夢のネックレス

負け犬

 

 8月に入ると35度以上の猛暑が続き、全国では、6000人以上の人が熱中症で倒れ、病院に搬入された。例年の夏休みであれば、子供たちは、公園で遊んだり屋外プールで泳いだりしていたが、猛暑の今夏ばかりは、外出が危険な状況にあった。能天気でやんちゃなスパイダーでさえ、あまりの暑さに家から出ようとしなかった。亜紀は、冷房の効いた部屋でゲームをするより、公園で友達と一緒に遊びたかったが、心配性のアンナに外出を禁止されていた。

 

8月8日(月)“笑いの日”、亜紀が窓際でピースと戯れていると、36度の猛暑の中、頭のてっぺんに穴が開いた麦わら帽子をかぶり真っ黒に日焼けしたヒフミンが、植木の外から右手を大きく振って「オ~~イ」と挨拶した。友達と遊びたかった亜紀は、ベランダに飛び出し両手でピースを持ち上げ、ヒフミンを誘うようにピースをブラブラと左右に振った。びっくりして目を丸くしたピースは、「オモチャじゃないのよ」と叫んだが、亜紀の耳には届いていなかった。

 

ピースを見せられたヒフミンは、結婚したいほど好きなピースを今すぐ抱きしめたくて、ジャンプしながら両手を振り、玄関に向かって駆け足で突進していった。玄関のドアをドバッと勢いよく開くと、「コンチワ~」と大声を張り上げ、靴を脱ぎ散らかし、リビングに駆けて行った。キッチンで昼食の準備をしていたアンナは、突然現れたヒフミンにワオ~~と悲鳴を上げた。

 びっくり仰天したアンナに向かって「お邪魔しま~す」と言うや否やリビング東側にある階段をドタドタドタと2階へ駆け上がって行った。「アキチャ~~ン」と大声が廊下に響き渡ると亜紀に抱っこされているピースをめがけて部屋に飛び込んだ。「ヒフミン、落ち着きなよ。ピースは逃げやしないから」ムカついた亜紀は、ガサツなヒフミンの傍若無人をたしなめた。

 

「ピース、会いたかった~」ヒフミンは、亜紀に抱っこされたピースをグイッと奪い取り、ピースのホッペにチュ~とキスをした。汗びっしょりのランニングシャツで抱きしめられたピースは、その汗臭さに鼻がもぎれそうで、ニャ~~、ニャ~~と悲鳴を上げて顔を激しく左右に振った。ピースは、猫好きのヒフミンが嫌いではなかったが、手加減を知らないかわいがり方に苦痛を感じていた。

 

 あきれ返った亜紀は、脚の短い小さなピンクの丸椅子に腰かけ、ヒフミンを睨み付けた。「ちょっと、いつものことだけど、もう少し、静かにできないの。女子って、ガサツなのは、嫌いなのよ。聞いてるの?」ピースに心を奪われているヒフミンの耳は、耳栓をしているようなものだった。両腕でしっかり抱きしめられたピースは、息苦しくなり逃げ出したかったが、身動きできないほどに抱きしめられ、抱っこの拷問にじっと耐えていた。

 

 亜紀は、大声を張り上げた。「ヒフミン、ピースが嫌がってるじゃない。もっとやさしく、ダッコしてあげてよ」ついにピースも我慢が出来ず、独りよがりのヒフミンの左ほほにバシッと猫パンチを食らわせた。猫パンチを食らったヒフミンは、びっくりしてとっさに両腕を開いてしまった。突然落とされたピースであったが、忍者のごとく身をひるがえしフワッと着陸すると、捕まっては一大事と逃げるように部屋からピョンピョンと跳び出ていった。

 

 ガサツでバカなヒフミンと亜紀は心で笑って声をかけた。「死ぬほど猫が好きなのは、分かるんだけど、かわいがるのにも、手加減ってものがあるんじゃない。もっと、優しくかわいがってよ。ピースは、嫌がってるのよ。こんなことしてたら、ヒフミンの顔を見たとたん、逃げ出すようになるかもよ」ピースに逃げられがっかりした子ブタのヒフミンは、脚の短いホワイトの丸椅子にドスンと腰を落とした。

 

 ちょっとでも暇な時間がれば将棋を指す将棋バカのヒフミンが、このくそ暑い日の午前中から外で遊ぶなんて、もしかしたら、地震の前兆じゃないかと思った。いつもならば、亜紀の部屋に入ってくるなり、書棚の一番下に置いてある将棋盤と駒を持ち出してきて、亜紀の前にポンと置くのだったが、今日は、将棋を指す雰囲気がまったく見られなかった。いつもと違うヒフミンのことが気にかかり、ぼんやりと窓の外を眺めるヒフミンに声をかけた。「将棋する?」

 ヒフミンは、依然としてぼんやりと青空に浮かぶ綿菓子のような白い雲を見つめ、返事をしなかった。亜紀は、ますます心配になった。もしかして、家族に大変な何かがあったのではないかと思った。顔色を覗き見てもう一度声をかけた。「ヒフミン、将棋する?」今初めて声をかけられたかのようにハッとして、振り向くと返事した。「あ、将棋、もうやんない。将棋、やめたんだ」三度の飯より大好きな将棋をやめたと聞こえた亜紀は、自分の耳を疑った。

 

 「え~~、マジ、やめたの?どうして?どこか具合でも悪いの?」ヒフミンは、しばらく黙っていたが、唇を真一文字にすると自分の思いを告白する決意をした。「いや、病気じゃない。自分で決めたんだ。もう、一生、将棋の駒は握らない。小学校を卒業したら、軍事工場で働くんだ。もう決めたんだ」亜紀は、信じられない返事に何と言って答えていいか戸惑ってしまった。一呼吸おいて、聞き間違いでないかと確認した。「マジなの?小学校を卒業したら、働くって?」

 

 ヒフミンは、大きくうなずいた。「マジだとも。お姉ちゃんは、来年の春、中学校を卒業したら、軍事工場で働くんだ。僕は、小学校を卒業したら、軍事工場内にある全寮制の中学校に通いながら、お姉ちゃんと一緒に働くんだ。中学生でも、働けば、給料がもらえるんだ。そうすれば、お母ちゃんとおじいちゃんに薬を買ってあげられる。ガンバル」ヒフミンは、すでに決めた気持ちを淡々と打ち明けた。

 

サーファーヒカル
作家:春日信彦
夢のネックレス
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