ヒフミ愛

早く返した方がいいと言われ、カチンときた。ヒフミンは、口をとがらせ、事情を説明した。「おじいちゃん、分かってるよ。でも、アキちゃんが、しばらくホームステイさせて、ピースの様子を見ていいって。ボク、しっかり面倒見るし、エサもちゃんとやる。やけん、よかろ。おじいちゃんにも、お母ちゃんにも、迷惑かけん。責任もって、面倒見る。絶対、約束する。飼っても、よかろ?おじいちゃん」

 

ウ~~、とうなったおじいちゃんは、腕組みをして、ことの重大さを説明することにした。「ヒフミン、この猫は、そこいらにいる猫じゃない。間違いなく、血統書付きの高価な猫だ。買うとすれば、100万円ぐらいする。こんな猫が病気にでもなったら、動物病院に連れて行かんといかん。一回診てもらうだけでも、1万ぐらいするぞ。そんな治療代、おじいちゃん、だせんバイ」ヒフミンは、猫を飼うことを安易に考えていた。エサをやって、かわいがればいいぐらいにしか考えていなかった。猫を飼うのにお金がかかることなど、まったく考えたこともなかった。

 

「本当?ピースって、100円万もするとね」“100万、100万、100万、”ズキン、ズキン、ズキンと頭痛のように頭を叩き始めた。次第に、手が震えだし、腰が抜けて、畑にバタンと倒れ込んだ。地震が起きたかとびっくりしたピースは、ヒフミンの懐から飛び出し、一目散に畑から逃げ出していった。天を仰いだヒフミンは、亜紀が恨めしくなった。どうして、ピースが血統書付きで、高価な猫だってことをもっと早くに言わなかったのか、と心で叫んだ。すぐ返すのは悔しかったが、明日には、ピースを返すことにした。

 

薬が効きすぎたと思ったおじいちゃんは、岩からヒョイと飛び降りて、倒れ込んだヒフミンに手を貸した。「おい、そんなに、がっかりするな。ヒフミンも、血統書付きの猫が飼えるぐらいの男になればいい。しっかりせんか。男なら、金持ちになってみろ」あまりのショックで、ヒフミンは立ち上がってもふらついていた。金持ちと聞いて、一瞬、イラッと来た。お姉ちゃんは、家族のために出稼ぎに行っているというのに、どうして、子供に金持ちになれなんて言うや、と心の中で愚痴(ぐち)をこぼした。

金持ちという言葉を聞くたびに、秀樹が思い出され、さらに、ムカついた。「おじいちゃん、貧乏人は、金持ちには、なれんちゃなかとね。アキちゃんの友達に、ヒデキっちゅう生意気な金持ちがおるけど、ヒデキの親は、金持ちバイ。親が金持ちやから、子供も金持ちになるっちゃなかとね。金持ちになんか、貧乏人の子は、なれんバイ。そんなこと言うんなら、どうやったら、金持ちになれるとね?教えんね」

 

おじいちゃんは、ますます薬が効き始めたと心でほくそ笑んだ。マジな顔つきになったおじいちゃんは、よっこらしょと大きな岩にお尻を置くと、腕組みをして話し始めた。「貧乏人でも、金持ちになる方法はある。それは、プロになるこったい」ヒフミンは、プロと聞いて、将棋のプロのことを言っていることは、ピンときた。でも、プロになるにもお金がかかることを知っていた。しかも、今は、母親が病気で、治療費で大変なことも知っていた。

 

おじいちゃんは、何にもわかっていないと憤慨した。ヒフミンは、怒りをぶつけるように、返事した。「おじいちゃん、プロになるっていうけど、お金はどうするとね。奨励会に行くにも、金が、いるっちゃなかとね。ボクんちは、貧乏やなかね」おじいちゃんは、貧乏と聞くたびに涙が出そうだった。おじいちゃんの家系は、代々、貧乏だった。おじいちゃんも、貧乏人の子は、遺伝のように、貧乏人になると思っていた。でも、おじいちゃんは、ずっと、ヒフミンは奇跡を起こすと信じていた。生まれたばかりのヒフミンの輝く瞳を見たとき、この子は、きっと奇跡を起こす、とおじいちゃんは直感していた。

 

おじいちゃんは、寂しそうな表情で答えた。「そうたい、貧乏人は、いつまでたっても、貧乏人たい。でも、ヒフミンは、違うバイ。おじいちゃんは、信じとる。きっと、ヒフミンは、プロになれる。そして、きっと、名人になる。プロになれば、金持ちになれる。その時は、血統書付きの猫を飼えるたい。お金のことは、心配いらん。お姉ちゃんも、働きに出た。男やろ、死ぬ気でやってみろ」おじいちゃんは、七分咲きの桜を見つめ、ヒフミンの反応をじっと待つことにした。

 

ヒフミンは、プロになれば、金持ちになれることを初めて知った。もし、金持ちになれば、ピースに、おいしいキャットフードを食べさせ、病院にも連れて行けると思った。ヒフミンは、おじいちゃんを睨み付けて尋ねた。「本当ね?プロになったら、金持ちになれるっちゃね。嘘じゃなかね」おじいちゃんは、笑顔で大きくうなずいた。「嘘じゃなか。名人になったら、億万長者になれる。大金持ちたい」

 

その夜、ヒフミンは、ピースに別れを告げる決意をした。寝床についたヒフミンは、ピースを枕元に呼び込んだ。なんとなく、別れを予感したピースは、そっと、ヒフミンに寄り添った。ピースを抱き寄せ頭をナデナデし、そっと、耳元で囁くように別れ話を始めた。「ボクんちは、貧乏たい。ピースのような、血統書付きのネコを飼う金はなか。ピースには、おいしいごはんもやりたいし、病院にも連れていきたか。でも、そんな金は、今は、なか。悲しいけど、別れないかん。でもな、ボクは、必ず、金持ちになる。その時は、ピースを迎えに行く。それまで、我慢たい」

と金

 

 翌日の月曜日、8時半ごろキッチンで朝食を終えた亜紀は、二階の部屋に戻り、ガンダムのショルダーバッグに財布、ハンカチ、スマホ、メモ帳、ボールペンを丁寧に入れ、それを肩に掛け階下に降りた。そして、スパイダーのブルーの首輪にリールを取り付けると、リビングでテレビを見ていた拓実(たくみ)に、ちょっと遊びに行ってくるからねと声をかけ、キッチンで洗い物をしていたアンナに「ピースに会いに行く」と大声で叫んだ。

 

9時少し前に、亜紀は、拓実に笑顔で小さく手を振って、スパイダーに引かれるように玄関に向かった。玄関のドアが閉まる音がした時、「ア」っと声を発したアンナは、水道の蛇口も締めずに、大あわてでドタドタと玄関にかけて行った。玄関のドアを勢いよく開けたアンナは、大きな声で亜紀に叫んだ。「車に注意して、右端を歩くのよ。ちゃんと、右左見るのよ。分かった、アキ」

 

亜紀は、大きな声で、ハ~~イ、と返事すると、平原歴史公園の南側を東西に走る細い道を東に向かって歩いた。そして、曽根地区の中央を南北に走る幹線道の交差点に到着すると、アンナの言ったことを思い出し、左右を確認して幹線道に出た。亜紀とスパイダーは、車と自転車に注意しながら右端を南に向かってゆっくり歩き始めた。曽根地区は、台地状の住宅街のため、幹線道は南に向かって上りになっている。また、中央線がないほど道幅が狭く、車が多いときは、子供にとっては危険であった。路線バスも、大型バスではなくマイクロバスが走っていた。

 

亜紀は、行きは上り坂になっているので、徒歩では少し大変だったが、一日おきにでも遊びに行けば、一週間ぐらいだったら、ピースはどうにか我慢してくれると期待していた。スパイダーもヒフミンの家は近所だから、いつでも遊びに行けると思い、それほど寂しくなかった。ピースと毎日顔を合わせて会話していた亜紀は、一晩会話しなかっただけで、一週間ぐらいピースと会わなかったような気持ちになっていた。

春日信彦
作家:春日信彦
ヒフミ愛
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