夢のネックレス

エレベーターで地下二階まで降りると正面左手方向に誰もいない静かな廊下を歩いて行った。しばらく歩くと患者名が表示されていない右側ドアの前でさやかは立ち止まった。さやかは、軽くコン、コン、と2回ノックして、ドアを静かに開いた。さやかの後に続きアンナが病室に足を踏み入れると、目の前には病室とは思えない帝国ホテルの一室と思わせるような豪華な個室が目に飛び込んできた。患者の枕元に立っていたドクターは、アンナに笑顔を見せると静かに部屋を出て行った。

 

王様が寝るような豪華なベッドでは、会長が静かに眠っていた。さやかが会長に声をかけた。「会長。会長。アンナをお連れしました」狸寝入りをしていた会長は、そっと瞼を開いた。さやかは、アンナと亜紀に声をかけた。「桂会長に、ご挨拶して」アンナが足を進めると亜紀はアンナの陰に隠れるように小さくなって歩いた。アンナは、久しぶりに会う会長の顔を覗き見て挨拶をした。「アンナです。ご容体はいかがですか?いろいろとご面倒見ていただき、感謝しています。なんのお礼もできず、恐縮しています。今日は、77歳のお誕生日ですね。おめでとうございます」

 

 アンナは亜紀を左横に呼び寄せると、アンナは、ピンクとグリーンが交差したチェック柄の包装紙に包まれた小箱を、亜紀は、黄色いリボンを結んだ円柱状に巻かれた画用紙を、会長がよく見えるように胸の高さまで持ち上げた。アンナと亜紀は、笑顔を作り誕生日ソングを歌った。「ハッピィバースデイ、トゥ~ユ~、ハッピィバースデイ ディア カイチョウ~、ハッピィバースデイ トゥ~ユ~」歌い終えると亜紀が小さな声で祝福した。「おじいちゃん、お誕生日おめでとう」

会長は、目じりを下げてニコッと笑顔を作り、うなずいた。「ありがとう。この子が亜紀ちゃんだね。どんなプレゼントだろう~ね~、プレゼントを見せておくれ」アンナは、病人でも食べられるようにと糸島牛乳を使った手作りのプリンを箱から取り出し見せた。亜紀は、一晩かけて描いたアンパンマンの絵を両手で持ち上げて見せた。絵の上部には、“アンパンマンになったおじいちゃん“と青のクレヨンで書かれてあった。

 

会長は、黙って二人のプレゼントに見入っていた。「ありがとう。生まれて初めてだよ。こんなに心のこもったプレゼントをいただくなんて。本当に、ありがとう」亜紀が描いた会長の顔が、まん丸のアンパンだったことに笑顔で尋ねた。「おじいちゃんに似ていないね。アンパンマンって、誰だい?」まったくアニメを見ない会長は、アンパンマンを知らなかった。

 

あきれた顔をした亜紀は、即座に答えた。「え、おじいちゃん、アンパンマン、知らないの?正義の味方よ。悪い奴らをやっつけるんだから。すっごく、強いんだから。亜紀、アンパンマン、大好き」亜紀は、あたかもアンパンマンが友達かのように自慢げに話した。目を輝かせた亜紀は、さらに声を張り上げて話し続けた。「おじいちゃん、元気になったら、公園で遊びましょ。ピースもスパイダーも風来坊も、おじいちゃんに会いたがってるんだから」

会長は、目を閉じて、小さくうなずいた。「亜紀ちゃんには、お友達がたくさんいて、よかったね。おじいちゃんには、敵はいても、お友達はいないんだ。亜紀ちゃんがうらやましいよ。それに、おじいちゃんを正義の味方と思ってくれたんだね。でも、おじいちゃんは、残念なことに、正義の味方じゃないんだよ。アンパンマンにやられる悪者の親分さ。戦争で使う機関銃や戦闘機やミサイルを作り、世界中の国家に売りさばく武器商人さ。がっかりさせて、ごめんよ」

 

アンナは、とっさに亜紀の口をふさいだ。会長は、静かに瞼を開くと話を続けた。「そう、気を使わなくともいい。事実は事実だ。亜紀ちゃん、おじいちゃんの夢は、愉快に遊ぶ子供たちを描くルノワールのような画家になりたかったんだ。でも、なれなかった。結局、どういうわけか、武器商人になってしまった。そして、多くの子供たちを殺してしまった。神様は、許してくれないだろう。きっと、地獄に落ちる」力尽きたかのように言い終えると静かに瞼を閉じた。

 

 アンナは、会長を怒らせてしまったと思い、顔が真っ青になった。亜紀も固まってしまった。さやかが、即座に話に割り込んだ。「会長、亜紀ちゃんは、早く元気になってほしいと、一晩かけて、一生懸命、描いたんです。上手に描けているじゃないですか。ほら、まん丸笑顔の会長って、チョ~かわいい」さやかは、クスクスっと笑った。会長も目じりから涙を流し、笑顔を作った。

さやかは、ぐったりとしてしまった会長を寝かせつけ、三人は静かに病室を出た。二人は、さやかと正面玄関で別れるとアンナは亜紀の手を引っ張り、病院から逃げるかのように小走りで駐車場に向かった。車に乗り込みハンドルを握りしめたアンナは、なんとなくほっとした。子供たちに優しいおじいちゃんと思い込んでいた亜紀は、おじいちゃんが武器商人の悪者と知って、少し、がっかりした。

 

                 夢のネックレス

 

 ヒフミンの姉、香子(キョウコ)は、ヒフミンの激変に困惑していた。7月末までの奨励会受験申込み期限が過ぎてからは、魂が抜けたような子ブタになっていた。毎日のように将棋を指していたヒフミンが、今では、将棋について一言もしゃべらなくなった。勉強机の上には必ず将棋盤と駒が置いてあったが、部屋のどこにも将棋盤と駒の姿はなかった。それまでは、時々、アマ2段の香子に相手を頼んでいたが、それもまったくなくなった。思い余って、香子は将棋の相手を申し出たが、やんない、とあっさり断られた。

 

 ヒフミンは、受験すれば必ず合格すると確信していた香子は、受験をしないヒフミンの気持ちがわからなかった。そのことで、若いころアマ竜王戦の福岡県代表になったことのある祖父の銀次に相談することにした。夕食後、銀次は、いつものようにちゃぶ台でじっとアマ竜王決勝戦の棋譜を見つめていた。「おじいちゃん、ちょっといい」銀次は、香子のマジな口調に驚き振り向いた。「なんだ。お小遣いなら、もうないぞ。薬代で、我が家は火の車だ。そのくらい、分かってるだろ」

春日信彦
作家:春日信彦
夢のネックレス
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