バルトーク(の楽曲)はいいねえ。きらびやかで複雑な旋律、誰もがステップを踏みたくなり熱狂の虜になる、たたきつけるような打楽器。何度聞いてもいつ聴いても飽きない。けれん味は確かにあるけど、そこが素敵。若い頃(10代後半から27歳頃)の私はそう思っていた。
最初に聴いた曲は「組曲中国の不思議な役人」であった。高校で私は、吹奏楽部にいたのだが、その年の高校で、この作品を吹奏楽用に編曲してコンクールに出たところがあったのだ。その演奏のうまさと来たら。そして楽曲の強烈さと来たら!17歳の私はすっかり度肝を抜かれてしまって、以来ベラ・バルトークという作曲家の名前が心とアタマに刻印されたのだ。「彼の音楽ならゼッタイ聴かなきゃ」という憧れ、もしくは情熱で、代表作はほぼ入手した。「管弦楽のための協奏曲」「舞踏組曲」「2台のピアノと打楽器のためのソナタ」「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」「弦楽のためのディヴェルティメント」。もちろん「不思議な役人」は異なる指揮者で聞きくらべた(そんな精巧な耳は持っていないのにね)。
「若い頃」とわざわざ書いていると言うことは、現在は違うのか!? と問われたら「全くそうです」と私は答えるだろう。早い話が、好みが変わったのだ。とはいえ大きく変わったわけではない。依然として「不思議な役人」は大好きだし、「管弦楽のための協奏曲」も、涙ものの名作だと思う。
しかしそれ以外の曲は、今の私にはどうもぴんと来ない。原稿を書くために私は、上記の曲を一心不乱に聴いたが思ったことは、「懐かしいなあ」、「装飾過剰だよ、この曲は」、「けれん味がありすぎる」。そして聴き終えて思うのは、「作者はこの音楽で何を言わんとしているのかしら? 」
上記の私の感想は、いうまでもなく誤っている。「何か」を、知や思想だと定義するなら、それらを説明、伝達する能力があるのは言語表現であり、音楽や絵画にはそれはできない。せいぜい補助するだけだろう。そもそも音楽は、音の連続体であり、音自体に意味はないのだ。「いい音」と「悪い音」を区別するために、人間はわざわざ考えたりしない。感じる。聞こえる。それだけだ。
音自体に意味がないのに、音楽に意味があると見なすのは論理の破綻であろう。われわれが音楽を聴くとき、われわれが期待しているのは「意味」ではなく「印象」だとすれば、すっきりするのではないだろうか。そう、「バルトークは何が言いたいのだ!? 」と思うから困るのだ。
「ビートルズは愛を歌っている。ボブ・ディランは孤独を歌っている。バッハは神を歌っている」という文脈をバルトークに援用することはできない。私はやっと彼の楽曲の本質が分かった。彼の音楽は「装飾」なのだ。物語や神話の力を強調するための…映像のシニフィアンを見る者に分からせるための… なぜこんな結論に至ったかというと。
「マルコヴイッチの穴」という映画をご存知だろうか。面白おかしいのに、難解という、曲芸のような味わいの映画だった。あれの冒頭の、人形劇のシーンの音楽がバルトークの「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」だ。なぜに人形劇かというと、人間が他人の脳みそに入りこんで、その人物になりきる(というか、なり変わる)ことが映画のテーマだからだ。他者の肉体をコントロールする欲望。それは誰もが持っているが、タブーだから意識の下に押し込めている。そのことを、映像作者は人形(操っている主人公の男性とうり二つなんです)と、人形師で語らせている。
写真は、残念ながら「マルコヴィッチの穴」ともバルトークとも無関係な横浜の風景です。お世話になっている女流写真家長澤直子さんに綺麗な写真を提供して頂きました。窓に紅葉が映っているのに注目。
このぎくしゃくとしながら性急なお人形のダンスに、この曲の「アレグロ」はおそろしく合っている。たたみかける打楽器、なめらかからざらざらまで、千変万化の弦、ぞっとするほど早くなるテンポから、ちゃらちゃらと下ってくる
ピアノの鍵盤音が快い。音楽自体も良いが、「人形」が熱狂的に踊ることによって倒錯的な気分が嫌でも伝わるのだ。文で伝えると、この酩酊が巧く表現できないのが残念なくらい。
私の「バルトーク=装飾品」仮説は、ある本によっても補強されることになった。「コリン・ウィルソン音楽を語る」(1989年富山房刊)という本です。
「音楽を語る」というよりは「音楽家について感想と印象を語りたおしました」といった内容なのだが、文中でウィルソンはバルトークの作品についてこう述べている。「われわれは、たとえば「ヴァイオリン協奏曲」の音響と華々しさに感銘を受けることは受けても、それが終わったとき、全体として何を感じるべきなのか確信が持てないのだ。」別の箇所ではこうも言っている。「バルトークの作品は、人間バルトークに関してほとんど語らない。」