夢のネックレス

 ヒフミンは、依然としてぼんやりと青空に浮かぶ綿菓子のような白い雲を見つめ、返事をしなかった。亜紀は、ますます心配になった。もしかして、家族に大変な何かがあったのではないかと思った。顔色を覗き見てもう一度声をかけた。「ヒフミン、将棋する?」今初めて声をかけられたかのようにハッとして、振り向くと返事した。「あ、将棋、もうやんない。将棋、やめたんだ」三度の飯より大好きな将棋をやめたと聞こえた亜紀は、自分の耳を疑った。

 

 「え~~、マジ、やめたの?どうして?どこか具合でも悪いの?」ヒフミンは、しばらく黙っていたが、唇を真一文字にすると自分の思いを告白する決意をした。「いや、病気じゃない。自分で決めたんだ。もう、一生、将棋の駒は握らない。小学校を卒業したら、軍事工場で働くんだ。もう決めたんだ」亜紀は、信じられない返事に何と言って答えていいか戸惑ってしまった。一呼吸おいて、聞き間違いでないかと確認した。「マジなの?小学校を卒業したら、働くって?」

 

 ヒフミンは、大きくうなずいた。「マジだとも。お姉ちゃんは、来年の春、中学校を卒業したら、軍事工場で働くんだ。僕は、小学校を卒業したら、軍事工場内にある全寮制の中学校に通いながら、お姉ちゃんと一緒に働くんだ。中学生でも、働けば、給料がもらえるんだ。そうすれば、お母ちゃんとおじいちゃんに薬を買ってあげられる。ガンバル」ヒフミンは、すでに決めた気持ちを淡々と打ち明けた。

 

 亜紀にとっては、子供が家族のために働くということがまったくピンと来なかった。親が子供を育てるということは当たり前で、学校で勉強して、好き勝手に遊べるのが子供の普通の生活だと思い込んでいた。「あ、そう、将棋って、将棋盤と駒があれば、いつでもできるじゃない。働きながらでも、将棋、指せばいいじゃない。やめることはないと思うんだけど」

 

 将棋は、働きながらでも、手軽に遊べるゲームと思っている亜紀は、将棋をやめる理由が今一つ理解できなかった。ヒフミンの得意な将棋の話で暗い空気をはねのけようと思ったが、ますます、ヒフミンの顔がしかめっ面になった。ヒフミンは、ガクンと首を折ると、ぼそりとつぶやいた。「もう決めたことなんだ。将棋は指さない。頭から将棋を消し去りたいんだ」亜紀には、ヒフミンにとっての将棋というものが今一つピンと来なかった。

 

 「将棋って、気軽にやれるゲームの一つじゃない。ヒフミンは、将棋が得意なんだし、友達と楽しく、気軽にやればいいと思うんだけど。そう、中学生になったら、寮生活するんでしょ。きっと、友達作りに役立つと思うよ。小学生チャンピョンの腕前を自慢すればいいじゃない。やめなくてもいいと思うんだけど」ヒフミンは、うなだれてじっと聞いていた。今の気持ちを誰もわかってくれないと思ったが、亜紀にだけはほんの少しでも分かってほしくなった。

 顔を持ち上げたヒフミンは、亜紀の顔をちょっと覗き見て窓から見える手の届かない青空を見つめつぶやいた。「亜紀ちゃんの言う通りだよ。将棋って、ちょっとした遊びだよな。でも、駒を動かし始めれば、もう、後戻りはできない。自分が勝か、相手が勝か、白黒がつくまで戦わなくちゃいけない。まったく、残酷なゲームだ。そんなゲームに夢中になるなんて、ほんと、バカだ。だから、奨励会は受験しない。闘う前から負け犬さ。でも、それでいいんだ。僕の人生なんだから」

 

 亜紀は、小学生チャンピョンのヒフミンが、奨励会を受験しないなんて、信じられなかった。試験に不合格だった時のことを恐れて受験しないのかとも思えたが、ガサツで気の強いヒフミンのことを思うと、それとは違う誰にも言えないような家庭の事情があるように思えた。「事情は分からないけど、受験しなよ。まだ4年生じゃない、今年がダメでも、来年受験すればいいじゃない。ヒフミンは、小学生チャンピョンなんだから、きっと合格するよ」

 

ヒフミンは、ゆっくり顔を左右に振り、しばらく寂しそうな表情で窓の外をぼんやり眺めていたが、か細い声で話を続けた。「いや、気持ちの問題さ。僕は、一生受験するつもりはない。プロになる夢も捨てた。将棋人生は、もう終わりだ。自分で決めたことだし。後悔はしていない。これでいいんだ」言い終えたヒフミンは、ガクンと首を折った。とっさに亜紀が声をかけようとしたとき、目頭からポトッと涙が落ちた。それを見て、一瞬言葉に詰まった。

 じっと耳を傾けていた亜紀だったが、ヒフミンの絶望はどこから来るのだろうかと不思議でならなかった。まだ4年生だし、受験のチャンスは、まだまだある。いったい全体、“もう、来年はない、もう、終わりだ”って、まったく言っている意味が分からなかった。ニコッと笑顔を作った亜紀は、ヒフミンを励まそうと明るい声でハッパをかけた。「ヒフミン、どうしてあきらめるの?どうして受験しないの?ヒフミンは、小学生チャンピョンよ。将棋の天才じゃない。きっと、合格すると思う。将棋バカの意地を見せなよ」

 

 ちょっとムカついたヒフミンは、きりっと目を吊り上げた。亜紀は、何もわかってないくせに、言いたいことを言いやがって、と心で叫んだ。所詮、金持ちには貧乏人の気持なんかわからない、としみじみ思った。「そうさ、ただの将棋バカだ。だから、将棋なんかやめる。これ以上、バカになったら、どうしようもないから。小学校を卒業したら、軍事工場でがむしゃらに働き、将来、立派な工場長になって見せる。これが、僕の夢さ」ヒフミンは、強がりの嘘を並べ立てた。

 

祖父に3歳から毎日指導を受け、4年生で小学生チャンピョンにまでなったヒフミンには、奨励会試験に合格するだけの実力が、十分にあった。でも、もし、受験して合格したなら、入院するお金もなくて、家で寝込んでいる母親を困らせることになるのではないかとヒフミンはひそかに思った。でも、もしかしたら、母親は、受験を勧めてくれるかもしれないと心の底ではほんの少し甘い期待をしていた。

春日信彦
作家:春日信彦
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