ヒフミ愛

と金

 

 翌日の月曜日、8時半ごろキッチンで朝食を終えた亜紀は、二階の部屋に戻り、ガンダムのショルダーバッグに財布、ハンカチ、スマホ、メモ帳、ボールペンを丁寧に入れ、それを肩に掛け階下に降りた。そして、スパイダーのブルーの首輪にリールを取り付けると、リビングでテレビを見ていた拓実(たくみ)に、ちょっと遊びに行ってくるからねと声をかけ、キッチンで洗い物をしていたアンナに「ピースに会いに行く」と大声で叫んだ。

 

9時少し前に、亜紀は、拓実に笑顔で小さく手を振って、スパイダーに引かれるように玄関に向かった。玄関のドアが閉まる音がした時、「ア」っと声を発したアンナは、水道の蛇口も締めずに、大あわてでドタドタと玄関にかけて行った。玄関のドアを勢いよく開けたアンナは、大きな声で亜紀に叫んだ。「車に注意して、右端を歩くのよ。ちゃんと、右左見るのよ。分かった、アキ」

 

亜紀は、大きな声で、ハ~~イ、と返事すると、平原歴史公園の南側を東西に走る細い道を東に向かって歩いた。そして、曽根地区の中央を南北に走る幹線道の交差点に到着すると、アンナの言ったことを思い出し、左右を確認して幹線道に出た。亜紀とスパイダーは、車と自転車に注意しながら右端を南に向かってゆっくり歩き始めた。曽根地区は、台地状の住宅街のため、幹線道は南に向かって上りになっている。また、中央線がないほど道幅が狭く、車が多いときは、子供にとっては危険であった。路線バスも、大型バスではなくマイクロバスが走っていた。

 

亜紀は、行きは上り坂になっているので、徒歩では少し大変だったが、一日おきにでも遊びに行けば、一週間ぐらいだったら、ピースはどうにか我慢してくれると期待していた。スパイダーもヒフミンの家は近所だから、いつでも遊びに行けると思い、それほど寂しくなかった。ピースと毎日顔を合わせて会話していた亜紀は、一晩会話しなかっただけで、一週間ぐらいピースと会わなかったような気持ちになっていた。

「ピース、ヒフミンとうまくやっているかな~。昨夜は、ちゃんと、ご飯食べて、ぐっすり眠れたかな~、家族のみんなから、かわいがられているかな~」ピースのことが昨夜から気になっていた亜紀は、独り言を言うようにスパイダーに問いかけていた。少し足が重たくなってきた亜紀は、あともう少し、と自分を元気づけながら、スパイダーに引っ張られるように坂道を歩いていた。スパイダーは、自分の縄張りを確認しているかのように鼻をクンクン鳴らしながら、散歩を楽しんでいるようだった。

 

朝、7時のアラームで飛び起きたヒフミンは、廊下を忍び足で歩き、ピースの部屋の前にやってくるとそっとドアを少し開いた。そして、チラッと中をのぞいた。ピースは、まだ眠っている様子だったが、エサの準備をすることにした。ドアを半分ぐらい開いて中に足を踏み入れると、危険を察したように、ピースがヒョイと身を起こした。「さすが、ピース。人の気配を感じて、目を覚ますとは。オハヨ~~、ピース」小さな声で挨拶したヒフミンは、キャットフードと水をセットして、「いつでもどうぞ」といって部屋を出た。

 

8時過ぎに、ヒフミンは母親の寝室に行き、母親の手を引きながらキッチンにやってきた。朝食は、いつもは香子が作っていたが、香子が出立してからは、おじいちゃんが作ることになっていた。家族そろってキッチンで朝食を済ませると、ヒフミンは両手を合わせ「ごちそうさま」と言った。そして、おじいちゃんと母親に、ピースを返す決意を伝えることにした。突然、口火を切った。「ピースのことなんやけど。やっぱ、返すことにした。ピースが、帰りたいような顔をしとるけん」

 

母親は、突然の気持ちの変化に驚いた。母親は、自分のせいで、ピースを返すことになったのではないかと心配になった。「あら、あれほど喜んでいたのに。ピースの具合でも悪いのかい?」ヒフミンは、笑顔で答えた。「違うよ。ピースは、アキちゃんちが恋しんだよ。ボクと暮らすより、アキちゃんちで暮らす方が、ピースには、幸せだって、分かったんだ。それだけ」母親は、怪訝(けげん)な顔つきでうなずいたが、おじいちゃんは、笑顔で声をかけた。

「そうか。それがいい。いつ、返すんか?」ヒフミンは、即座に答えた。「今日、返す。すぐに、アキちゃんに電話する」母親は、顔を引きつらせて、声をかけた。「そんなに、急がなくても、いいんじゃないか。もう一日ぐらい預かっても、わるかないと思うがね」母親は、ヒフミンの気持ちの変化が、今一つつかめなかった。「やっぱ、今日返す。ピースは、一刻も早く、帰りたいみたいだし。もう、決めたことだし」

 

おじいちゃんは、ヒフミンの気持ちの変化を確かめたくなった。おじいちゃんは、ヒフミンに誘導尋問(ゆうどうじんもん)を始めた。「大好きなピースと別れるということは、心機一転、心を入れ替えて、猛勉強して、大学に行く決意をしたってことか?たいしたもんたい。ヒフミン、頑張れ」ヒフミンは、とんでもない誤解をされたと顔を真っ赤にした。プロになって金持ちになる夢は、極秘にしておこうと思っていたが、とっさに、誤解を解こうと口を滑らせてしまった。

 

「違うよ。そんなんじゃない。ただ、金持ちになるまで、我慢しようと思って」母親は、まったくヒフミンが言っている意味が分からなかった。ヒフミンは、中学を卒業したら、香子と同のように軍事工場で働くと断言していた。そんなヒフミンが、金持ちになるということは、やっぱアホだと思った。「ヒフミン、そんな、無理をしなくていいんだよ。貧乏でも、猫ぐらいは、飼えるさ。どんなに、軍事工場で働いても、金持ちになんか、なれないんだよ」

 

ヒフミンは、うつむいて、しばらく黙っていた。顔を持ち上げたヒフミンは、決意を口にすることにした。「必ず、金持ちになる。そして、ピースを迎えに行く。必ず、プロになって、名人になってみせる」この時のヒフミンの顔には、大人の表情が現れていた。母親には、突然の気持ちの変化が分からなかったが、ヒフミン自ら、プロへの決意を言ったことに手が震えた。「本当かい?」と疑うように問いかけたが、突然、母親の目からドッと涙があふれ、これ以上、言葉が出なかった。

 

プロへの決意を母親に伝え、気持ちが晴れ晴れとしたヒフミンは、ピースと一緒に桜を見ようと、早速、ピースの部屋に向かった。ピースもすでに食事を終えて、ヒフミンがやってくるのを待っていた。ヒフミンは、ピースをびっくりさせないように静かにドアを開け、忍び足で部屋に入った。「もう、お別れだ」とつぶやき、亜紀に言われたようにピースを優しく抱きかかえた。

 

ヒフミンは、冠木門を出ると左右にツツジが植えられた外庭の中央道をゆっくり歩き、外庭前の東西に走る細い通りに出て、左に曲がった。そこには、大きな桜の木があり、びっしりと桜を咲かせていた。ヒフミンは、桜の木の下にやってくると、よく見えるようにピースを両手で持ち上げ、ヒフミンもピンク色の桜を見上げた。ちょっと、寂し気にヒフミンはつぶやいた。「ピース、きれいだろ。桜って、いいな~。アキちゃんちに帰っても、時々、遊びに来てくれよな。ボク、頑張るから」

 

ふと、女子の声がしたような気がして、西側の曽根幹線道路に振り向いた。オリーブ畑をはさんで50メートルほど離れた幹線道路から亜紀が歩きながら両手を振っていた。ヒフミンが右手を振ると「ピース、ピース」と亜紀のかわいい声が澄み切った空気に響き渡った。スパイダーは、肉眼では確認できないほど遠くに見えるちっちゃなピースの姿に気づいたのか、突然、ピースめがけて駆けだした。亜紀もスパイダーに引っ張られながらヒフミンのもとにかけて行った。

 

亜紀が息を切らせてヒフミンのもとにたどり着くと、ヒフミンは笑顔で挨拶した。「オハヨ~、今、ピースと花見をしてたんだ。グッドタイミングだね。みんなで、花見をしよう」亜紀は、大きな桜の木にびっしり咲き誇った桜の花に目をやり、青空に向かって叫んだ。「サクラは、ステキ」あちらこちらの桜の木に目をキョロキョロとやりながら、話を続けた。「ヒフミンちには、桜の木がたくさんあって、いいね」

春日信彦
作家:春日信彦
ヒフミ愛
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