきた。こちらはライフル銃のような武器だ。それで二人から銃口を向けられた香菜が、

「な、な、な、な、なんなの? ブイって」

 閉じた傘を持ったまま、両手を高く挙げる。

「そりゃ、フラフラしてるけどさ……」

 香菜が連想したブイは、海に浮かぶ浮遊標識だった。

 その香菜に銃口を向ける女の子は、二本のガンベルトを交差するように肩に掛けている。

 その女の子の掛けているゴーグルに、文字や記号が次々と浮かんでは消えていた。

「優花里。この子、……面白いわ。あんたのお友だち?」

「クラスメートです。クラスメートの浅葉香菜……」

「浅葉……。あぁ、この子がそうなんだ」

 そう言ったところで、女の子が香菜に向けていた銃口を下げる。

「この子……『が』?」

 香菜が両手を挙げたまま、女の子に聞き返した。だが、

さん。それよりも獣人の反応が……」

 クラスメートの女生徒──優花里が落ち着いた口調というよりも抑揚のない口調で言って、銃口を上に向けた。狙っているのは二階建ての民家の屋根だ。

「あんたは今すぐに、ここから離れて。優花里、今度こそ確保よ」

「はい。野乃美さん」

 香菜の質問に答えないまま、優花里と女の子──野乃美が銃を構えて左右に分かれる。

「何かいる……」

 今も両手を挙げたままの香菜が、民家の屋根を見て何かを見つけた。その香菜が、

「何よ、あれ!? 野生の猿……じゃないよね?」

 誰にとはなく尋ねながら、挙げていた両手を少しだけ下ろした。

「猿というより、なんだろ。狼? まさか屋根の上に熊なんて……」

 現れたモノは、遠目で見ても毛深いとわかる化け物だった。人のように二本足で立っているが、背中を曲げてかなりの前傾姿勢を取っている。その化け物──獣人が、

「優花里! そっちに行くよ」

 大きく飛び跳ねて、地上へ降りようとしてきた。

 直後、優花里の持っていた銃から鈍い音が放たれた。その銃から射ち出された何かが、獣人の肩に命中する。

「くっ!」

 着地した獣人が、腕を大きく振りまわした。腕は太く、指先には大きなかぎづめが見えている。まともに喰らったら、無事では済みそうもないほど鋭い爪だ。その爪から身をかわした優花里が、体勢を崩して尻もちを突きそうになっている。

「こいつ、睡眠薬が効かないわ」

 優花里を襲っている獣人に、女の子──野乃美が銃を撃った。麻酔弾のようだ。二発撃ったところで、野乃美が手早くカラ薬莢を出してガンベルトから取った次の弾をそうてんする。

 その間に体勢を立て直した優花里が、また獣人を狙って銃を撃ち放った。

 撃たれた獣人の身体には、いくつもの麻酔弾でもある注射筒がぶら下がっている。

 『があぁぁぁ〜〜〜〜〜っ!』

 獣人が仁王立ちして、空に向かって吠えた。その獣人の身体から、注射筒がバラバラと落ちる。有り得ないことだが、身体に刺さった針を筋肉の力で押し出したようだ。すべての注射筒ではないが、六個か七個は落ちている。

「ああ〜。今度はあたしを狙ってるぅ〜!」

 先ほどまで野乃美の立っていた地面に、獣人の拳が打ち込まれた。狙われた野乃美は素早く後ろへ下がり、反撃とばかりに麻酔弾を撃ち込む。

「弾かれた!」

 麻酔弾は獣人には刺さらなかった。それで弾き返された注射筒が流れ弾となって、香菜のすぐ近くの壁に当たる。

「ひゃぁ! これ、人間に当たったら、どうなるの?」

「たぶん三〇秒以内に爆睡」

 野乃美が次の弾を用意しつつ、香菜の質問に答える。

「ええ〜? 濡れたアスファルトの上で寝たら、風邪をひいちゃうじゃないの」

「問題はそこなの? っていうか、あんた、なんで逃げないのよ?」

 香菜にツッコミを入れた野乃美が、角度を変えて麻酔弾を撃ち直した。

「えっと……。足がすくんで、動けないから……」

「バカ! あんた、死にたいの?」

 そう言った野乃美がきびすを返すと、香菜の腕をつかんで獣人から逃がそうとする。

「エリス。麻酔、まったく効いてないわ」

 野乃美が逃げながら、ヘッドセットで誰かを呼び出した。その野乃美に引かれる香菜が、

「エリス?」

 と、聞き覚えのある名前を耳にしてはんすうする。

 その香菜を引っ張る野乃美が、手近な横道へ駆け込んだ。そして壁の陰へ隠れたところで、香菜を放り捨てる。

「あいたっ☆」

 香菜が濡れた路面に尻もちを突いた。その弾みで持っていた傘が手から放れ、肩に掛けていたスクールバッグもずり落ちる。

 その手前で立ち止まった野乃美が、

「え? 興奮してると麻酔が効かないから、鎮静剤も撃たないとダメなの?」

 と通話を続けながら、ガンベルトの下の方をまさぐっている。

「……うん。鎮痛剤って、そのためのものだったんだ……」

 野乃美が色の違う弾を手に取った。どうやらそれが鎮静剤の入った注射筒だ。すでに装填していた弾を取り出した野乃美が、替わりに鎮静剤の弾を銃に込める。

 『野乃美さん。そっちに行きました』

 先ほどいた道の向こうから、優花里の声が聞こえてきた。叫んで知らせるというより、淡々と伝えるような口調だ。

「追ってくる!?

 野乃美が横道の入り口に向かって銃を構えた。壁の陰から獣人が現れるのを待ち構える。

 『上です』

「それを先に言って!」

 優花里の言葉を聞いた野乃美が、反射的に銃口を空へ向けた。

 ところがそれよりも前に、野乃美の背後に獣人が降りてくる。

「きゃっ!」

 獣人の払った手が、野乃美の手から銃を弾き飛ばした。その銃がアスファルトの上で弾み、衝撃で暴発する。

「まずっ!」

 銃を失った野乃美が、慌てて獣人から離れようと動く。

 だが獣人の狙いは、尻もちを突いて動けなくなっている香菜に移っていた。

 『ぐるるるるるるる……』

 獣人が低い声でうなりながら、ゆっくりと香菜に近づいていく。お腹がすいているのだろうか。白い歯をき、口から唾液を垂らしている。

 それを見た香菜が両手を挙げて、

「あ、あたしを食べても美味しくないわよ。豚みたいに脂が乗ってないから……」

 などという言葉を口走った。

「バカ! 獣人に何を言っても無駄っ。とにかく逃げるのよ」

 獣人の横を駆け抜けて、野乃美が駆け寄ってきた。その野乃美が香菜の腕をつかみ、また引いて逃がそうとする。

「それから豚の体脂肪率は一六パーセントよ。あんたより低いんじゃない?」

「え?」

 腕を引く野乃美のツッコミに、香菜が笑顔のまま固まった。

 養豚の体脂肪率はだいたい一四パーセントから一八パーセント。それに対して人間の女性は一七パーセントから二四パーセントが標準だ。

「あ、あたしって、豚よりも豚なの?」

「あんた、本当に面白いわね」

 獣人から逃げながら、また野乃美がそんなことを言う。

 その後ろでは優花里が、銃を連射しながら獣人をけんせいしていた。その優花里が姿勢を低くして、転がる銃に駆け寄っていく。

 その優花里が銃を拾い上げて、香菜たちのいる横道へ入ってくる。

「野乃美さん。銃!」

 優花里が獣人を飛び越すように、山なりに銃を放ってきた。その軌道を目で捉えた野乃美が、また香菜を放り出して銃を受け取りに走る。

「きゃ! 冷たっ☆」

 また香菜は尻もちを突いていた。それも今度は水溜まりの中だ。その香菜が、

「最悪ぅ。下着まで濡れたぁ」

 情けない声でぼやきながら、少しでも獣人から逃げようとしている。

 とはいえ腰が抜けたのか、這って逃げる動きはカクカクとしていた。

 その香菜の目の前に、飛んできた麻酔弾こと注射筒が壁に突き刺さった。注射針がうまいこと壁の割れ目に突き刺さった状態だ。

「当たったら、どーするのよぉ!」

 弾の飛んできた方へ顔を向けて、香菜が情けない声で文句を言う。それに、

「浅葉さん。伏せてください」

 と冷たい口調で言った優花里が、更に麻酔弾を連射してきた。

「ひゃあああ〜っ! わぷっ」

 思わず腕で頭をかばった香菜が、水溜まりに顔を突っ込んだ。優花里の撃った弾が壁で砕け、破片が香菜の周りに散らばる。

「浅葉さん。そのまま動かないでください!」

「ぶくぶくぶく……」

 銃を構える優花里の指示に、香菜が水溜まりに顔を浸けたまま答える。

 優花里の構える銃から、パシュッと鈍い音がした。射ち出された弾が獣人の脇腹に当たり、大きく揺れている。うまく刺さっていた。

 『がぁ〜〜〜〜〜っ!』

 獣人が痛みで吠えた。その獣人が優花里に敵意を向け、怒り任せで腕を振りまわす。

「くっ!」

 のけぞってかわそうとした優花里が、銃で獣人の腕を受け止めた。だが、その衝撃に握力が保たず、銃を弾き飛ばされてしまう。

 その時、獣人の後ろで、

「ぷはぁ〜っ! 溺れ死ぬかと思ったぁ〜っ!」

 伏せていた香菜が起き上がった。

「水溜まりでなんか溺れ死んだら、テレビの爆笑ニュースに使われちゃうわ」

 などと言いながら手で濡れた顔をぬぐう香菜の背中に、

「あたっ☆」

 飛んできた銃の柄が当たった。

「いったぁ〜。何よぉ?」

 水溜まりに座り込んだまま、香菜が振り返って後ろを見た。その香菜の後ろに、自動小銃のような武器が転がっている。

「あれ? これは……」

 銃に手を伸ばした香菜が、それを拾い上げる。その時、

「優花里!」

 野乃美が叫んだ。

 香菜が顔を上げると、視界に倒れる優花里の姿が飛び込んでくる。獣人の鉤爪をまともに喰らったのか、優花里の左腕が鮮血に染まっていた。

「か、加賀谷さん?」

 それの光景を見た香菜の顔から、サーッと血の気が退いていった。

 その香菜の見ている映像は、まるでスロー再生のようにゆっくりしていた。振りまわされた獣人の爪に、白い布切れ引っかかっている。その爪の餌食にされた優花里は、空中でのけぞるような姿で放物線を描いていた。ブラウスの袖は引き裂かれて、噴き出す血で赤く染まっていく。その腕が投げ出されるような恰好で、優花里が地面に落ちて鈍い音を立てた。

「この、バケモノ!」

 野乃美の叫びで時間の流れが戻った。その野乃美が優花里に駆け寄りながら、獣人に麻酔弾を撃ち込んでいる。

 『ぐがぁ〜……』

 弾が命中した。獣人の腹に刺さった注射筒が激しく揺れている。獣人にぶら下がっている他の筒と色が違うところから、麻酔弾というよりも鎮静剤入りの注射筒だ。

「いい加減に倒れろぉ〜っ!」

 そう言った野乃美が、もう一発見舞った。だが、それは獣人が振りまわした腕にたたき落とされている。

 『ぐるるるるるるるる……』

 低くうなる獣人を警戒しながら、野乃美が弾を込めている。優花里が気になるのだろう。だが、今は気にかける余裕もない。

 ところが、獣人は野乃美や優花里には向かわなかった。

 『がるるるる……』

 またしても獣人は香菜を狙おうとしている。それを見た野乃美が、

「まずい。覚醒前のVは、獣人にとって格好の餌食だわ」

 と言って弾の装填作業を終えた。そして銃口を獣人に向けて、

「早く逃げて! 獣人、あんたを狙ってるわ」

 と訴えてくる。

「あたしを、狙ってる? なんでよぉ?」

 迫ってくる獣人を見上げる香菜が、震える声で聞き返す。その香菜が手にした優花里の銃を構えて、銃口を獣人に向けた。

「こ、来ないで!」

 そう叫んだ香菜が、引き金を引いた。ところが引き金が何かに引っかかって動かない。

「な、なんで? これ、壊れてる!」

 香菜は安全装置のことを知らなかった。転がった弾みで安全装置のレバーが、少しだけ動いてロックが掛かったのだ。それを知らない香菜は、動かない引き金を何度も引こうとする。

「バカ!! 早く逃げて!」

 野乃美が銃を撃った。鎮静剤を入れた注射筒が獣人の背中に刺さる。

 『うがぁ〜〜〜〜〜っ!』

 痛みからか獣人が吠えた。血走る目で香菜をにらみ、鋭い牙の生えた口を大きく開ける。

「エリス! 鎮静剤も効いてないよ」

 もう一発弾を撃った野乃美が、次弾を装填しながらヘッドセットで状況説明を求めた。野乃美の銃は二発ずつしか撃てないようだ。

 『がぁ〜っ!』

 牙を剥いた獣人が、香菜に迫って突進してきた。その獣人に向かって、

「出ろ! 出ろ! 出てよぉ〜っ!」

 と泣き叫びながら、香菜が銃を撃とうとする。だが、引き金すら動かない状態だ。たとえ引き金が動いたとしても、弾が残っている保証はない。

 パニックを起こした香菜ののうから、逃げるという判断が抜け落ちているのだろうか。

 (もうダメ……)

 獣人の牙が迫ってきたところで、香菜が目を強くつむった。その直前、目の前を黒い何かがさえぎったような気がする。

 目をつむった香菜の耳に、何か重いものがぶつかったような鈍い音が聞こえてきた。続いて獣人の荒い息遣いが聞こえてくる。

ゆう!」

 これは野乃美の声だ。それで何が起きたのだろうと思った香菜が、恐る恐る目を開ける。

 『ぐるるるる……』

 『へへっ。やっと追いついたぜ』

 香菜の目の前に、まるで山のように大きな別の獣人が立っていた。その獣人が香菜に背中を向けて、襲ってきた獣人を押さえつけている。

「牙熊! あんた、また横取りしに来たの?」

 『よう、口の悪いちびっ子。横取りとは人聞きが悪いじゃねーか』

 牙熊と呼ばれた獣人が、最初の獣人を脇に抱えて首をひねった。ゴキッと骨が鳴って、次の瞬間には獣人が白目を剥いておとなしくなっている。

 『こいつは俺たちも追ってたんだ。このままもらってくが、悪く思うなよ』

「悪く思うに決まってるじゃないの!」

 牙熊に向かって野乃美が弾を撃った。話の感じから、牙熊と野乃美たちはライバル関係にあるようだ。野乃美が撃った弾を、牙熊が獣人を盾にして受け止める。それで盾にされた獣人の背中に、新たに二本の注射筒が刺さった。

 『くくくっ。おめぇの射撃は正確だからな。弾筋が読みやすくて助かるぜ』

「むっかぁ〜〜〜〜〜っ!!

 牙熊の挑発に、野乃美が顔を真っ赤にした。

 その牙熊が獣人を肩に担いで、次に水溜まりに座り込んだままの香菜に目を向ける。

 牙熊の体格はグリズリーのように大きいが、強い威圧感はない。やや丸みを帯びた顔が、どことなく愛嬌を感じさせるのだ。その牙熊が、

 『小娘。ようやく目覚め始めたみたいだな』

 とだけ言い残すと、獣人を担いだまま大きく空へと跳ねる。

「あああぁ〜っ! このドロボー」

 去っていく牙熊に向かって、野乃美が悔しそうに毒突いた。

紅ヴァンパ ようこそ紅浪漫社へ638の有料書籍です。
書籍を購入することで全てのページを読めるようになります。
紅ヴァンパ ようこそ紅浪漫社へを購入
オークス
作家:清水文化 著/岩崎美奈子 画
紅ヴァンパ ようこそ紅浪漫社へ
0
  • 638円
  • 購入

9 / 30