天の川

これほど渋るのは、もしかすると金銭的なことではないか、とピンと来た美緒は、下宿代として毎月10万円を支払いますとマジな顔つきで申し出た。すると、下宿代10万円と聞いた陽子の気持ちが急変した。一瞬疑わしい顔つきをしたが、生命保険金が振り込まれたことを聞いていた陽子は、女優のような上品な笑顔でゆっくりうなずきながら、すっと立ちあがった。そして、あたかも、美緒の下宿部屋としてすでに準備していたかのようなそぶりで、一階の客間に案内した。

 

客間として使っていた一階の和室を下宿部屋として勧められた美緒だったが、ゆう子から英語を学びたいと同室を懇願した。ゆう子は、同室だと二人の関係に亀裂ができるのではないかと若干心配したが、逆に、その亀裂が功を奏して、お互いの自立を促すようにも思え、美緒の切なそうな顔にうなずいた。ゆう子と同じF大学を志望している美緒であったが、現在の成績では絶望的だった。このこともあり、ゆう子は、美緒の力になりたいという気持ちもあった。

 

ゆう子と同居ができるようになった美緒は、毎日が楽しそうであった。5時過ぎには帰ってくる美緒は、夕食の準備を手伝ったり、キッチンの掃除をしたりと、陽子の手足となって働いた。下宿代を支払ってくれるだけでなく、家事手伝いをしてくれる美緒をわが子のように思えて、陽子は、ゆう子と同じようにかわいがるようになった。また、父と二人暮らしだった美緒は、母親ができたようで、お手伝いをするのがうれしくてたまらなかった。

一方、グラドルのゆう子は、入学式の当日から、多くの男子から声をかけられ、今では、キャンパスクイーン扱いされていた。すでに、3人のボーイフレンドができ、毎日のようにデートに誘われていた。でも、なぜか、学生生活に充実感が持てなかった。というのも、教員を目指して大学に入学したものの、女優への夢をあきらめきれなかったからだ。一度、上京の思いを家族全員がそろった食事中に打ち明けようと思ったが、結局、口には出せなかった。

 

何度か、母親の機嫌がいいときに思い切って打ち明けようと思ったが、やはり、母親の顔を見ると気後れして言い出せなかった。入学して早々、突然退学して、かつてから誘われていた東京の芸能プロダクションに行くなどとは、自分ながら正気の沙汰ではないように思え、だんだんと落ち込むようになっていた。美緒にも相談したが、「まったくわかんない」とそっけなく軽くあしらわれた。英文学の講義を受けていてもうわの空で、アメリカ人講師スティーブのネイティブな朗読も子守唄のように右の耳から左の耳に素通りしていた。

 

だが、ゆう子には、大学に行く唯一の楽しみがあった。それは、イケメンスティーブ先生の流ちょうな発音を聞くことだった。入学してすぐに何人ものボーイフレンドはできたが、ちやほやしてくれたり、容姿をほめてくれる彼らと話していても、一向に楽しくなかった。ところが、スティーブの天使のような甘い声を聴いているだけで、心地よい気分になれた。

若干28歳のスティーブは、スタンフォード大学の比較文学博士課程を修了すると、日本文学の研究のため、昨年の11月にサンフランシスコから福岡にやってきた。イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、日本等における比較文学研究を言語学と宗教学の両面からアプローチしていたが、特に、キリスト教の影響を受けた欧米の文学と異なり、仏教の影響を受けた日本文学に関心を持った彼は、“仏教の美徳が生み出した日本文学”という斬新な論文を学生時代に発表し、マスメディアでも脚光を浴びていた。

 

スティーブは、日系アメリカ人で祖父は福岡県出身の日本人であった。原子物理学を研究していた祖父は、戦前に渡米し、カリフォルニア大学バークレー校で原子爆弾の研究開発に携わっていた。父親は、サンフランシスコで歯科医院を開業していたが、三男の彼は、祖父の影響を受けて日本文化に幼少のころから興味を持っていた。祖父から日本語を学ぶにつれて、さらに日本語に興味を抱いた彼は、ジュニアハイスクールのときから外語学院で日本語を学ぶようになった。

 

日本の大学の講師になった目的は、第一は、日本文化を体感すること第二は、方言と呼ばれる多様な日本語を学び、近代日本文学をより深く研究することだった。彼の日本語能力は、日本人と比較しても同等、それ以上で、英語と日本語両面における冗談を交えた講義は、学生たちに人気があった。飽きの来ない講義にしようとアメリカで起きている事件、アメリカの芸能界、アメリカの軍隊などについての話を講義に交え、ますます、彼の講義は人気を増し、今では、他校の聴講生も増えていた。

学習意欲をなくしてしまったゆう子であったが、スティーブ先生に会えることだけを楽しみにどうにか大学に通っていた。入学当初は、演劇部に入部する予定だったが、なぜか、部活に対する意欲もなくなり、帰宅部になっていた。バイトも土曜の家庭教師だけだった。でも、火曜と金曜のスティーブ先生のゼミには、必ず出席していた。ゼミでは、日本語で学生に話しかけ、学生生活についての話題も取り入れてくれた。

 

ゼミでは、テーマが与えられ、グループごとに分かれ、英語でのディスカッション形式で進められていた。7月のテーマは、将来の夢、やりたいこと、だった。各自約500文字程度にまとめ、発表するのであったが、ゆう子の頭には夢らしき将来の自分の姿は現れなかった。英語教師の夢も女優の夢も、書きかけのデッサンのようで、必死になって心のキャンパスに色鮮やかな夢を描こうと筆を動かしても、筆の跡には色は現れなかった。

 

デートに誘われない日は、図書館で時間をつぶし帰宅していた。静かな図書館の片隅で物思いにふけるひと時が、世間体の仮面を取り外せる唯一の時間となっていた。なぜか、その時だけは、宇宙遊泳をしているようで、心が癒され、あらゆるしがらみから解き放たれたような気持ちになれた。自分の未来を宇宙のキャンパスに描き始めると、スティーブ先生とそっくりな声の天使が、どこからともなく話しかけてきた。そして、天使との会話を楽しむようになった。

春日信彦
作家:春日信彦
天の川
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