夢のネックレス

 亜紀にとっては、子供が家族のために働くということがまったくピンと来なかった。親が子供を育てるということは当たり前で、学校で勉強して、好き勝手に遊べるのが子供の普通の生活だと思い込んでいた。「あ、そう、将棋って、将棋盤と駒があれば、いつでもできるじゃない。働きながらでも、将棋、指せばいいじゃない。やめることはないと思うんだけど」

 

 将棋は、働きながらでも、手軽に遊べるゲームと思っている亜紀は、将棋をやめる理由が今一つ理解できなかった。ヒフミンの得意な将棋の話で暗い空気をはねのけようと思ったが、ますます、ヒフミンの顔がしかめっ面になった。ヒフミンは、ガクンと首を折ると、ぼそりとつぶやいた。「もう決めたことなんだ。将棋は指さない。頭から将棋を消し去りたいんだ」亜紀には、ヒフミンにとっての将棋というものが今一つピンと来なかった。

 

 「将棋って、気軽にやれるゲームの一つじゃない。ヒフミンは、将棋が得意なんだし、友達と楽しく、気軽にやればいいと思うんだけど。そう、中学生になったら、寮生活するんでしょ。きっと、友達作りに役立つと思うよ。小学生チャンピョンの腕前を自慢すればいいじゃない。やめなくてもいいと思うんだけど」ヒフミンは、うなだれてじっと聞いていた。今の気持ちを誰もわかってくれないと思ったが、亜紀にだけはほんの少しでも分かってほしくなった。

 顔を持ち上げたヒフミンは、亜紀の顔をちょっと覗き見て窓から見える手の届かない青空を見つめつぶやいた。「亜紀ちゃんの言う通りだよ。将棋って、ちょっとした遊びだよな。でも、駒を動かし始めれば、もう、後戻りはできない。自分が勝か、相手が勝か、白黒がつくまで戦わなくちゃいけない。まったく、残酷なゲームだ。そんなゲームに夢中になるなんて、ほんと、バカだ。だから、奨励会は受験しない。闘う前から負け犬さ。でも、それでいいんだ。僕の人生なんだから」

 

 亜紀は、小学生チャンピョンのヒフミンが、奨励会を受験しないなんて、信じられなかった。試験に不合格だった時のことを恐れて受験しないのかとも思えたが、ガサツで気の強いヒフミンのことを思うと、それとは違う誰にも言えないような家庭の事情があるように思えた。「事情は分からないけど、受験しなよ。まだ4年生じゃない、今年がダメでも、来年受験すればいいじゃない。ヒフミンは、小学生チャンピョンなんだから、きっと合格するよ」

 

ヒフミンは、ゆっくり顔を左右に振り、しばらく寂しそうな表情で窓の外をぼんやり眺めていたが、か細い声で話を続けた。「いや、気持ちの問題さ。僕は、一生受験するつもりはない。プロになる夢も捨てた。将棋人生は、もう終わりだ。自分で決めたことだし。後悔はしていない。これでいいんだ」言い終えたヒフミンは、ガクンと首を折った。とっさに亜紀が声をかけようとしたとき、目頭からポトッと涙が落ちた。それを見て、一瞬言葉に詰まった。

 じっと耳を傾けていた亜紀だったが、ヒフミンの絶望はどこから来るのだろうかと不思議でならなかった。まだ4年生だし、受験のチャンスは、まだまだある。いったい全体、“もう、来年はない、もう、終わりだ”って、まったく言っている意味が分からなかった。ニコッと笑顔を作った亜紀は、ヒフミンを励まそうと明るい声でハッパをかけた。「ヒフミン、どうしてあきらめるの?どうして受験しないの?ヒフミンは、小学生チャンピョンよ。将棋の天才じゃない。きっと、合格すると思う。将棋バカの意地を見せなよ」

 

 ちょっとムカついたヒフミンは、きりっと目を吊り上げた。亜紀は、何もわかってないくせに、言いたいことを言いやがって、と心で叫んだ。所詮、金持ちには貧乏人の気持なんかわからない、としみじみ思った。「そうさ、ただの将棋バカだ。だから、将棋なんかやめる。これ以上、バカになったら、どうしようもないから。小学校を卒業したら、軍事工場でがむしゃらに働き、将来、立派な工場長になって見せる。これが、僕の夢さ」ヒフミンは、強がりの嘘を並べ立てた。

 

祖父に3歳から毎日指導を受け、4年生で小学生チャンピョンにまでなったヒフミンには、奨励会試験に合格するだけの実力が、十分にあった。でも、もし、受験して合格したなら、入院するお金もなくて、家で寝込んでいる母親を困らせることになるのではないかとヒフミンはひそかに思った。でも、もしかしたら、母親は、受験を勧めてくれるかもしれないと心の底ではほんの少し甘い期待をしていた。

ついに決意を固めたヒフミンは、母親の気持ちを確かめようと7月末の奨励会受験申込締切り間近になった時、病床に臥せている母親の枕元でつぶやいた。「お母ちゃん、奨励会受験するの、やめた」その言葉を聞いた時、母親はほんの少し目を開いてがっかりした顔を見せたが、即座に、鋭い眼差しでヒフミンを見つめると「自分の好きなように、おやり」とバシッと返事した。そして、静かに目を閉じた。

 

母親の瞼の裏には、一心不乱に盤上の駒を見つめる少女の後ろ姿が浮かび上がった。母親も中学生までプロ棋士を目指して必死に頑張っていた。しかし、能力の限界を感じ、プロへの道をあきらめた。だが、あの時、あきらめるべきではなかった、と今でも後悔していた。だから、ヒフミンだけには、そんな思いはさせたくないと陰ながら応援してきた。もし、元気であれば、“甘ったれた根性を叩きなおしてやる”と真剣勝負の対局をしたい思いでいっぱいだった。でも、腎臓病で苦しむ母親には、もはや起き上がる力も残っていなかった。

 

じっと涙をこらえた母親は、ヒフミンをお守りくださいと神に祈ると、力尽きたように一瞬、ほっとした表情を見せた。その表情を見たとき、母親の本心を見抜けないヒフミンは、クルッと母親に背を向け、“あれでよかったんだ、後悔はしていない”、と涙をこらえて心でつぶやいた。部屋に戻ったヒフミンは、母親から譲り受けた大切な将棋盤と駒を部屋の中央に置くと正座して一礼した。

サーファーヒカル
作家:春日信彦
夢のネックレス
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