父さんは、足の短いミラネーゼ

地球を歩き続けて( 2 / 4 )

ブラッセル近郊、ラ・フルプ

ブラッセル近郊、ラ・フルプ

 

べルギーの首都ブラッセルの南、ラ・フルプという小さな村に、I社のヨーロッパ教育センターがある。古戦場のワーテルローの近く、森に囲まれた広いサイトだ。

周りにはないも無い。田園と森がどこまでも続くベルギーの田舎だ。

 

ここにお客様を対象としたマネジメント教育や、コンピューター技術者教育が行われる施設がある。何日も滞在していただくわけだから、ホテル顔負けの宿泊施設、レストラン、バー、体を動かすジムやプール、広い森の中の夜も使える散歩道やジョギングの小道、バレーやバスケットコートなどもそろっている。

 

もう一つすばらしい施設がある。それは二24時間オープンの図書館だ。もちろんコンピューターも使い放題。このサイトはお客様用の教育施設ではあるが、同時にI社の技術専門教育にも使われる。一番長いのは3ヵ月にわたるSEグループの合宿教育課程だろう。だから24時間勉強できて、しかもグループで検討会が開ける場所が必要なのだ。

 

幸せにも、僕は3回ほどここで専門教育を受けた事がある。僕の一番長い滞在はは3週間のコースだった。ここはブラッセル市内まで、車で30分弱の場所で、シャトルバスがブラッセルとの間にサービスされている。だからクラスが終わってから、夕方ブラッセル市内まで出かけることができる。最終バスはブラッセル中央駅の側から11時半発だから、けっこう夜のブラッセルも楽しむのは簡単だ。

 

グラン・プラスを中心とする旧市街は、とても居心地のいい場所だ。正面に向かって右側の建物、端っこの店はお気に入りの気持良いところ。軽く食事もできるが、ビールやアペリティ-フを飲みながら街を眺めていると、いつのまにかどんどん時間がたっていく。4月に行ったときなんかは、暖炉に火が燃えていてとても気持がいい。もちろん天気のいい日には、テラスに出て広場を眺めながらの時間となる。

 

ブラッセルと言えば、レースやチョコレートなんかが有名だ。しかし、ベルギーはあまり知られていないようだけれど、実は新鮮な海産物の豊かな国でもある。ちょっとグラン・プラスを離れて歩くと、そこには新鮮な魚介類のレストランがいっぱい並んでいる。牡蠣だとか、ちょっと下茹でした蟹、海老なんかも氷を敷いた大皿に乗って出てくる。しかも決して高くはない。店お勧めのバターベースのソースとか、マヨネーズソースもいいのだけれど、やはり僕にとってはレモンと塩が最高だ。冷たい白ワインと相性がよく、けっこうな量を食べている。夕方には各店が思い思いのデコレーションで客を招く。きれいで目移りする。

 

その道を有名な小便小僧の立つ路地の方へ歩いて行くと、すぐにムール貝で有名な店が現れる。ここでは大げさではなく、本当に洗面器ぐらいの大きさの鍋にいっぱい、ムール貝がワイン蒸になって香り高い大蒜ベースのソースに浸かって出てくる。そうなると、キリキリに冷えた白ワインの出番となる。一人で食べ切れるかなと心配する暇もなく、どんどん入っていって、いつのまにか鍋は空っぽになっている。付け合せの焼いた硬いパンも素晴らしい脇役だ。

 

ブラッセルにはたくさん、昔からのショッピングモールがある。全て屋根に囲まれた34階建ての空間が現れる。喧騒はなく、人々がゆっくりウインドウを眺めて、品定めしたり、買い物をしたり、ゆっくりとした時間がある。

 

2週間以上の滞在になると、なんとか宿題を早く片をつけて、週末によく出かけたものだ。ラ・フルプで知り合った若い友達たちと、ゲントやブルージュの町を訪ねたりした。でも彼らと濃い時間を過ごしたのは研修センターの中だった。一緒に飯を食ったり、課題で議論したり、はたまた一緒にビールを飲んだりだ。

 

ラ・フルプのレストランに隣接したバーでは、ウイスキーとかスピリッツのような強いお酒は置いていないが、ビールとかワインとかはサービスしていた。ここで僕の最大の発見はベルギー・ビールとの出会いだった。フランスにしても、イタリア、スペインにしても、これらラテンの国のビールは、ドイツやイギリスのビールと飲み比べてみると、どこか薄く、甘く、軽く感じて、僕はけっして手を出そうとはしなかった。

 

ところが、イギリスからきた友達に奨められて発見したのが「シーメイ」と言うベルギー・ビールだった。濃い色で、しかも香りが高い濃厚なビールだった。しかもそれを注ぐグラスは独特の形をしていて「シーメイ」の名前が入ったものだった。ビールは酸化や香りが飛ぶのを嫌って、縦長のずん胴のグラスで出されるのが普通だ。しかしこのグラスは、大きなシャンパングラスのような、口が大きく広がった美しい形をしたビアグラスだった。赤みを帯びた濃いビール色の液体を注ぐと、白い泡が広い口に厚く作られて、ビールを守ってくれる。ベルベットのような滑らかな濃い液体をするりするりと流し込む。素晴らしかった。

 

驚いたことにこのビールを造っているのは、修道院の尼さんたちだということだ。僕のビールについての概念を変えるものだった。こうして夜の更けるまで「シーメイ」の魅力に惹かれていた、僕と友達たちが記憶に立ち返ってくる。

 

実は日本に帰って「シーメイ」を探してみた。そして見つけた。ちゃんと赤と白とブルーがあった。僕の特別な時の、特別な人への贈り物として珍重させてもらっている、はるかなベルギーを懐かしみながら。

地球を歩き続けて( 3 / 4 )

仕事のオーストラリア

仕事のオーストラリア

 

メルボルンの飛行場

 

メルボルン空港は大手航空会社の大型ジェット機の発着もあるが、もっと身近な空港でもある。僕たちはこの空港を何回も利用したが、それは小さな飛行機をタクシーとして使ったのだ。

 

オーストラリアでは小型飛行機がいろんな形で使われている。200キロも離れているところには車で行っていられない。そこで貸しきりの小型プロペラ飛行機とかヘリコプターが皆の足としてチャーターされる。僕たちは、あるカスタマーのいろんなサイトを訪れるため、この小型飛行機のお世話になった。そんな中で愉快なことがいろいろあった。

 

ある時は300キロも離れた地方都市のお客のところに行くのに、ちょっと大きめの飛行機を使った。僕たち客は7、8人一緒だったかと思う。双発の、ちょっと大きめの、定員10名ぐらいの飛行機だからクルーは2人いた。メルボルンの曇り空を飛び立って内陸に向かう。3000メーターぐらいに昇ると風が強い。めんどうみの良い、コーディネーターをしているMが、皆を良い座席に座らせて、自分は一番後に乗り込んで、飛行機の扉のすぐ後ろの狭い席に着いていた。彼の座っている前にある扉のまわりから風が入ってくる。みるとコックピットの上のランプが赤かく点滅していた。

 

クルーの一人が後ろの方にやって来て、扉をバタンと強く引っ張っている。何回か繰り返しているが、しかし赤ランプは消えない。飛行機の扉は完全には閉っていないようだ。それで風がひゅうひゅう入ってきていたわけだ。メカニックは肩をすくめて、しょうがないなといった感じでロープを取り出して、扉のハンドルを近くの柱に縛り付けてコックピットに帰っていった。それからがMの大変な時間となった。フライトは2時間弱だったと思うけれど、Mはその間ずっとそのハンドルを、両手でしっかり引っ張り続けていた。そんな彼を見て、みんなは噴出したい気持ちと、もう一方では気の毒にとの気持ちが襲ってきて、口数が少なくなった。

Mは次のフライトからは、めんどうみのいい顔をかなぐり捨てて、お偉方たちをも先置いて早めに乗りこんで、扉から離れた良い席を占めていた。それが皆の笑いを誘っていたのを鮮明に思い出す。

 

キャンベラからの定期便

 

時刻表に乗っているけど、本当は飛ばないこともある定期便がある。オーストラリアの首都キャンベラは、メルボルンとシドニーの中間をわざわざ選んで造った、全くの人工の都市だ。このキャンベラから、さらに内陸に100キロほど入った田舎町まで行くには、単発の小型プロペラ機に頼るしかない。

 

これがその定期便なのだが、予定どおりには飛ばない。お客がいる場合のみのフライトになる。行きは良いとしても、目的地からのフライトは機材がなくなるんだけど、どうするんだろうなんて思ったけど、聞くのを忘れてしまった。

 

僕たち2人はとにかく予約を入れた。その飛行機は定員4人で僕たち2人が乗り込んでちょっと待っていると、子牛ほどもあるお尻のでかい、若い女の子が飛行機の狭い入り口をすり抜けて乗りこんできた。僕たち2人は後ろの一列にならんで座って、固唾を呑んで見ていた。どうやって座るのかなと心配しながら。その若い子は、前の2つの並んだ席を一つのでかいお尻で占拠して座り込んだ。僕たちは心配そうに顔を見合わせた。「この飛行機はちゃんと飛ぶのかな」と訝りながら。

 

パイロットは、これも結構太めのつるっぱげのおじさんで、飛行機の透明なキャノピーは、そのおやじのつるっぱげのすぐ上にあるから、紫外線がしょっちゅう、おやじの頭を刺激しているのを立証しているような感じだった。

 

僕たちの手荷物を客室のすぐ後ろの荷物入れに放り込んで、飛行機はエンジンを全開にして、一つしかないプロペラをきりきりと回して滑走路の方へタクシーを始めた。滑走路に近づいてエンジンはさらに高回転だ。その時、ジープが何やら叫びながら飛行機と平行して突進してきた。パイロットはスピードを落として、ジープの男の言っている事を聞いていたが、飛行機がとまった。パイロットは扉を開けて降りていった。実は荷物室の扉がちゃんと閉っていなかったのだ。ポンと掘り込んだ僕たちの荷物は、飛行機が走るたびにボンボンと飛び跳ねていたのだ。幸いグランドの担当者が見つけてくれたから良かったものの、あのまま飛び立っていたらとしたら、僕たちの荷物はどうなっていたのだろうと冷や汗だった。

 

再度、単発機は思い切りエンジンを吹かして、やっと三人分ぐらいある若い女の子を持ち上げて飛び立った。フライト中はちゃんと飛行機が飛んでくれることを祈りながら手を握り締めていた。山脈を越えるとき、やはり飛行機はかなり揺れた。荷物室の扉が閉っていてよかったと実感した。とにかく僕たちは目的地に無事到着した。のんびりしたオーストラリアの田舎の思い出だ。

 

国旗たちの複雑なはためき

 

僕たちが訪れたクライアント企業は、もともとはオーストラリア軍の直系企業だった。だがその頃、親方日の丸ではないが、企業体質は古く、民間企業からの軍への納入や新しいオッファーでその内部調達率は急激に低下していっていた。企業の存在意義が急速になくなっていたのだ。しかし、古き良き時代の雰囲気はそのまま、人達の間に温存されていた。

 

そのサイトにビジターがあると、入り口正面の国旗の掲揚柱にビジターの国旗を掲げるのが礼儀になっている。僕たちのグループは、アメリカ、カナダ、オーストラリア、イギリス、そして日本人で構成されていた。したがって歓迎の国旗はこんな国の旗がはためくことになる。僕は国旗を立てて迎えられるなんてことは期待もしていなかったし、経験もなかった。だから日の丸が掲げられているのを見たときは、ちょっとびっくりした。チョットは誇らしいい気持ちもあったけれど、同時に第二次世界大戦の尾をひいて、対日感情が必ずしも本当のところでは良くない、保守的な雰囲気の強い軍関係のサイト。日の丸を掲げた当直将校の気持ちが複雑なものとして透けてみえた気がした。

 

イギリスの影響が強く残っているこんなサイトでは、午後は立派なティータイムがある。ポットに入った紅茶、クリーム、そしてビスケットか軽いケーキがでてくる。なかなか、打ち解けた雰囲気にはならないで、アメリカ人が中心になって、クライアントとの関係を作って会議を行っていた。そんな中、日本のコンサルタントが黙って、ボーと突っ立っていて良い訳がない。僕は自分の下手な英語を最初に謝って、自分たちが体験した、自分の会社の改革について話し始めた。「技術革新が進んで、従来の工程、プロセスが不要になって来て急速に仕事が減ってきたこと」、「1400人の会社に700人分の仕事しかなかったこと」、「自分たちで、自分たちの仕事を新たに作り出すしか他になく、旧来の延長線上では何も未来が生まれない状態だったこと」、「新しいことを始めるには、そこにいる全員の危機感と、変革についての強い意志が必要だったこと」、「幸い技術は立派に持っていたこと」、「全く新しいことをやっていく、リスクをどんどん試していったこと」などを少しずつ話していった。

 

実体験に裏打ちされた話だったのが良かったのか、いつかそこにいる人たちの注意が暖かいものに変わっていた。彼ら、誇り高いオーストラリア人の心のどこかにあったかもしれない「肌の黄色い日本人に教えを乞うことなんか何もないよ」というような雰囲気ががらりと変わっていった。そのサイトの訪問は、とても印象に残るものになった。クライアントとの複雑さは、次第に解消していった。

地球を歩き続けて( 4 / 4 )

香港

香港

 

6週間のクラス

 

香港には何回か行ったが、やはりコンサルタント教育の集中クラスが行われた述べ6週間が一番印象的だった。

 

最初のクラスは12月の4週間。香港の一番良い時期だと聞いた。湿度が低いのだ。香港は日本よりかなり南だし、海に面しているから湿度がとても高い。僕は湿度が苦手だから、一番湿度が低い12月が大助かりだった。雨の降らないし、風もさわやか。そうかと言って寒くはない。

 

実は、このクラスの続きのコースが次の年の4月に同じ所で行われたが、雨季、しかもどしゃ降りの梅雨みたいな日々がほとんど2週間続いた。もう僕は気分が落ち込んでしまって、毎日毎日ホテルの窓を流れ落ちる滝のような雨を恨めしく見ていた。これに比べれば、この最初のコースの12月は本当にすばらしい時季だった。

 

だから動き回れたのは最初の12月だった。その頃は香港が中国への返還直前で、まだまだヨーロッパのにおいが街に満ち溢れていた。イギリス系のデパートも元気だったし、街には英語が満ち溢れていた。泊まったホテルがJWマリオットだったから、まったくの香港島の中心にいたことになる。MTRと呼ばれる地下鉄が日常の足になった。

 

クラスは香港、中国、韓国、マレーシア、シンガポール、フィリピン、日本、そしてアメリカ人とオーストラリア人が混じって面白い仲間が集まった。毎日密度の濃いスクールが続く。入れ替わり立ち代り世界中から現職のコンサルタントが自分の得意とする領域について実技演習を基本に教えてくれる。中身が本当に濃い。部屋はマリオットの中にとられていているから、朝から晩まで、どうかすると真夜中までになる。

 

そんななかで楽しみだったのは、朝の10時と午後3時のお茶の時間だった。もちろん飲み物はコーヒー、中国茶、紅茶とファウンテン・タイプでマリオットの給仕人がサービスしてくれる。そして必ず中国的な菓子と、洋風なちょっとしたケーキが出される。それも何種類か。それに一緒に出される果物が切れることはない。みんなはちょっとした物をつまみながら、濃い科目の内容について語ったり、講師のことを評価したり、昨日行った店のことを話したり、とにかくコースから開放されて全くのリラックスタイムに変えてくれた。

 

もちろんその他に昼食も出るから、とにかく良く食べることになる。だから自分の体重コントロールが大変な課題になった。もちろん贅沢な悩みではあるのだが、終日コンサルタントの勉強だから、つい気分転換に食べることに集中してしまう。食べたいものがあり、自由に食べられる。しかし、ある時にはその誘惑を排除しなくてはならない。これは大きなストレスでもあった。僕ばかりではなく、太っちょのアメリカ人などは本当に驚くくらい甘いもの好きだから、その自分との戦いは相当激しいものだったろうと思う。

 

食べものの話になってしまったが、このコースでとにかく一番「目から鱗」だったのは物を見るその視点の定め方だった。I社に入社して20何年間、常に自分の視点はハード、ソフト、サービスを含めてのサービス提供者として、お客を自分の正面に座らせて見ている形、つまりお客さまを「相手」としてしか見てこなかった。それは、対する相手、時には対決するものとして、お客さまを見ていたことになる。テーブルを挟んで、こちらサイドには自分の会社だとか、自分の組織だとか、はたまたこちらの利益だとか、自分の都合などがあって、向こう側にはお客サイドの同じようなものが並んでいるといった対峙した形が存在していた。こうした構図がいつのまにか当たり前で、常識としていささかも疑うことすらなく自分のなかに存在していたのだ。

 

しかしこの視点は強く排除されることになった。コンサルタントの視点は、お客と同じサイドに並んで座って、お客と同じ問題、課題を持って、それ以外の世界を眺める、もしくは其の課題と対峙する、という構図だった。すなわち、お客様の目で、見方で、サイドで物を見、そしてお客様の判断を深め正していくものだった。

 

だから、例えばコンピューターシステムを評価するとしたら、自分の会社、I社の製品をも厳正な評価対象に含まれるのだ。この視点の転換は本当に驚きだった。これこそコンサルタントとして、決して外してはならない、もっとも大切な視点で、いかにしても守るべき最低の原則だった。現実、このコースで出会った30、40人ものコンサルタントたちは、それを当然のこととして身に付ける身に付けていた。僕の学んだ最大の、最高に大切なことは、この一点だった。そしてこの視点以外では物事の判断はしてならないということだった。僕に与えた影響は強烈だった。

 

ラマ島への遠足

 

香港島の周りにはいっぱい小さな島がある。その一つがラマ島だ。セントラルから小さなフェリーに乗れば30、40分で着いてしまう、香港島の南の島だ。クラスのみんなで一日、遠足に出かけたことがある。車の走る道がないので、みんな歩きの静かな島だ。南部のフェリーの港から、北部もう一つのフェリーの出る港町の間が2時間ぐらいでゆっくり歩けるハイキング・コースになっている。途中に、ちゃんとした島の頂の山もあって、そこからの南シナ海、香港島、中国大陸の山なんかも見渡せてとてものんびりとしたコースだ。北の港の近くには、浜に日本の「海の家」のようなレストランがたくさん並んでいる。そこは安くて新鮮な海鮮料理を食べさせてくれる店だ。

北の港についたら、もう帰りはフェリーに乗るだけだから、みんなで気軽になって魚料理を食って、酒を飲んだ。クラスでああでもない、こうでもないとギャギャやっているときに生まれたちょっとしたわだかまりなんか、こんなふうに皆で一緒に酒を飲んで語っているとすっと融けていく。

 

シンガポールとかマレーシアとかフィリピンの人たちは23人ずつくらいで、クラスではちょっと淋しそうだったけれど、こんな遠足で、他の国の人たちとも仲良くなって本当のグループができていった。それにしても大きなイセエビの焼き物は、白ワインととてもいいマッチングだった。いろんな種類の魚介を堪能した。帰り、夕暮れのフェリーの甲板にみんなが集まって、いつか、みんなで歌える歌をみんなで歌っていた。けっこう、みんなが知っている歌があったのには驚いた。セントラルの夜景は波にゆれていた。

 

トンネルと列車

 

比較的軽い宿題の出たある週末、ふと思いついて中国との国境の深圳に行ってみることにした。MTRで九竜サイドのカオルーン・トンまで行って、そこから九広鉄道にのって40分ぐらいで香港サイドの最後の駅、羅湖に着いてしまう。途中はニューテリトリィと呼ばれる地域で、新しい香港がどんどん北に発展しているのが良くわかる。新しい高層アパートがドンドン建っている。その量は半端じゃない。すごいエネルギーを感じてしまう。深圳には簡単に入れると思っていたが、チャンとビザが必要で、一時間ぐらい待てばそこで日数限定のビザが出ると言う。ちょっと待つのはかったるくて、そこからまた香港に戻ることにした。途中の大きな新興住宅地の真ん中にあるファンリン駅に降りて周りをみてまわった。なんだか日本の新しいベッドタウンそのままで、若い人たちが高層アパートに、モダンな生活をはじめているのが感じられた。住みやすそうな現代的な団地風景だ。

 

帰りの電車でとんでもないことが起こった。僕たちが香港行きの電車をファンリンで待っていた時、そのホームを長い長い貨物列車が香港の九龍にむかってすごいスピードで通過していった。その瞬間、土埃のような粉っぽい埃がわっと舞い上がった。同時に強烈な臭い匂いがホームいっぱいにあふれた。良く見るとみんな有蓋貨車だけれど、ほとんどが単なる金網とか柵とかの側壁に囲まれた動物の運搬用の貨車だった。その貨車なかには豚、鶏、牛、ダックだとか色んな動物が詰め込まれていた。もちろん皆生きているまんまだ。そしてそれらの貨車からは、彼らの排泄物が垂れ流しになっている。しぶきとか固形物も飛んできそうな感じだ。まいった。電車を待っていたほかの乗客も顔をしかめて、でもどこか笑いがこぼれて、ウンザリした感じで通過を見守った。長い時間だった。

 

羅湖始発の僕たちの電車が来てやっと乗り込んだ。電車はかなりのスピードで九龍に向かって走っていく。田園風景が続く。皆どこかほっとした感じでゆったりと電車の振動に身を任せていた。と、突然僕たちの悲劇が始まった。電車がちょっと暗闇に入ったなと思ったら強烈な臭気が僕達の客車を満たした。あの耐えがたい匂いだった。僕たちの電車は九龍に入るため、45分間もの間長いトンネルの中に入ったのだ。そして、僕達の直前を、あの家禽列車がトンネルの中にたっぷりとその強烈な臭気と埃とを振り撤き、残して疾走しているのだ。もう逃げることはできない。耐えるしかない。窓は閉まっていてもちゃんと猛烈な匂いは入り込んでくる。本当に長いトンネルだった。

 

後で香港のクラスメートに聞いてみると、香港は全ての食料を中国本土に頼っていて、食肉という食肉は生きたまま、ああして毎日毎日運ばれてくるのだそうだ。その大切な食料列車に運悪くお付き合いしたというわけだ。でもあの長い貨車たちに乗っていた生き物たちが、ひとつ残らず香港の胃袋のなかに納まってしまうというのは一つの感嘆でもあった。僕は夕闇のせまる、まだ残り香がかすかにするカオルーン・トン駅で早々と地下鉄に乗り換えた。悪い残り香が染み付いてはいないだろうかと気遣いながら。

 

ぼけーっとマカオ

 

缶詰教育で煮詰まってくると、みんないろいろな方法で自分を解放することになる。何しろ、実際のコンサルタントが、本当のケースで出遭った問題を題材に、自分達でコンサルタントのやるプロセスを実行する。勿論チューターがついてだ。時には2、3日で150ページもある、ペンギンブックを読んでしまうなんて宿題が出る。読むことが目的ではなく、そこに書いてある方法とか、考え方を理解して、出された宿題を解くというようなケースが何回かあった。まいってしまう。いくらがんばっても1ページ5分としても、150ページを理解するには12時間もかかってしまう。ネイティブの連中にはかなわない。しかし香港の人やシンガポール、マレーシア、フィリッピンの連中にとって英語はそんなに苦ではないのだ。苦労していたのは韓国人と僕たち日本人だ。韓国の連中に言わせると、教育については、日本の悪いところをそのまま韓国は取り入れてしまったとか。受験勉強中心で、英語は読み、書き、文法中心で話せない。読むのだってそんな長文は苦手だとか。僕と同じ。

 

そんな日々が一段落した時、一日マカオに一人で出かけた。ジェットフォイルに乗って香港から一時間。南シナ海を珠江の河口を横切っていく。河口に近づくと水の色が黒っぽく変わってくる。そしてどこか生臭いにおいが湧き上がってくる。波しぶきの間に中国民衆の生活の息吹が感じられる。

 

マカオはきれいな町と、とてつもなく汚い町の混在だ。フェリー乗り場から島を一周するバスに乗ってみた。めちゃめちゃに汚い中国風の町並みが続く西側、きれいな南側とはっきり分かれている。一周してから、あらためて港から歩き始めた。島の中央部にポルトガル領時代のモニュメントがたくさん残っている。島の最高峰の砦や砲台を見て、下ったり上ったりの道が続く。とにかくゆっくりだが良く歩いた。

 

疲れ果てて、2時過ぎに島の南の端に近い所に偶然見つけた、ポウサダ・リッツという、こぢんまりとしたホテルのテラスに座っていた。疲れて座り込んだというのがあたりかもしれない。しかしいい眺めだった。前は南シナ海。ちょっと先にマカオとタイパ島を結ぶ、海上に架かる長い橋が見える。僕は冷菜とシャブリをとって、ゆっくりと時間を過ごした。動きたくなかった。中国人とポルトガル人のミックスと思われる美しいウエイトレスはよく訓練されていて、必要以上には干渉しなかった。僕の後ろの方では、団体客らしいざわめきがあったが、僕の周りは静寂だった。一本では飲み足りなくて、グラスでワインを何杯か追加した。明るい光はゆっくり夕闇に近づいていった。素晴らしい一日だった。

 

雨のスタンレー

 

残念ながら雨季の最中だった4月コースの香港にはあまりいい思い出はない。

土砂降りの雨が、ホテルの窓をつたって豪快に流れて落ちていく。出かけるとすれば雨の降らないショッピング・モールということになる。ホテルのすぐ側に新しいモールがあって、パシフィック・プレースといった。何でも揃っていて、それはそれなりに楽しい。ちょっとセントラルまで足を伸ばしてもいい。

 

休みの日にセントラルに出ると、雨の日でも若い女の子たちが何百人もたむろしているのに出くわした。みんなちょっと白っぽい服を着て、4、5人でいつまでの親しそうに話している。最初はびっくりした。何をやっているのだろうかと不思議だった。天気の日は、公園の芝生に敷物をしいて座り込んで食事をしたり、本を読んだりしているのだ。後で分かったことは、彼女たちはフィリピン出身のお手伝いさんたちで、休日には同郷の仲間たちと会って、自分たちの自由な時間を楽しんでいるんだそうだ。香港はやっぱり国際都市だなって感心してしまう。

 

そんな4月のちょっとした雨の合間にスタンレーに出かけた。香港の友人からちょっと変わった雰囲気のところだと聞いていた。セントラルからバスに乗って、香港島を斜めに横断していく。競馬場をのぼり、そして下っていく。バスを降りるともうそこからは歩きだ。メインの通りは細くて色んな店が連なっている。そんな通りを外れると、目の前は南シナ海だ。ちっちゃなレストランやカフェがあって、やすくて美味いものを食わせてくれる。薄ぼんやりした雨間の海岸を眺めながら、ぼんやりするのもいい気分だ。海風はけっこう湿気を含んでいて、寒く感じた。僕は、テラスから部屋のなかに席を替えてもらった。

 

スタンレーは、もともとイギリス人たちが香港から離れて、別荘のような小屋を持ったところだと聞いた。たしかにサムサッチョイやセントラルとか、ワンチャイの雰囲気とは全く違った空気がある。そう、あの喧騒がないのだ。静かな入り江と岬の町だ。お買い得の買い物は路地に続くマーケットだ。色んなものを売っている。僕は、その頃流行りだした、ウォッシャブル・シルクのシャツを何枚か買い込んだ。コースは終わりに近づいていた。日本へのお土産だった。もうこんなところに二度と来ることはないなと思った。帰りのバスの時間をみて、僕は登り始めた。

徳山てつんど
作家:徳山てつんど
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