金持ちという言葉を聞くたびに、秀樹が思い出され、さらに、ムカついた。「おじいちゃん、貧乏人は、金持ちには、なれんちゃなかとね。アキちゃんの友達に、ヒデキっちゅう生意気な金持ちがおるけど、ヒデキの親は、金持ちバイ。親が金持ちやから、子供も金持ちになるっちゃなかとね。金持ちになんか、貧乏人の子は、なれんバイ。そんなこと言うんなら、どうやったら、金持ちになれるとね?教えんね」
おじいちゃんは、ますます薬が効き始めたと心でほくそ笑んだ。マジな顔つきになったおじいちゃんは、よっこらしょと大きな岩にお尻を置くと、腕組みをして話し始めた。「貧乏人でも、金持ちになる方法はある。それは、プロになるこったい」ヒフミンは、プロと聞いて、将棋のプロのことを言っていることは、ピンときた。でも、プロになるにもお金がかかることを知っていた。しかも、今は、母親が病気で、治療費で大変なことも知っていた。
おじいちゃんは、何にもわかっていないと憤慨した。ヒフミンは、怒りをぶつけるように、返事した。「おじいちゃん、プロになるっていうけど、お金はどうするとね。奨励会に行くにも、金が、いるっちゃなかとね。ボクんちは、貧乏やなかね」おじいちゃんは、貧乏と聞くたびに涙が出そうだった。おじいちゃんの家系は、代々、貧乏だった。おじいちゃんも、貧乏人の子は、遺伝のように、貧乏人になると思っていた。でも、おじいちゃんは、ずっと、ヒフミンは奇跡を起こすと信じていた。生まれたばかりのヒフミンの輝く瞳を見たとき、この子は、きっと奇跡を起こす、とおじいちゃんは直感していた。
おじいちゃんは、寂しそうな表情で答えた。「そうたい、貧乏人は、いつまでたっても、貧乏人たい。でも、ヒフミンは、違うバイ。おじいちゃんは、信じとる。きっと、ヒフミンは、プロになれる。そして、きっと、名人になる。プロになれば、金持ちになれる。その時は、血統書付きの猫を飼えるたい。お金のことは、心配いらん。お姉ちゃんも、働きに出た。男やろ、死ぬ気でやってみろ」おじいちゃんは、七分咲きの桜を見つめ、ヒフミンの反応をじっと待つことにした。
ヒフミンは、プロになれば、金持ちになれることを初めて知った。もし、金持ちになれば、ピースに、おいしいキャットフードを食べさせ、病院にも連れて行けると思った。ヒフミンは、おじいちゃんを睨み付けて尋ねた。「本当ね?プロになったら、金持ちになれるっちゃね。嘘じゃなかね」おじいちゃんは、笑顔で大きくうなずいた。「嘘じゃなか。名人になったら、億万長者になれる。大金持ちたい」
その夜、ヒフミンは、ピースに別れを告げる決意をした。寝床についたヒフミンは、ピースを枕元に呼び込んだ。なんとなく、別れを予感したピースは、そっと、ヒフミンに寄り添った。ピースを抱き寄せ頭をナデナデし、そっと、耳元で囁くように別れ話を始めた。「ボクんちは、貧乏たい。ピースのような、血統書付きのネコを飼う金はなか。ピースには、おいしいごはんもやりたいし、病院にも連れていきたか。でも、そんな金は、今は、なか。悲しいけど、別れないかん。でもな、ボクは、必ず、金持ちになる。その時は、ピースを迎えに行く。それまで、我慢たい」
と金
翌日の月曜日、8時半ごろキッチンで朝食を終えた亜紀は、二階の部屋に戻り、ガンダムのショルダーバッグに財布、ハンカチ、スマホ、メモ帳、ボールペンを丁寧に入れ、それを肩に掛け階下に降りた。そして、スパイダーのブルーの首輪にリールを取り付けると、リビングでテレビを見ていた拓実(たくみ)に、ちょっと遊びに行ってくるからねと声をかけ、キッチンで洗い物をしていたアンナに「ピースに会いに行く」と大声で叫んだ。
9時少し前に、亜紀は、拓実に笑顔で小さく手を振って、スパイダーに引かれるように玄関に向かった。玄関のドアが閉まる音がした時、「ア」っと声を発したアンナは、水道の蛇口も締めずに、大あわてでドタドタと玄関にかけて行った。玄関のドアを勢いよく開けたアンナは、大きな声で亜紀に叫んだ。「車に注意して、右端を歩くのよ。ちゃんと、右左見るのよ。分かった、アキ」
亜紀は、大きな声で、ハ~~イ、と返事すると、平原歴史公園の南側を東西に走る細い道を東に向かって歩いた。そして、曽根地区の中央を南北に走る幹線道の交差点に到着すると、アンナの言ったことを思い出し、左右を確認して幹線道に出た。亜紀とスパイダーは、車と自転車に注意しながら右端を南に向かってゆっくり歩き始めた。曽根地区は、台地状の住宅街のため、幹線道は南に向かって上りになっている。また、中央線がないほど道幅が狭く、車が多いときは、子供にとっては危険であった。路線バスも、大型バスではなくマイクロバスが走っていた。
亜紀は、行きは上り坂になっているので、徒歩では少し大変だったが、一日おきにでも遊びに行けば、一週間ぐらいだったら、ピースはどうにか我慢してくれると期待していた。スパイダーもヒフミンの家は近所だから、いつでも遊びに行けると思い、それほど寂しくなかった。ピースと毎日顔を合わせて会話していた亜紀は、一晩会話しなかっただけで、一週間ぐらいピースと会わなかったような気持ちになっていた。
「ピース、ヒフミンとうまくやっているかな~。昨夜は、ちゃんと、ご飯食べて、ぐっすり眠れたかな~、家族のみんなから、かわいがられているかな~」ピースのことが昨夜から気になっていた亜紀は、独り言を言うようにスパイダーに問いかけていた。少し足が重たくなってきた亜紀は、あともう少し、と自分を元気づけながら、スパイダーに引っ張られるように坂道を歩いていた。スパイダーは、自分の縄張りを確認しているかのように鼻をクンクン鳴らしながら、散歩を楽しんでいるようだった。
朝、7時のアラームで飛び起きたヒフミンは、廊下を忍び足で歩き、ピースの部屋の前にやってくるとそっとドアを少し開いた。そして、チラッと中をのぞいた。ピースは、まだ眠っている様子だったが、エサの準備をすることにした。ドアを半分ぐらい開いて中に足を踏み入れると、危険を察したように、ピースがヒョイと身を起こした。「さすが、ピース。人の気配を感じて、目を覚ますとは。オハヨ~~、ピース」小さな声で挨拶したヒフミンは、キャットフードと水をセットして、「いつでもどうぞ」といって部屋を出た。
8時過ぎに、ヒフミンは母親の寝室に行き、母親の手を引きながらキッチンにやってきた。朝食は、いつもは香子が作っていたが、香子が出立してからは、おじいちゃんが作ることになっていた。家族そろってキッチンで朝食を済ませると、ヒフミンは両手を合わせ「ごちそうさま」と言った。そして、おじいちゃんと母親に、ピースを返す決意を伝えることにした。突然、口火を切った。「ピースのことなんやけど。やっぱ、返すことにした。ピースが、帰りたいような顔をしとるけん」
母親は、突然の気持ちの変化に驚いた。母親は、自分のせいで、ピースを返すことになったのではないかと心配になった。「あら、あれほど喜んでいたのに。ピースの具合でも悪いのかい?」ヒフミンは、笑顔で答えた。「違うよ。ピースは、アキちゃんちが恋しんだよ。ボクと暮らすより、アキちゃんちで暮らす方が、ピースには、幸せだって、分かったんだ。それだけ」母親は、怪訝(けげん)な顔つきでうなずいたが、おじいちゃんは、笑顔で声をかけた。