父さんは、足の短いミラネーゼ

乾杯、ミラノ!( 2 / 8 )

ミラノ到着

ミラノ到着

 

 

ホテル・アダム

 

僕が始めてイタリアのミラノ・リナーテ空港に降りようとしていた時、イタリアについて僕が持っていた印象は、完全に裏切られていた。「太陽のふりそそぐ、明るいイタリア」なんてものは、そこにはなかった。空港上空を旋回する飛行機の窓からは、時々、ふっと見える滑走路以外、霧雨がさっと窓の外を流れさるだけで、白い世界に閉じ込められて何も見えない。霧の中での長い時間が過ぎていた。

 

ミラノ・リナーテ空港は、その日霧に閉じ込められ、着陸にはかなりの時間がかかった。滑走路を確認するためにアリタリアのパイロットは、辛抱強く視界の開くのを待っていたのだ。シュトウッガルト空港を飛び立って、スイス・アルプスを越えた頃は、明るい太陽が足元の氷河や山たちを美しく見せてくれていたのに。イタリアという地中海気候の、温暖な美しい街、ミラノが僕を待っているはずだった。だけど違ったのだ。深い霧の中に隠れて、ミラノはその姿さえ見せなかったのだ。

 

リナーテにやっとこさ下り立った僕は、イタリア初めての夜を、小さなホテル・アダムで過ごした。ホテル全体が、日本では嗅いだことのない香水のような匂いに満ちていて、外国なんだという実感がした。

 

出迎えてくれたジョルジョが、明日朝、迎えに来ると言って帰ってしまった後、じっとしていられなくて、ホテルでドゥオモへどういくのかを聞いて、興奮している自分を感じながら僕はでかけた。体は時差ボケでちょっと辛かったが、夜のミラノの空に聳えるドゥオモの尖塔を見上げて、本当にヨーロッパに来たんだなと思った。ドゥオモ広場やエマニュエルのガレリアを歩きまわって、ミラノの匂いを吸ってみた。

 

ホテルに帰って食事をした。ミネラル・ウオーターを飲みながら、前の道路、ビア・パルマノーバを突っ走る車の音を聞いているうちに、いつの間にか眠っていた。夢の中で赤や青の光がくるくる回転しているのが見えた。

 

イタリアのミラノに着いたのは1月だから冬の真最中。ミラノは日本で思っていたイタリアのイメージとは、遠くかけ離れた暗い深い霧の季節だった。近くのポー河から立ち上ぼる霧と街のスモッグで、11から翌年の四月までは太陽を見ることできない。昼間でもライトをつけた大型のプルマン・バスがぬうっと霧の中から現れて来る。こんな陰鬱な霧のなかで、とても印象的だったのはピアッツアーレ・ロレートのモッタの店だった。明るい店が大きなロータリーに面していて、暗い霧の中で輝いていたこと、店の中の人達が明るい照明のなかで、レモン色にとても明るく見えたことだ。

 

1月は本当に寒い季節で、太陽が無いので昼間も車はライトを点けてゆっくり動いている。僕の予想に反して、少々寂しい気持になったものだ。モッタで飲んだスプレムータ・デ・アランチャは濃厚なオレンジの味のする本当に美味しい飲み物だった。40年も前の、僕にとっての初めての外国生活の始まりだった。

 

ビメルカーテ

 

翌朝、ジョルジョの車に乗って、ミラノの郊外、ビメルカーテにむかう。I社がミラノのサイトをここに新しくつくったのだ。普通のみちを100キロ以上のスピードで飛ばす。平たい地形のなかをポプラがすくっと立つ道を行く。

 

驚いたのは往復3車線であること。4車線ではなくて3車線の道路だ。右端は自分の車線。左端は対向車の車線。そしてなんと、真ん中の車線は対向車もこちらも、どっちが走ってもいい、追い越し車線なのだ。なんと追い越し車線を共用しているのだ真ん中の車線は、お互い、正面に向き合って車を走らす。中央の車線に踊り出て、追い越しを始めたら、対向車が同じ車線に出て追い越しを始めても、自分か対向車のどちらが譲るまで向き合って進む。そして、ぎりぎりのタイミングで左右に避けあうのだ。びっくりした。怖かった。急に前に入られた車も大変だと思った。とても日本では考えられない道だ。車での通勤はちょっと考えなくては、と思った。

 

 

ミラノの外れにあるビメルカーテは田舎。広い平野の真ん中のちょっとした丘のうえに会社の大きな建物があった。周りは完全な田舎。イタリア特有のひょろっとしたホプラが風に揺れている。遠くにアルプスが白く見えている。車でミラノから30分ぐらいか。通勤用に2両編成のプーマン・バスがミラノから出ている。車はちょっと怖いから、始めはバスで通うことになった。

 

会社の朝は、まずエスプレッソから始まる。「ブォンジョルノ」の後、何人かでエスプレッソのコーヒー・マシーンのところに行く。大抵はだれかのおごりで、おごった人が最後にコーヒーを作る。コーヒー・マシーンの前は毎朝人々の社交場だ。コンピュータの開発と製造サイトはとても広く、そのなかにオフイスがある。

 

僕が席を置くジョルジョの課は10人ぐらいのこじんまりした課。ボルギ、ペンシエリ(ミラネーゼ)、ベキアート(ヴェネチアーノ)らなど、とにかく若くて、イタリア人としては珍しく英語ができる、いわばエリートの卵たちだ。この課は新製品の開発のリエゾン・オフイスだ。大卒は少なく、彼等の大半は高校卒業後、電子もしくは機械金属の専門学校を卒業している。若くて、明るくて、冗談ばかりで笑いが絶えない。日本はとても考えられない職場だ。冗談を言っているのか、普通の仕事の会話をしているのか分からない。ジョルジョはちょっとおでこが出ていて、鼻のしたに髭をたくわえている。ペンシエリはちょっと太め。立派な口ひげと顎のひげが一体となったバルバを持っている。ボルギとベキアートは髭がない。やはり一番若いベキアートが一番のお喋りだ。身振り手振りを入れ、首を振って闊達に話す。話し始めたら止まらない感じだ。とにかく明るい連中で、なかなかいい感じの友達ができた。

 

昼飯はもっぱらカフェテリアだ。イタリアでは、会社でも昼食時にアルコールが許されている。昼食時にカフェテリアで、いいおじさんたちが鼻さきを赤くしてワインやビールを楽しんでいる。もちろん小瓶なのだが、なかには2、3本開けている人がいる。午後の仕事は大丈夫なのかと人ごとながら心配になる。ワインかビールとミネラル・ウオーター、それからパスタ類の一品、メインのビスッテカとかビーフシチュウとかにほうれん草などの付け合わせ、サラダ、そしてチーズときて、プレートは満杯。仲間と一つのテーブルを囲んで賑やかな昼食だ。1時間の昼休みはほとんど食事で終わってしまう。ワインを飲んで皆と話しながらゆっくりした食事だ。「早めし」の日本の昼休みとはまったく違う。家族のこと、女友達のこと、美味いレストランのこと、闇での買物のこと、旅のこと、なんでもかんでも話のネタになる。

 

食事の後で、日本と同じように楊枝をつかう風習があるのにはびっくりした。ビニールのストローを斜めにスパッと切ったような形のものとか、木で作ったのだとかを使う。ヨーロッパで楊枝をつかうとは知らなかった。最後の仕上げはやはりエスプレッソだ。昼休みの時間が残っていれば、ちょっと外の空気を吸いに出る。ゆっくりと散歩をする。ほかの課の連中と挨拶するのはこんな時だ。とにかくお互いによく挨拶をする。

 

朝はみんな、時間にはちょっとルーズだ。就業時間になってからでもコーヒー・マシーンの前で何分でも話している。しかし帰りは非常に時間に正確だ。終業時刻が来るのを、タイムカードの機械の前で5分も6分も列を作って待っている。日本にくらべると、何につけおっとりしている。こちらがイライラしはじめても向こうはおっとりだ。「郷に入っては、郷に従え」ってことで、慣れるしかない。そのうち日本にいる連中とペースが合わなくて、仕事の上で彼らがいらついてくることもしばしばだった。「Toku(僕の愛称)はイタリアづいちゃった」とよく言われたものだ。

 

 

トラットリア・トスカーナ

 

朝飯は近くのバールで菓子パンとコーヒーか、会社のカフェテリアでトースト(イタリアの食パンは黒っぽい)とエスプレッソで終わる。

 

夜は友達に教えてもらったトラットリア・トスカーナで食べることになった。大体、7時半頃からが食事時間だ。普通のイタリア人は8時すぎからだから、僕は早いほうだ。時間はだいたい2時間はかかると思っていたほうがいい。トラットリアはリストランテより大衆的で安く親しみがある。リストランテはテーブルにテーブル・クロスがしてあるが、トラットリアは客がきて初めて白いコットンのテーブル・クロスをする。

 

食事のたのしさは,カメリエーレ(ウエイター)次第だ。クラウディオが、僕の席の係りだ。同じ時間に行くと、客もいつもだいたい同じ顔ぶれで、お互いに「ブオナセーラ」と声をかけて、ほとんど毎日同じ席に着く。自然とそんなふうに固定の席ができてしまう。ナチュラルウオーターとグリジーニとパンをもって、クラウディオが注文を聞きに来る。イタリアでは、食事のときに食べるパンは、柔らかいのはまずいパンと言うことになっている。客の中にはパンの周りの堅い所だけ残して、中の柔らかい所を取り出してパンのゴムみたいにして捨ててしまう人がいる。

 

この店のお勧めはトスカーナ地方の料理というわけだが、毎日のことだから飽きのこないものを食べることになる。必ずしもトスカーナ料理というわけではない。結果として、毎日食べるのは日本の定食屋みたいなメニューになる。要は定番だ。

 

まずはカラッファ(ガラスの水差し)入りの半リットルのロッソ(赤ワイン)。ときにはランブルース・セッコをボトルで頼む事もある。これは若干スプパンテ風で、しかし個性がある。僕の発見した大好きなワインになった。

 

アンティ・パストは、まさにクラウディオのお勧めが一番。その時期のベストの物を奨めてくれる。季節感のただよう一皿だ。たとえばアーティ・チョークのクリーム煮だったり、真っ赤なブレザオラとリーモネだったり、イチジクとメーロネだったり。ときには牛肉のカルパッチョだったりと、とにかく楽しい。店の入り口には、今夜のアンティ・パスティのデモンストレーション・テーブルがあって、店に入った瞬間に今夜の素晴らしい前菜たちが出迎えてくれる。とにかくその種類の多さに感動だ。夏になると店は、店の前の歩道を広く占拠して、テントをはって店が歩道まで出っ張ってくるのだ。緑の植木たちをおいて、風が入ってきて快適だ。こんな時は、プロシュウト・コン・メローネがベストかもしれない。季節感溢れる食べ物だ。

 

プリモは定番が多い。スパゲッティ・アル・ポモドーロは定番中の定番。一番、店の腕前をみせてくれる。しかしトラットリア・トスカーナの一番のパスタは「スパゲッティ・アッラ・プットニエーラ」だ。「スパゲティ・娼婦風」というのだからすごい。トマトベースなのだがモツアレッラと松の実、黒オリーブそしてカッペリのはいったソースで和えた上、ちょっとオーブンで焼いてある。熱々の一品でそんじょそこらには決してない。チーズのほかに、もっと別な何かが入っているのだが、僕には分からない。とにかく美味い。ほとんどこれで、おなかが一杯になってしまう。後になって、この店が潰れてから、同じ物をミラノでかなり探したけれど、同じ物は残念ながらみつからなかった。もう二度とあんなスパゲッティには、お目にかかれそうにもない。

 

セコンドは特に目立ったものはなかったが、すごいと思ったのは料理ではなくて、魚料理でのクラウディオのサービスの仕方だ。魚をナイフとフォークでさばくのは、僕はとても苦手。しかし、クラウディオは僕のテーブルの側に客に見せる調理台を持ってきて、その上にキッチンで料理した魚を持ってきて、目の前でさばいてくれる。目の前でナイフとフォークで上手に皮を剥ぎ、骨を取り、たべられる状態にして、僕の皿に盛ってくれる。そして料理からこぼれ出たソースをかけて、必ずレモンで仕上げてくれる。見ているだけでも大感激だ。それでつい魚を食べたくなってしまうそして、こんな所がチップの金額の差になってしまう。チップは決して義務や習慣ではないのだ。サービスの善し悪しにたいするある種の感謝なのだ。

 

チーズも楽しみの一つだ。ミラノの近くの村、ゴルゴンゾーラで作られるチーズは特別に匂いが強い。ピカンテはちょっと匂いが消えない。しかし美味しい。パンに塗って食べるのもいい。問題は、ここまでどうやってワインを残しておくかだ。たいてい、ここまでで、もう飲み終ってしまって、グラスワインを追加でたのむ羽目になる。もし胃袋がゆるせば、あとはドルチェだが、僕にはあまり縁がない。それよりやはりディジェスティーボ(食後酒)が魅力だった。グラッパとかサンブーカなど、僕の満杯のおなかの面倒を見てくれる。

 

フルーツはその前の至福の時かもしれない。さくらんぼ、オレンジ、なし、リンゴ、イチゴ、すべて姿形はわるいのだけれど味は抜群。そしてなによりもそのものの味がする。それが凄いと思う。

 

食事の終りはやはりエスプレッソになってしまう。そして「イル・コント、ペルファボーレ!」と食事の終りだ。だいたい10時に近い。あとはシャワーを浴びてRAIのテレビを見てリラックスということになる。

 

 

アパートメント

 

やはり早くアパートを探すことにした。ホテルの生活は自分のものにならない。人事課のポッチさんの助けを借りて、いろいろアパートを見て歩く。

 

歴代のリエゾンが住んだというカベッツアリ通りのアパートも見たがちょっと狭い。いろいろ選んで、結局ガロファロ通りのアパートを捜し当てた。ミラノの東北東の部分だ。オール・ファーニシュで備品、食器、寝具、さらにクリーニング付きだ。4階建ての3階の2LDKになった。イタリアの建物はほとんどそうだが、かならずシャッターか日除けの扉が窓の外に付いている。この建物は窓の上から下まで一枚の木の折り戸が付いていてとても感じがいい。明るいと寝られない僕には必要なものだ。

 

ベランダからは、敷地の庭を通してアルプスの白い山並みがはるかに見える。地下には暖房付きの車庫がある。アパートの女性オーナーのフェラーリは真っ赤で、車庫に似つかわしいが、僕のフィアット850Sには、車庫のほうが立派過ぎたかもしれない。冬はヒーターが入るのだ。

 

このレジデンスを選んだ理由は、アスプロモンテ広場に近いということもある。ビメルカーテへのバスが出る広場まで歩いて5分くらいだ。ミラノの地元の人たちで賑わうコルソ・ブエノスアイレスへも10分ぐらいで行ける。それで決めた。地下鉄はピアッツア・リマだ。これで自分の生活が持てる。トラットリア・トスカーナまではちょっと遠くなった。歩いて15分はかかる。でも歩いていくことにする。

 

生活の基盤を得てちょっと安心。買い物はもっぱらコルソ・ブエノスアイレスだ。スーパーマーケットのスタンダもエス・ルンゴもウピムもコインもすぐ近くだ。ピアッツア・リマの近くには、小さな個人商店もいっぱいある。とにかく大きな街中に、いっぱい人が生活している。大体4、5階建ての古い石造りのマンションだが、皆きれいに修理しながら何世代にもわたって住んでいる。

 

後で分かったことだが、ヨーロッパでは、パリでも、ロンドンでも、スュトウットガルトでも、どこでも、人が街のなかに住んでいる。だから東京みたいに街がさびれない。パン屋さん、肉屋さん、魚屋さん、果物屋さん、八百屋さん、電気屋さん、靴屋さん、薬屋さん、バール、ピッツエリア、とにかく生活に必要な店が皆、軒を連ねて街中にある。だから伝統も、近所付きあいも、みんな街なかにあるのだ。300年も同じ所に住んで居ると、その家族の歴史がそこにできてくる。外から見るとミラノのアパートはみんな石の古い建物だが、中はみんな冷暖房が入り、床、壁を張り替えてきれいに住んでいる。職場と住居が大接近なのだ。だから日本みたいな朝夕の殺人的なラッシュは存在しない。うらやましい生活の知恵だ。

残念ながら東京は、こんな住環境をすべてなくしてしまった。そして下町の人情も人のつながりもすべて。

 

レジデンス・グランサッソに住み始めて、やっと僕のミラノの生活が始まった。アパートからバスのでるアスプロモンテ広場まで朝の道を歩く。足の短い、変なミラネーゼの出勤だ。

乾杯、ミラノ!( 3 / 8 )

ミラノ生活

 

夜中のウインド・ショッピング

 

ミラノはイタリアだけど、日本で想像していたイタリアとはちょっと違った。人はみんな、結構背が高く、髪の色も黒は少なく、ブロンドやブルーネットが多い。

ロンバルディアの人達はどちらかというと、オーストリア人とか、ドイツ系の人達とかなりにている。

日本で、ネオ・リアリスムの映画や何かで見て、典型的だと思っていた、髪が黒く、小柄で忙しく歩き回るイタリア人は、どちらかというと、南部の人たちのようだ。

 

ミラノはイタリアの中では一番経済的に発達し、その一方、文化、芸術の世界でもバランスのとれた街だった。特に凄いのは洋服、靴、バッグなどのファッションの世界では冠たるミラノだ。とにかくセンスがいい。

 

ミラノでは買い物といえば、ウインド・ショッピングが中心だ。人は決して簡単には物を買わない。日曜日、普通の店は開けていない。しかし人は日曜日にショッピングを楽しむ。欲しいものがあれば、いろんな店のショーウインドを幾つも幾つも見て回って、友達とか家族とかに相談したり、一緒にみてもらったりして、品定めをするのだ。そして最終的に決めたうえで店に入って物を確認して、初めてそれを買うのだ。だから時間と根気が必要だ。同時に、そのプロセスを楽しんでいるようだ。

 

そういうわけだから、店のほうでも休みでも、日曜日のショウーウインドの飾り付けと、照明はとても大切なのだ。日本のように、閉店の時にシャッターを下ろして、ウインドウを見えなくしてしまうのはもってのほかだ。ミラノでは、真夜中のウインド・ショッピングの為に、鉄とか青銅のしゃれた、しかし、しっかりした格子でショーウインドを囲みながら、煌煌と照明を点けてベトリ-ナの中の品定めができるようにしている。それはモンテ・ナポレオーネとか、ピアッツア・サンバビラのようなファッションの街だけではなく、僕の住んでいたアパートに近いコルソ・ブエノスアイレスのような一般の人達がショッピングに出かける町でもそうだ。だから店に入るということは、心を決めてこれからあれを「買う」という目的で入ることなのだ。単なる冷やかしは、ミラノでは基本的にご法度だ。

 

日本と違って感激したのは靴屋さんだ。靴を合わせる時は、必ず客を椅子に座らせて、店員は床にひざまずいて客の足に手を掛けて履かせてくれる。日本のように客が勝手に靴に手を触れて、自分で靴べらを手にして履いてみるなんてことは決してない。もちろんさせてもくれない。客の足に本当に合う靴の形やサイズをいろいろ変えて見ながら、店員が親切に専門家として靴を選んでくれる。さらにその靴に似合う洋服とのコーディネートの相談にだって、ちゃんと乗ってくれる。だから店員さんはすごく誇りをもってもいる。お客もちゃんとした対応を店員さんにする。当然プロフェッソナルなサ-ビスを受けることになる。そんなわけで、店員さんに対するお客の態度もすてきで、店への出入りのときのボンジョルノ、ブォナセーラは欠かせない。

 

ミラネーゼの夕方の外出

 

ミラノだけの現象ではないが、夕方、人がたくさん街に現れてくる。夕食の前にちょっと散歩したり、友達と会ったり、単に街に出て人々を見たり、とにかくいっぱい、いっぱい人が現れてくる。老夫婦は腕を組んでゆっくりと散歩する。若い人たちはバールに陣取ったり、ジェラテリアにたむろしたりしてお喋りに余念がない。カフェのテーブルはアペリティーボ(食前酒)を楽しむ人達でいっぱいだ。お互いに話したり、もっぱら前を通る人たちを、とにかく眺めて居たり、ゆっくりとした時間が流れる。それが夕食前のしきたりみたいだ。そして街の人達の交流の時間にもなっているようだ。「最近、Xサンの姿を見かけないけど、お元気かしら」「ちょっと、体を悪くされていたようだけど、もういいみたい。来週にお出かけになるんじゃないかしら」なんて会話が聞こえてきそうだ。

 

その時間が街がもっとも華やぐ時間だ。ビットリオ・エマニュエル・アーケードの中のカフェも人でいっぱいだ。背の高いエマニュエル・アーケードの中だから、天候にかかわらず、何時もオープンなテラスが人気の的だ。人々はゆっくりアペリティーボを時間をかけて楽しんでいる。そこに加わって、僕も座って、みているだけでとても楽しい。女たちは着飾って居るし、男たちもとても気障な奴もいたりして。お巡りさんだって羽の付いた特異な帽子を気障にかぶって、二人一組でその長身の姿をゆっくり運ぶ。まさに絵になっている。

 

その後が食事の時間だ。だからレストランは早くても7時半前には開かない。食事の時間も2時間はかかるから、普通でも家に帰るのは10時すぎというわけだ。

 

 

ドットーレ・シオリの山荘

 

ドットーレ・シオリの夏の山荘は、ドロミテ・ディ・ブレンタのマドンナ・ディ・カンピリオにあった。小さな木造の小屋に近い山荘だ。夏になると彼は家族をそこに先に送って、自分だけはミラノで仕事をしている。もちろん彼が休みに入れば家族と合流するのだが。

 

ある夏2,3度、彼の山小屋に連れて行ってもらった。小さな保養地でミラノから2時間もあれば着いてしまう。ガルダ湖のそばを山に向かって入って行く。ドロミテ山岳地方にもちろん似ているのだが、ちょっと離れた別の山たちだ。

 

エミリオ・シオリとエミリアシオリ夫妻は長男フルビオを連れて、毎年この山で夏を過ごすのだ。山小屋の前の芝生には、高い白樺の木がそびえていて、それにハンモックをかけてある。澄んだ山の空気を吸って、夏を過ごすのはとてもすてきだ。そのころフルビオはまだまだ小さくて学校には上っていなかった。ちょっと甘ったれでやさしい目をした男の子だった。マドンナ・ディ・カンピリオに僕が滞在中、ずっと一緒だった。

 

2000メーター超えの高地だから、夏とはいえ、夜は本当に寒い。フルビオが寝てしまってから、3人でよく小さな村に夜の散歩に出かけた。星空が高く高くあって、劣らずに高い山の黒い影がぬっとそびえている。セーターとウインドブレーカーが必需品だ。夫婦で夜中に腕を組んで散歩するのを見るのは、僕にとってはちょっと新しい感じだった。

 

近くに滝があって、みんなでお弁当を持って、エミリオの赤いアルファ・ジューリアで出かけた。弁当といっても、とても簡単だ。サラミとチーズ、パンと赤ワインのボトル、アックァ・ミネラーレとちょっとしたピクッルスですべてだ。ヴァル・ディ・ジェノヴァのナルディスの滝は、山肌を白く染めながら、高みから落ちてくる。その前の方には、広い湿原や、なだらかな草原が広がっている。夏の日の太陽が昼間は熱い。多くのパーティがやってきていて、とても華やかな昼間だ。とてもシンプルな食事、でもとても豊かな感じだ。自然が近くにあるとそれだけで空気がうまく、食事もおいしい。静かな風の音のなかに、穏やかな時間が過ぎて行く。

 

フルビオとはもっと驚く経験がある。5歳の子供だけれど、エミリオと僕との3人である日登山電車に乗って、その頂上駅からスピナーレ山の2100メーターの山頂まで日帰りしたのだ。もちろん、ちゃんとした山歩きの靴を履いて。こんなちっちゃな頃から、ちゃんと山登りを経験しているのは、とても恵まれたことだと思った。泣き言も言わず、ほんとうに元気に大人顔負けで歩き通した。立派だった。もちろん甘えん坊だから、家に帰り着いてマンマに甘えて涙しながら、「ぼく、つらかったよ」と山歩きを話していた。とてもかわいかった。先日会ったらもう結婚していて、でもあどけなさが残っていてフルビオだと分った。

 

冬は霧に閉じ込められるミラノだけれど、ミラネーゼはこうした山小屋みたいな別荘を、大都会からの逃避のための素晴らしい場所を持っているのだ。うらやましい。ドットーレ・シオリが特別な階層の人ではなくて、普通のサラリーマンなのだ。

 

 

スイスに太陽を求めて

 

 

ミラノの冬はとても寒く、そして暗い。ポー河の霧と、時としてくる雪のせいだ。

 

こんな時にはアルプスの向こうに、太陽を拝みにでかける。不思議なことに、いくらミラノが霧にとじこめられていても、スイスの山の向こう側は晴れなのだ。惜しげもなく太陽がふりそそいでいるのだ。

 

イタリア側のドモドッソラから、シンプロン・トンネルを通って、スイスのカンデルスタッグまで、車が貨物列車の上に乗ってアルプスを越える。車専用の無蓋貨車にどんどん車を乗っけて、簡単にストッパーを掛けていく。車の乗員はそのまま車のなかにいる。すると車は、ジェットコースターに乗っているかのように、鉄道の狭い線路の幅をガタガタ揺れながら猛スピードで走る。カーブでも、ブレーキを踏んでスピードを緩めるわけにはいかない。ドライバーはすべてを列車に任せて乗っているしかない。電車がトンネルに入るとまさに暗闇を光もなく自分の車が突進していく。足が何回もブレーキにいく、無駄なことと知りながら。

 

トンネルを過ぎて、ツェルマットへの入口、ブリガを越えて谷を越えて、崖っ淵を電車は車を乗せて急な渓谷をのぼっていく。カンデルスタッグに近づくと、スイス・アルプスの山々が明るく晴れた空を見せて高く高く聳えている。そこで列車から降りると、やっと車は自分でスイスの道を走り始める。なかなか日本では得られない体験だ。

 

本当に不思議な気がするのだけれど、いつも冬のスイスは陽の光が射している。霧のミラノから逃げ出して見ると、明るい陽射しが待っていてくれるのは本当に嬉しい。スイスの首都、ベルンはとても素敵な小さい町だ。熊が彼らの愛する動物だ。清らかな小さな流れによりそう静かな町、これがベルナー・オーバーランドへの入り口だ。インターラーケンは「湖の間」と言う意味だ。ツーン湖とブリエンツ湖の岸を走って、ここインターラーケンに入る。最高のスイス・アルプスを楽しむ道への入り口だ。

 

カラフルな登山電車がグリンデルバルトまでの急峻なレールを上っていく。ゆっくりゆっくり、アルプスの山並みを見せながら登っていく。冬はまさにスキーの世界だ。夏の牧場は一面雪で、どこでもがスキーの世界になる。登りつめたグリンデルバルトはアイガー北壁の目の前。直立した壁面が目の前にある。朝日が壁の氷を照らす。凄いの一語だ。

 

スイスはほんとうに綺麗な国だ。それは風景もそうだが、人へのもてなしもそうだ。僕が始めてグリンデルバルトに到着した時は、ハイ・シーズンにも拘らず僕は予約なしだった。ホテルはみんな一杯。困った。しかし、アイガーが目の前にせまる、有名なホテル、レジーナは、僕のために夏だけ開けているホテルのシャレーを特別に提供してくれた。シャレーといってもちゃんと冷暖房は入っていて、僕はたった一人で全体を占有して、王様気分だ。勿論ホテルの設備はすべて使える。すばらしいアイガーの岩壁をのぞむレストランも、ディスコも、バールもすべて。幸いにしてチューリッヒからの姉妹に、ダンスのお相手、お酒のお相手が許されて、素晴らしい思い出のグリンデルバルトの夜となった。

 

特に朝食は素晴らしい。目の前の岸壁を見ながらコーヒーを楽しむ。光に輝く氷のキレットを目の当たりにしての時間は、とても日本では得難い体験だ。アッタクするクライマーの姿を備え付けの双眼鏡でのぞくこともできる。

 

ここで登山電車を乗り換えて、さらに高みへと登っていく。クライネシャイデックまで、ほとんど垂直に近い感じで登っていく。アイガーの横手になるクライネシャイデックは「小さな肩」という意味だ。ユンクフラオが若い女性、乙女という訳だから、クライネシャイデックはちゃんと意味をなしているのだ。

 

反対側の、ラウテンブルンネンからも電車が着く。ここで乗り換えてユンクフラウ・ヨッホまで登っていく。ここから、ユンクフラウの氷河を上から見るテラスに出る。3450メーターは日本では体験できない高さだ。「走らないで下さい」と書かれた看板がたっている。酸素が薄いのだ。ゆっくりゆっくりと自分に言いながら歩く。氷のトンネルをぬけると、足元に急峻な深い谷の底に氷河が見える。瞬間的に天候が変わる。今見えた谷が厚い霧に覆われて、まったく何も見えなくなってしまう。氷河を削った、僕たちが歩くトンネルは氷を透過した光で、特別な光景に見える。つまらないことが、僕を現実に引き戻す。残念ながら日本人の落書きが目立つのだ。なぜこんな特別な場所にまで、つまらない落書きをするのか、その神経が分からない。目を伏せて取り過ぎるしかない。

 

クライネシャイデェックから、ベンゲン経由ラウテンブルンネンまでは、まさに「アルプスのハイジ」の世界だ。メンヒ、アイガーそしてユンクフラウの山並みが正面に聳え、がたがた降りて行く登山電車の窓を一面に埋め尽くす。何度このルートを降りても、いつも窓に釘づけになってしまう。ミュウレンの高みが見えてくると、そこはもうラウテンブルンネンだ。ミュウレンの山からの滝が印象的だ。

 

いつだったか、クライネ・シャイデッグで雪合戦をした覚えがある。おそらく天候の加減でユンクフラウ・ヨッホまで登れなかった日の記憶だろう。またグリンデルバルトのレストランで素朴なスイス料理を味わったことも記憶にある。おそらくフィルストへ登った日のことだろう。牛たちがガランガランとカウベルを鳴らしていた。こんな素晴らしい旅が、ミラノの冬の霧を忘れさせてくれる。消しがたい、そして印象深いグリンデルバルトだ。

 

マッターホルンとチェルビーノ

 

トリノの先を、さらにフランスに向かっていくとバレ・デ・アオスタの地方だ。

 

マッターホルンと呼ばれる山へ迫る南側の谷の道を行く。イタリアではマッターホルンをチェルビーノと呼ぶ。凄く急な谷間の道を、いく度となく急カーブを切って登っていく。その行き止まり、チェルビーニア村は、その昔、ノンストップ・ランセで有名な、スキー場でもある。ノンストップ・ランセは、オリンピックの大滑降の元祖と言われている、直滑降でとにかくスピードのみを競う、危険な競技だ。チェルビーニア村は、真夏でもスキーができる。僕がいった4月は、まだスキーシーズンと言うわけで、ホテルはスキー客で一杯。でもロッジに予約なしで部屋が取れた。荷物もそのままにして歩けるところまで登ってみる。谷あいをゆっくり登っていくと、だんだん視界が開けてチェルビーノが目の前に現れた。

 

チェルビーノの山頂はちょっと雲がかかっている。素晴らしい世界で声もでない。こんな時ほど話し相手が欲しい時はない。一人で旅をすると、時々急に仲間が欲しくなる。感動を分かち合って、同じ時間を過ごす楽しさの欠乏症だ。一人では時間を構造化できない焦れったさを味わう。

 

ゴンドラがプラトウ・ロウザまでの長いスロープを上って行く。足元にはもう春の息吹が一杯。北からの、プラトウ・ロウザへの谷は、スイスのツェルマットからの谷で、最終的には、マッターホルンを眺める同じ場所につながっている。要は、北から見れば、マッッターホルン、南から登れば、チェルビーノなのだ。ここには、広いテラスが造られていて、スキー客もトレッキング客も、皆寝そべって日光浴をしている。片手にビールを持って、サングラスをしてゆったりと時間を過ごしている。モンブラン、モンテ・ローザ、そしてマッターホルンが目の前だ。北にはスイス・アルプスが光って見える。

 

僕もここで、ビールとフランクフルトの軽い食事を取る。とても日本では、こんな楽しみ方できない。ゆっくりとした時間を、こんな高い山の上で過ごせるなんて。ここには北のツェルマットから入った人達も一緒だから、聞き慣れたイタリア語とかフランス語に混じって大きな声のドイツ語が聞こえる。この高みは本当にインターナショナルだ。そういえば、いつもドイツ語は大きな声で聞こえるのは気のせいだろうか。

 

晴れたアルプスの空は限りなく、見上げる目に高い。日本で北アルプスとか、後立山連峰を歩いたことがあるが、こんなに簡単に高みには辿りつけない。スキーを履いてくるのがよかったのだろうけれど、支度はない。ゆったりとした時間の後で、ゴンドラに乗って降るしかない。足元を山スキーの人たちが降りていく。アオスタの深い谷が足元からずっと遠くまで続いている。ごっとんとゴンドラが揺れて麓に着いた。

 

夕方になると霧が出て来る。夜、ホテルは賑やかになる。ディスコが音楽をやっている。人々がアフター・スキーを楽しんでいる。一人の旅人は、一人で静かにアルコールを傾ける。暖炉には火が燃えている。部屋の窓からは谷間のロッジの灯が暖かな色で揺らめいているのが見える。外に出て見ると、高い高い空の向こうに、チェルビーノが黒く聳えて見える。

 

あすは山に向かう牧草地をゆっくり歩いてみようと考えた。まだ牛たちはいないはずだ。谷川の清冽な流れに手を浸してみようと思う。春の高山植物たちがその芽を見せ始めているかもしれない。

 

ミラノの生活では考えられない、濃密な静けさが降りてくる。これでミラノのざわついた夜の時間を忘れ去って、深い眠りにつけるに違いない。

乾杯、ミラノ!( 4 / 8 )

ミラネーゼ・ナンバー「MI」

ミラネーゼ・ナンバー「MI」

 

スイスのサンモリッツでの思い出はたくさんある。一番印象的なのは、僕がフィアット850でサンモリッツまで最初にでかけた時だ。その頃のフィアットの車は、一般的にフィアット145とか、もっと大きいモデル以外はほとんどRR(リア・エンジン、リア・ドライブ)で、僕の850(オットチェントチンクヮンタ)もそうだった。ハイギアードで、平地ではスピードが出るが、山道の登りでは青息吐息だ。

 

今と違ってミラノからサンモリッツまで高速道路もなく、コモ湖の湖畔を200キロほど北に登っていく、古い曲りくねった道だった。ミラノのフィアット販売の人が、イタリア語の分らない僕に、それこそ手取り足取りで、850の操作を教えてくれた。どうにか一人で、850をちゃんと動かせるようになって、初めてサンモリッツに向かってコモ湖畔を登っていった。中世からの古い石畳の街道をひとりで辿った。

 

夕暮れになって、サンモリッツに着いて道を間違えた。方向転換をしようと、ギヤをバックにいれようとしてギヤチェンジを試みても、どうしてもバックに入らない。ミラノで教えてもらった通りにやったつもりなのだが、どうしてもバックができない。あせった。しかたなくそこに車を置いて、歩いて車関連の店を探す。かなり降りていて、店を見つけた。必死に、身振りで助けを求め、店の人と一緒に車に戻った。

 

彼は簡単にバックにいれた。見習って僕もやってみるけど、やっぱりは入らない。もう一度彼はゆっくりやってみせてくれた。よく見ていると、ギヤ・チェンジレバーを動かす前に、レバーをちょんと真下に押し込んでいる。それが秘密だった。冷や汗が流れ出した。もう夕暮がちかづいていた。路肩には、まだ深い雪が残っていた。サンモリッツに着いてからでよかった。急な上り坂の途中だったら、と考えるとぞっとした。彼は手をふってスタンドへ帰っていった。ギヤを押し入れるなんて簡単なことだけど、分かっていないととても思いつかない。やっと宿に着いた。ほっとした気持ちで一杯だった。

 

 

その春、やはりスキーでサンモリッツにいった。ホテルの駐車場が一杯で、外の駐車場に入れた。翌朝、凍てついた寒さの中、駐車場でエンジンをかけようとしてセルを回した。けれどエンジンはかからない。白い煙がポッツポッツとでるだけだ。あせった。僕の車はミラノ登録だから、ナンバー・プレートは「MI」だ。ミラノの車だってことはすぐ分かる。足の短い東洋人がフィアットと格闘しているのをみて、沢山の視線が集まる。駐車場は除雪が完全ではなく、車の周りは積み上げられた雪に囲まれている。足をとられながら、出たり入ったり、エンジンルームを開けたりだ。バスの運転手さんたちが、見るに見かねて集まってきて、僕を助けてくれる。しかしエンジンは冷え込んでかからない。なかの一人が自分のバスから、スプレーを持ってきてくれた。キャブレターに突っ込んでエンジンを回すと火が入った。やったー!!エンジンが回ってうれしくて、そして、親切がうれしくて涙が出そうになった。

 

その運転手さんたちのバスはイタリアからのバスだった。イタリア人はとても同郷の人に親切だ。彼は僕のナンバープレートの「MI」をみて、ミラノからの変な東洋人だと分ったのだ。イタリア人にとっての外国、スイスで、僕はイタリア人に同胞として親切にしてもらったのだ、日本人の僕がミラネーゼとして。彼はそのスプレーを持っていけといって僕にくれた。僕は何度もお礼を言って出発した。

 

 

もう一度はもっと深刻だった。その夏休みに、スイス・オーストリア・ドイツを3週間ばかり旅行した帰り道、オーストリア・スイス国境のオーストリア最後の町の手前で、僕の不注意が元で、軽い事故になってしまった。片道2車線の道路が急に1車線になっていて、ブレーキが間に合わず、僕が前の車の右側をかすって土手に乗り上げて止まった。僕の車は左のフェンダーが凹んだ。前の車はお尻が5センチ四方ぐらい擦り傷になってしまった。

 

相手はドイツ人だった。車はまだ300キロしか走っていないぴっかぴかの新車。しかも高級車。NSU・バンケル(今のアウディ)のロータリー・エンジン車。世界初めてのロータリー車で、とっても有名で高価な車だった。相手が悪かった。僕は自分の非を認めて、英語で一生懸命謝ったが、相手は全く分かってくれない。こんな時にはカルタ・ベルデ(国際保険)にサインすれば、後は保険屋が全部してくれることになっている。必要なのは、僕のサインと警察官の確認サインだけで、現場検証する必要もない。しかし言葉も通じず、彼は現場から離れることを拒否してその場を動こうとはしない。夏休みで交通量は多い。たちまち両方向とも大渋滞。バスや車の窓からいろんな顔が出て、我々を見て迷惑顔。大した事故でもないから余計に不審顔。

 

ここでまたまた「MI」ナンバー・プレートの御利益。何台ものイタリアのバスから運転手さんが降りてきて、状況を見て僕の代わりにドイツ人にドイツ語で話してくれた。またしてもミラノ登録のプレートをみて、イタリアの運転手さんが、困っている変なミラネーゼを助けてくれたのだ。この間、一時間弱、怒りくるっていたドイツのおじさんは渋々了解。やっとのことで車を動かすことができた。

 

渋滞した車が動き出すと、バスの窓から皆が拍手。いろんな人たちが手を振って車が動き出したことを祝ってくれた。助かった!感激で目がくしゃくしゃになった。

オーストリアで、ドイツ人と日本人が事故を起こし、それをイタリア人が僕を同郷の者として助けてくれたのだ。僕がミラノにすんで、ミラノ登録の車に乗っていたというだけで。「ミラネーゼに乾杯!」である。

 

そしてスイス・オーストリア国境を越えた最初の町がサンモリッツだった。

徳山てつんど
作家:徳山てつんど
父さんは、足の短いミラネーゼ
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