そこで、小説とのかかわりですが、国家が持つ“生物的側面と非生物的側面”をいろんな角度から眺め、解析し、それをもとにドラマ展開しようと試みるのが私のフィクション小説なのです。
家族、学校、職場、国家などは、生物集団ですから、生物学的に理解できます。幸せな生活を望む動物である私たちには、本能的というべき共存感情があり、決して不必要な争いはしません。現に、家族において、よほどの事情がない限り、殺傷事件は起きません。
野生の肉食動物を見てお分かりのように、必要な食糧確保を目的とした殺傷は行われますが、そのこと以外の目的をもっての殺傷は起きません。これは、動物の生命欲が、お互いの生存を尊重するかのように制御されているのでしょう。そのことから考えれば、当然、動物である人間も、お互いの共存を尊重して無益な殺傷を起こさないものと考えられます。
ところが、生物学的に理解できない組織的人間の行為があるのです。それは、おそらく、国家が誕生して以来続いていると思われる、国家が国民に強制する殺傷行為、言い換えれば、敵国の人々を殺傷させる「戦争行為」です。
人間集団である国家には、国家意思というものがあります。この国家意思は、人間的なものであるはずですが、どうもそうではないようなのです。それは、なんとも不可解な非生物的な側面を持っているのです。
我々のほとんどは、自分の意思、常識で行動していると思っています。そのことは、決して間違いとは言えないのですが、それでは、我々の心を動かしている常識は、いったいどこから来たのでしょうか?この常識を作り、それを我々の潜在意識に刷り込ませているのは、他でもない、我々が妄信している国家なのです。
小説家にとって、国家を登場させる場合、かなり厄介なのです。作家は、学者でもなければ評論家でもないわけです。国家について書いたとしても、それは、フィクションとしての国家なのですが、読者は、作家が現実に国家をそのように考えていると判断しかねないのです。
だからと言って、護身のために、作家が、国家行為を無視した作品を書くわけにはいかないのです。前述したように、人の心と行為は、国家にコントロールされているからです。また、当然のことなのですが、人物を描く場合、必然的に国家がかかわってくるのです。
私は、これからも、疑い深い作家であり続けると思いますが、作家たちは、それぞれに個性があり、それぞれの信念をもって歩み続ければいいと思います。これから、作家を志す人たちは、疑う心を失わず、勇気をもって自分の道を突き進んでいってほしいと願っています。