僕が精神病だった頃のこと

退院転院

思うより入院生活は長期化して、主治医からは退院するか療養型病床のある病院へ転院するか決めてほしいと言われている。私はずっと考えていた。いったんは自宅への退院と決めて、それに向けて準備をしているものの、うまく行かない。家族にとって私が退院して家に帰るのが負担なのではないかと。特に母は以前から食事が思うように作れないと愚痴をこぼしてもいた。そこへ好き嫌いの多い私が帰れば母の負担は大幅に増すのではないか。「やっぱり家へ退院するのは無理かなあ?」との入院先のぼくからのメールでの問いかけに自宅に居た家族3人は固まった。1番先にやはり障害者の妹のH子が反応した。「うーん。わからないです」。妹宛のぼくのメール「意見ありがとう。ぜひ、おふくろの率直な意見が聞きたい。聞いてもらえますか?」妹「いま相当考えていたみたいですけど、母はわからないそうです」。この場合、ぼくが自宅へ退院できれば皆と一緒に暮らせる、他の郊外の療養型の病院へ転院する場合は、事実上の年老いた両親とは永遠の別れかもしれない。わたしたちはそれくらい深刻な話をしているのである。近くには療養型の病院はない。ぼく「H子やおふくろがそんなに難しいと思うならやはり自宅への退院ではなく、転院の方向で考え直す方向です。親父もぜひ意見を聞かせてください。お願いします。」父「そんなにかんたんにきめられない」。このようにして、入院している私と、自宅に居る家族の一日は今日も暮れて行く。

究極の恐怖

それまで幻覚やら妄想やら不安障害やらウツ状態やら人格障害やらでごちゃごちゃだった私の病気は、「ええい、面倒だ」と言うわけでもないと思うが、まとめて統合失調症とされて来た。しかし私の場合、1年間ほどの入院加療の結果、気づいたら不安障害だけが残った。その不安障害にしたって、ただ蚤の心臓だというだけで、誰もがそうであるように、ただ死ぬの怖い怖い病だから障害者手帳も障害年金も下りないだろうと思う。私の「死ぬの怖い怖い病」はもちろん、そういう病名があるわけではない。誰もがそうであるように言わば「自我の病」であろうと思う。もちろん個人差は大きいしその人の性分や哲学にもよるので、人によっては死ぬことは特に怖くないとうそぶく人もいるだろうが。あるいは私が馬鹿正直なだけであるのかもしれない。しかし、恐怖にもさまざまあるとはいえ、究極の恐怖はやはり「死」ではあるまいか?まあ、がんのような病気だろうと、あるいは事故や災害であろうと、恐怖を感じる間もなく死に至る場合もあることもあるだろうが。

そして精神病について言うなら、病状が悪化するごとの死ぬほどの苦しみには、家族や周囲(もちろん医療関係者を含む)は責任を持って戴きたいと思う。そして「社会病」でもある精神病を、社会全体の責任において克服していきたいと思う。





質問~コミュニケーション障害

私の言葉の使い方や人の話す言葉の聞き方・解釈はかなり変わっているようだ。昔、厳密すぎると指摘されたこともある。たとえば誰かに何かを質問しても思うような答えが返ってこないことがよくある。人は質問されるのを嫌がるようだ。

メール

早いもので今の病院に入院してもう1年半近くになる。入院は幾度目か数えきれない。そして入院の数と同じくらいの数の、いろいろな病院にお世話になった。もう40年近い精神病だから、そのリハビリテーションや休養なども少しは上達しても良さそうなものだが、なかなかどうしてどうして、上手く行かないものだ(苦笑)。昨夜も一昨夜も薬を飲んでも眠れなかった。さすがに今日は日中に短い昼寝を数回。それと病院内の売店へも少しでも歩く練習。まだ元気な自宅の父も、老いてもようやく覚えた携帯メール。パソコンだって、スマートフォンでの自宅の父との病状報告のメールだって、精神的ストレスなどとの上手な付き合い方のリハビリテーションだと思っている。投薬をうまく確実にするのも、もちろん重要な治療だ。特に薬は、副作用の見極めとうまい付き合い方が試されるというものだ。父とのメールは、向うも練習になるが、その誤字脱字誤変換だらけの難解な(?)文章を読み解くのだって、こちらもかなりの頭の訓練になる。妹によると父は、うまく打てなかったり疲れたりすると妹や母に八つ当たりするらしい(笑)。それでも、向こうは老いの、こちらは精神病の、重要で楽しい治療でありリハビリテーションなのだ。そのような、57歳と83歳の言葉のキャッチボールは今日も飽きずにそして懲りずに続くのだ。

 

篠田 将巳(しのだまさみ)
僕が精神病だった頃のこと
0
  • 0円
  • ダウンロード

5 / 26

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • ダウンロード
  • 設定

    文字サイズ

    フォント