僕が精神病だった頃のこと

転院

私は約1年ほど、ある病院に入院中だ。思うように病状が良くならない。そこへ先日主治医から、退院して自宅へ帰るか、他の「療養型」の病院を紹介するから移ってくれと申し出があった。私や家族は途方に暮れている。療養型病床のある病院は郊外にしかなく、都内の自宅からは遠くて、年老いた両親や家族なども面会にも事実上来れないので、冗談でもなく両親とは「今生の別れ」になるのである。何しろ病状が悪いので、動くに動けないのだ。ご存じのように、いまの医療行政は、長期の入院を減らそうという政策だ。「こんな病状の病人に、出て行けって言うのは変でしょ?」などと若いナースに言っても仕方ない、などと私は思わない。そう言うのもいわば大人の責任だ。彼女は言う「でもここは長く居るところじゃないからねえ」。私は思う「刷り込まれている」と。厚生労働省や政権与党の医療行政は、憲法で保障された生存権の侵害に当たる。入院期間が3か月超は診療報酬を引き下げるという政策は、ただ人道上不当なだけでなく。法律問題だと私は思う。私の場合はそれでも1年も置いてくれた今の病院には文句はない。主に行政サイドに申したい。私は、大多数のつまりいわゆる公共の福祉あるいは利益のためには、少数者は我慢すべきと言う論調にはくみしない。私と同様の苦難に困っている方も多いと聞く。なんとか皆様に訴えたい。

 

至言

「そんなことも出来ないんじゃ退院なんか出来ませんよ」とN医師は言い放った。どうやら彼女は病人いじめが趣味のようだ。そして自身が指示して出していた頓服薬を私が濫用(らんよう)しているとも言った。「(訓練が)ダメなようなら長期療養型の病院に行ってもらいます」と言葉を続けた。どうやら彼女は鼻から私を退院させる気はなかったとみえる。濫用と言うなら、その医師としての権力を彼女は濫用している。パワーハラスメントだ。一応の目途は、3、4か月後の退院をめざすとのこと。それまでは日常生活の訓練をしろということだ。とりあえずは歩くこと。私が一番苦手なこと。脱走を考えた私は父に不満をぶつけた。「本当に紹介状がないと退院出来ないの?それじゃあ任意入院じゃないじゃんか」父「任意だよ」私「だって書かないと言われたらどうすりゃいいんだい?」父「言われたらそこに居ればいい」私「至言だな。さすが、その通りだよ」父「了解かい」。今日も今日とてメールチャットが続く。そうだな。父の言う通り。そして「退院なんか出来ませんよ」というN医師の叱咤激励(しったげきれい)も医師としての一種の愛情表現かとも思えてくる。そして私にも確かに甘えがあった。精神病棟での人生勉強はこのように続くのである。




こころのリハビリテーション

もう40年近い病だから、そのリハビリテーションや休養なども少しは上達しても良さそうなものだが、なかなかどうして、上手く行かないものだ。昨夜も一昨夜も薬を飲んでも眠れなかった。さすがに今日は日中に短い昼寝を数回。それと病院内の売店へも少しでも歩く練習。まだ元気な自宅の父も、老いてもようやく覚えた携帯メール。スマートフォンでの自宅の父との病状報告のメールだって、精神的ストレスなどとの上手な付き合い方のリハビリだと思っている。投薬をうまく確実にするのも、もちろん重要な治療だ。特に薬は、副作用の見極めとうまい付き合い方が試されるというものだ。父とのメールは、向うも練習になるが、その誤字脱字誤変換だらけの難解な(?)文章を読み解くのだって、こちらもかなりの頭の訓練になる。向こうは老いのこちらは病の重要で楽しい治療でありリハビリテーションなのだ。言葉のキャッチボールは今日も飽きずにそして懲りずに続く。

帰宅

去年の春、現在の病院に入院することになった。そして2度目の夏を迎える。先日、約1年2か月ぶりに自宅へ日帰りで帰った。泊まりはまだ許可にならず、とりあえずまず日帰りからという主治医の指導があった。久しぶりの外出で不安と緊張で一杯だったが、案ずるより産むがやすし、いざ帰宅して我が家で過ごすことの喜びを強く感じた。特に何をするのでもないが、好きなコンピュータを触って、前々から利用しているSNSに発言・投稿して喜びを表現すると、早速仲間から反応が来たりして楽しい。また、私が居ないうちに自宅は耐震補強工事をしたのだが、工事のあとの具合を母に聞いて、工事が大変だったとのこと。昼の食事は私の希望で大好きな牛丼弁当を買って来てもらって美味しく食べた。母は手作りの味噌汁を付けることを忘れなかった。1年以上ぶりの母の味はまた格別だった。たまたま来ていた以前お世話になったホームヘルパーさんとも久しぶりにあいさつした。私の場合、病気の性質上病院に居るのが安心なのだが、自宅で過ごすという、ある意味当たり前のことが実に身に染みてうれしかった。これが普通のそして本来の暮らしなのだと思った。以前はあまり思わなかったのだが、さらに治療・療養を重ねて、1日も早く病院を退院して家に帰って来たいと強く思った。年老いた両親と、やはり障害を持つ妹のためにも、その日が早く来ることを切に希望するものだ。明日からまた新しい日々が始まる、そんな気すらするのだった。

篠田 将巳(しのだまさみ)
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