小説「一休さんと野盗弥太」 (書き下ろし新作)

はあはあはあ、

一休は、激しく息が切れ、足がもつれていた。
隠れ住んでいる山中の庵から京に向かう途中の山道で、追っ手に追われていたのだ。

はあはあはあ、

追っ手の正体はわかっている。おそらくあの女、日野富子が差し向けた刺客の者たちだ。
もともと足利将軍家にとって、一休は邪魔者である。
さらに、最近の一休の、日野富子に対する口撃が激しさを増したことで、一休暗殺の危険性が増していたことは確かだった。
つまり、それが、今日であったに過ぎない。

はあはあはあはあ、

いかに、人生を達観している禅僧とは言え、当然、刀を振りかざす追っ手に追われるとなれば、命は惜しいわけで、一休は、まとわりつく袈裟、足を取る叢に、まろびころびつ、山道を駆けて駆けて駆けて逃げ続けた。胸が苦しくなり、足がもつれかける。しかし、大刀を振りかざした追っ手に追いつかれるということは、即、斬られ、死を迎えることを意味する。どんなに苦しくても、追いつかれるわけには行かない。

はあはあはあはあ。

 後ろを振り返る余裕はない。
しかし、後ろから、侍の防具や刀が鳴る音がする。それが近づいてくるような気もするし、そうでないような気もする。刺客は、身体を鍛えている者達だろうが、軽装とは言え、防具をつけ、大刀を下げているハンディは相当のものだ。だから、一休が逃げ切れる勝算がないわけではなかったが、なにしろ一休は、齢六十歳をとうに超えている。逃走が長引けば、それだけ不利だ。

 獣道のような山道を抜けて、ちょっとした空地に出たところで、とうとう力尽きた。
 
 はあはあはあはあはあ、
一休は、手を膝につき、立ち止まった。もう一歩も動くことができなかった
 追っ手は三人。追っ手のほうも、よほど追跡が大変だったのだろう、息が切れ、すぐに、一休を斬ることはできなかった。

「……おれを……斬るのか。……あの、女の手のものか?」
 息をつきながら、一休は言った。杖を握り締め直して、身構えた。
 追っ手たちは、何も答えなかった。
「武士ならば、堂々と名乗るのが、常道だろう。名乗れないのか、莫迦めらが!」
 一休は、そう毒づきながら、杖を振り回した。
 三人の追っ手は、息を整え、腰を落とし、じりじりと間合いを詰めてきた。
 絶体絶命。一休は、すでに、自分の命運を諦めていた。しかし、あの女の手のものにかかるのが忌々しかったので、せめて、一人くらいは、頭をかち割ってやりたかった。
 ついに、一人が、太刀を振りかぶり、襲いかかって来た。
 その一撃を、とっさに交わした。武士は、勢い余って、太刀を一休の後方の木に当て、突き刺してしまった。
 その瞬間、木立の上から、何者かが、どさりと落ちてきた。
「いててて、なにをしやがるんだ!」
落ちてきたものは、腰をさすりながら、悪態をついた。
 一同は、一瞬呆気に取られた。
「この木っ端野郎が、刀の使い方もわからねえのか!」
 落ちてきた男は、大柄で体格がよかったが、珍妙な格好をしていた。
 元は黄色だったのだろう薄汚れた女物の着物を短く切り、腰には麻縄。そして、大きな刀を下げていた。髪の毛も、総髪と言えば、聞こえがいいが、つまり、伸び放題伸ばした
髪を、これまた麻紐で束ねていた。そして、髭面、日によく焼けていた。
 その男が、なんだかうれしそうにニヤニヤしているのである。
「おい!坊主、見たところ、難儀しているようだな。よかったら、加勢してやるぞ。何文払う?」
「命さえ助けてくれたら、何文でも払うぞ。命あっての物種だ。」
 男は、しげしげと一休を見た。
「おい、大きく出たなあ。見たところ、そんなに銭を持ってはねえようだが、まあ、いいや。俺は、こういう、こそこそしている奴らがでえ嫌えなんだ。坊主に加勢するぜ!」
 そう言うやいなや、大刀を抜くと、先ほどの武士を背中から一太刀で浴びせ倒し、正面の武士二人に振り向きざま、懐から、何か光るものを取り出したかと思うと、目にも留まらぬ速さでそれを投げつけて、倒してしまった。ほんの一瞬、瞬きをする間もない早業だった。
飛び道具で倒された二人は、鉢金をつけていたのだが、男が投げつけた手裏剣は、見事にそれを外し、正確に、武士たちの眼球を射抜いていた。
 先の一人と合わせて、三人とも絶命はしていなかったが、三人とも痙攣をしていて、最早、行動不能。放っておけば、出血多量で死ぬか、野犬の餌食だろう。
「礼を言うぞ。」


「礼なんかいいや、銭だ、坊主!」
「今、懐には銭がない。京に托鉢に出かける途中だったからな。京に行けば、銭が入るゆえ、京まで行くか?」
「うまいこと言うな。お前、京まで、おれに護衛させようって腹だろ。」
 男は、そう言いながら、休みなく、倒した武士達の身体をまさぐって、金目のものを物色しはじめていた。
「ち!こいつは、刃こぼれしていやがら。木なんぞ切りつけやがって、なまくら野郎ばらが」
 一振りは諦めて、他の二人の二振りの刀を取り上げて、斜交いに背中に結びつけた。目に刺さった手裏剣を抜き、武士の着物で血を拭いながら、懐に収め、ついでに、男のしていた鉢金を奪い、自分の額に巻いた。
「どうだ、坊さん、似合ってるか?」
「おう、血がついていて、勇ましいのう。まるで、阿修羅天じゃ」
「なんだ、そりゃあ」男は、目を丸くした。阿修羅天を知らないのだろう。
「坊主は、この時分から、京に行くのか?」
「ああ、そのつもりだったが、時を食ってしまった。さて、どうしたものかのう。」
「それにな、坊主、おりゃあ、さっきから、この木の上で、昼寝をしていたんだが、どうやら、お前の追っ手は、これだけではないようだぞ。」
「なに?」
「木の上から見えた。あれは二の手の者達だな。もっと人数が多かったぞ。どうするんだ?」
「どうすればいい。お前、策があるようだな。」
「おれの隠れ家があるんだ。そこは、絶てえにみつからねえ。今晩は、そこに隠れて、やり過ごせばいい。連れてってやろうか?」
「うむ、それもいいだろう。よろしく頼む」
「何文払う」
「先ほどの働きと足して、五十文だ。」
「けえ、しけてやがるぜ。でもまあ、こじき坊主のお前には、それが精一杯だろうなあ、ついてきな。」

 時は室町時代。
後花園天皇の御世。時の将軍は、銀閣寺を作ったことで有名な八代将軍義政だった。

一休の母親についての詳細なことは不明なのだが、のちの研究者によれば、一休の母親は、ある公卿の出で、当時の後小松崎天皇の子、つまり、一休その人を身ごもったのだが、当時天皇家の簒奪を狙っていた三代義満の姦計を恐れて、御所より身を引き、嵯峨の民家に、隠棲して、一休を生み育てたのだという。
当然、一休は、義満にとって存在しては、いけない子であったので、天皇の血筋であることはついに証明されることなく、6歳の時に、強制的に禅宗に出家させられた。
爾来、
一休は、自身の生い立ちや母の不遇に激しい反感や憤りを感じながら、精神的に屈折し、複雑な精神構造を養いながら、禅僧として成長していったらしい。

二十代になったばかりの一休は、大津の禅寺で、華叟という師匠の元、禅の修業に励んでいたが、ある日、師の華叟の前に行き、「悟り」が開けた、と報告した。
悟りが開けるということを「大悟」といい、禅僧としては、一人前になる、位が上がるということを意味するのだ。
「はあ、見たところ、お前に大悟が開けたとは思われんが、どうじゃ?」と師・華叟が、問うと、一休は、「大悟など、どうでもいいことだ!」と答えたという。
その答えを聞いて、華叟は、ひざを打ち、「確かに、お前は、大悟を得たようだ。」と、大笑して、それを認めたという逸話がある。当時の禅宗の雰囲気、思想が伝わるエピソードだ。

中年期以降の一休は、当時の禅僧としては、かなり型破りの人物として有名だったらしい。
漢詩、書画、問答の名手であり、さまざまな名言、名書を残した、当代随一の知識人、文化人と言えたが、一方、厳格で、形式化しつつある、当時の禅宗の権力志向、形式主義には、激しく反発し、ぼろぼろの袈裟を纏い、共も連れず、ふらりと、町人の町をふらつき回り、辻で、町人達相手に説法をしたりした。
その時のエピソードが、また、残っている。
ある正月の京だった。また、その説法が、当時の京庶民にもわかるような型破りなものだったおかげで、面白い禅僧・一休の名は、京都やその近辺に広く知られることになった。
のちのち、一休が亡くなって、300年もしてから一休さんを主人公にした一休噺という絵読み本が、大ヒットしたことは、こんな一休の後年の言動に下地があるのだが、大部分は、江戸庶民受けを狙った創作であった。


暗くなりかけた、山道を行き、男の棲み家にたどり着いた頃は、もう真っ暗だった。
男の棲み家は、崖の中腹に自然に開いた横穴で、男は、木々で、巧妙にそこを隠していた。
男一人が、やっと潜れるような狭い入り口を抜けると、中は、意外と広かった。
 男は、手馴れたふうで、中央の薪の火を熾すと、穴の中は、明るく、暖かくなった。
 「この洞の奥に、竪穴があってな、煙は、皆そこに流れて行っちまう。穴の下は、一段低くなっていてな、雨が降っても、底にたまるんで、ここは濡れねえんだ」
「なかなかのもんじゃのう」と一休さんが感心すると、男は、うれしそうな顔をした。
 そして、火で焙った干し肉を投げてよこした。
「あ、坊主は、殺生ものはくえないんだったなあ」
「いや、なんの」一休さんは、平気な顔で、もらった干し肉を食いちぎり始めた。
 男は、感心した顔で、一休さんの様子を眺めていたが、やがて、面白そうに笑い始めた。
「なにか、わしが飯を食らうのが、そんなに面白いか?」
「いや、うまそうに食うからよお」
「腹が減っているのだ」
「そうか、じゃあ、たらふく食えよ。こいつは、……まあ、只でいいや」
「山から獲ってきたものだろう。イノシシに銭でも払ったのか、お前は。」
「ふん。抜かしやがらあ。おれの名前は、弥太っていうんだ。坊主は?」
「おれか、おれは、一休。一休宗純と呼ばれている。」
「一休?また、ふざけた名めえだな。どう書くんだ?」
「書くって、おまえ、字が書けるのか?」
「うんにゃ、書けねえよ。でも、いいじゃねえか、聞いても」
「ああ、いいだろう。おれの名前はな、ひとやすみ、と書く。一休みと書いて、一休だ。」
「ひとやすみ、か、それはおもしれえ名めえだなあ、乞食坊主らしいや」
「たしかに、おれは、乞食坊主じゃ。では、おまえはなんじゃ?」
「おれか、おれは、そのう、侍だ。いや、侍というより、」
「野盗か?子分はいないのか?」
「この間までいたが、この前、いなくなっちまった。」
「死んだのか?」
「いや、わからねえ。ある朝、出てったまま、行方知れずだ。もう戻ってこねえ。どこかでやられちまったか、野垂れ死んだか」
 それから、二人で黙って、肉を食った。
「見たところ、おまえ、武芸のたしなみがあるようだが、どこで覚えた。もとは、武士だったのか」
「おうよ。おれの先祖は、源の武士だったのよ。」
「そうかそうか、武士だったのか。さぞや、身分の高い武家だったのだろうなあ」
「そうよ、世が世なら、俺は、征夷大将軍だったんだ。ははは」
 一休さんも釣られて笑った。
「それは嘘だ」
「嘘?」
「俺は、山に捨てられてたみなし児だったらしい。覚えちゃいないがな。それを親方が拾って育ててくれた。親方は、平家の落ち武者の家の出だったらしい、剣や弓、手裏剣など、いろいろな技を仕込んでくれたが、だいぶ前に、瘧に罹って死んじまった。」
「ほう、そうか、それで、おまえは強いのか」
「ああ、おれは強い。それに、おれは、運がいいのさ。普通なら、山に捨てられてた時に、山犬に食われて死んじまってたはずだからな。おれは、運がいい男なんだ。乞食坊主は?なんで、乞食坊主なんかになっちまったんだい?」
「ああ、おれも運がよかった。おれは、ひとつ間違っていたら、ミカドになっていたんだ。ミカドにならないで、このような乞食坊主になれた。だから、どこに出かけるのも、何を言うのも、何をするのも、気ままに暮らせる。肉だって食らうことができる!」
「そりゃあ、まずいだろ、坊主なんだから」
「なに、かまわんのだ。おれは」
「ははは、そりゃあそうだ。ミカドになりそこなった、えら~い坊さんだもんな、誰も文句なんぞ言いやしないはずだ」
 弥太は、一休さんの話を全く信用しなかった。
二人は、そんな冗談を言い合って、やがて、火の近くで、眠った。

翌朝、日が昇る前に、二人は、洞穴を出て、京に向かった。
 京までは約三里。急げば昼前には到着する道のりだ。しかし、案内役の弥太は、なぜかブラブラと歩いて、途中、実っているみかんなどをもいで食いながら歩いた。
「なぜブラブラしているのだ」と一休が聞くと、「おれは、せかされるのが嫌いなんだ」と弥太は答えた。
「それに、京に行ったら、おまえ、とっつかまって、殺されちまうんじゃないのか?」
「ない。京の街中では、奴バラも手は出せない」
「なぜだ?」
「だから、言うただろ。おれは、ミカドの血筋ゆえ、将軍も、表立っては手を出せないのだ」
「へ、抜かすぜ。まあ、いいや。いざとなって、勝ち目がないとなったら、おれは、逃げるぜ!おれをアテにすんなよ」
「ああ。しかし、それでは、おまえ、駄賃を取りそこなうことになるぞ」
「しかたねえ。命あっての物種だ。」
弥太は、昨日の一休の言葉を真似た。

 道中、何事もなく、二人は、昼前に、無事、京の町に着いた。
「さあ、着いたぜ。銭は、どこにあるんだ」
「そう急くな。おれも急かされるのは嫌いなんだ」
 今度は、一休が、弥太を真似た。
そして、大店が並んでいる通りに入り、しばらく物色している体だったが、やがて、ここだ、と目をつけた店の前に立ち、「待っておれ」と言い残し、すたすたと中に入っていった。
訳のわからぬまま、店の外で待っていると、小半刻して、一休が戻ってきた。
一休は、何も言わず、懐から、紐に通した銅銭の束を取り出し、弥太に渡した。
 弥太は、一瞬呆気に取られて、それから、銭を数えようとしたが、一休に止められた。「百文はある。懐に入れとけ!」
「坊主、こりゃあ、一体どうしたんだ!」
 一休は、答えなかった。
「くすねてきたのか?それとも腕っ伏しでか?こんな銭、見たこともないぞ」
 一休さんは、少し胸を張った。
「経をな、唱えて聞かせたのじゃ。字を書くこともある。」
「はあ?」
 しばらく、二人で黙って歩いた。
「はあ?」
 弥太は、なぜか、腹を立てたようだった。
「はああ?」
「うるさいぞ。静かに歩け」
 そして、また、別の店に入っていって、また、帰ってきた。
 今度は、何もよこさなかった。
「おい、弥太」
「なんだ」
「酒を買っていくぞ。酒を運べ」
「やい、坊主!」
「なんだ、弥太」
「おれは、おまえの家来ではないぞ!」
「酒だ。酒を呑みたくないのか」
「いや、そんなこたあねえけども」
「じゃあ、運べ。銭はおれが出す。おまえは酒を運ぶ。それでいいではないか」
「あ、ああ、まあ、そうだがな」
 弥太は黙った。
 一休は、慣れた様子で、一軒の酒屋に入っていった。しばらくすると、酒屋の小僧が、酒甕に油紙で封をして、縄で縛ったものを、大事そうに抱えて出てきて、弥太に渡した。

 当時、室町時代と言えば、一応、社会が安定し、貨幣経済が発達してきた時代でもあった。それは、室町幕府になって、おもに、三代将軍、足利義満が、本格化した、対中国貿易の成果だった。当時の大国、明に臣下の礼を取った義満は、多くの貢物の見返りに、大量の明銭を得、やがて、それが公定貨幣として流通し、それによって貨幣経済が発達したからだ。なぜ、自国の自前の通貨ではなく、外貨に頼ったのか?良好な貨幣を均一な品質で、大量に、鋳造する技術は、相当先進的なもので、日本では、なかなか良質なものができなかったせいもある。さらに、もうひとつの理由としては、農業技術の発達と新田開発により、米等の収穫量が上がり、非農業の職業が成り立つような経済的背景が整ってきたこともある。それにより、酒、着物、髪飾りなどの装飾品、刀剣や武具、陶器、鉄器、油などを中心に扱う商工業が成立してきた。それは、主に、富裕な貴族、有力な武士などを相手にしたものだったが、農作物や干魚などを生産者が引き売りをしたり、初期の市座が出来るなど、この、中国から大量に入ってきた明銭などを媒介にして、貴族からの需要に応える形で銭が出回るようになり、それにしたがって、大量の銭を蓄える商人などが誕生しつつあった。さらに、貨幣経済の発達は、嗜好品の製造産業などの発達も促す。鍛冶、陶器づくり、細工物、酒造など、専門的な職工など多彩な専門職も生まれて来たのが、この時代だったのだ。

 一休は、帰り際、また、途中の大百姓の家に入っていき、今度は、野菜を抱えて戻ってきた。
「ほれ。」今度は、くどくどと言わずに、弥太にそれを持たせた。
「やい、坊主!」
「なんだ、弥太」
「おれは、おまえの家来になった覚えはない、と言ったはずだ」
「当たり前だ。おれも、野盗など、家来に持った覚えはない。」
「おれはな、誰の指図も受けんのだ。何ごとも、己で決める」
「ああ、そのようだな、だから、今、おれは、おまえに、野菜を持てとは、言わなかったぞ。おまえが、己で、進んで、野菜を受け取ったのだ」
「うむむ」
「何事も、自分で決めればよかろう。それとも、荷が重くて、音を上げたのか?」
「何を戯けたことを。このおれ様が、これしきの荷で音を上げるはずがなかろう。軽すぎて、体が浮きそうじゃ」
「それならば、結構。」
 そう言って、一休は、また、後ろも見ずに歩き始めた。
 日が落ちる前に、庵についた。
 昨日帰って来なかった一休の身を案じた弟子や小僧達が大騒ぎしたが、一休は、「うるさい!」と言ったきり、あとは何も言わず、足を拭い、上に上がってしまった。

「いかん、灯明の油を忘れておった。」
 当時の一休の私邸とも言える庵は、さほど大きなものでも、豪華なものでもなかったが、洞穴暮らしの弥太には、やはり勝手が違うのか、板の間の上で窮屈そうだった。
「まあ、今宵は、月も明るい。月見酒としよう。いいな、大将」
 小僧が酒の支度をし、粗末だが、酒のアテもいくらか運んできた。
「呑め!」と言ってから、一休は、口を押さえた。
「いや、気が向いたら、一献呑めばよかろう。大将には、指図は禁物じゃったな」
「ふん!」弥太は強がってみせたが、やはり、居心地が悪そうだった。
 しかし、勧められて呑むうちに、すっかり気分がよくなって唄なども出るようになった。
 こういうふうに、一般人が酒を、大量に呑めるようになったのも、この時代からである。
 貨幣経済の発達で、造り酒屋を業とする店が生まれ、銭さえ出せば、いくらでも酒が手に入るようになったのだ。
 特に、公卿、上級武家など、銭を持つ、裕福な階級の多くは、それこそ、溺れるように酒を呑みはじめた。

「なんの唄じゃ、大将軍」
「知らん。おれの親方が唄っていたもんじゃ」
「察するところ、平家の唄じゃなあ。恨みの唄じゃ。おまえの言うことは、本当なのかもしれんのう」
「おれは、生まれてこの方、嘘をついたことはねえ。嘘をつく知恵がねえんだ。」
そうして、また、酒をあおるようにして呑んだ。
「しかし、坊主、禅寺では、酒も禁物ではねえのか?」
「ああ、そうらしいな。しかし、おれはいいのだ。」
「ふん」
「獣も食らうし、オンナもな」
 弥太は、目を細めた。
「おい、坊主!」
「なんだ」
「おめえは、嘘つきだな。坊主というのも嘘だろう」
「なんでもよかろう。おれとおまえが、命ながらえて、こうして、酒を呑み、肴を食っておる。おれが何者でも、坊主だろうがあるまいが、どうでもいいことじゃ。おまえの目の前にある酒は酒で、目の前におるおれがおれじゃ。」
 弥太は酔眼で、しばらく考え込んでいた。
「ふ~ん。おまえ、やっぱり坊主かもしれんなあ。おれと違って、口がうまい」

 そのあと、二人は、しどとに酒を呑み、弥太は、生まれてはじめて、部屋の布団の上で寝させられたが、慣れないことゆえ、あとで、どうにも息苦しくなり、夜半、そっと抜け出して、庭で寝なおした。

翌朝、やや遅く、一休が目を覚ますと、弥太の姿は、すでに消えていた。
「なんじゃ、もう居なくなったのか。」一休は一人ごちた。


 一休禅師は、足利義政とその妻、日野富子の仇敵だった。
 もともと、一休は、その出生から、足利将軍家とは因縁があった。
 一休の母親は、その名前も定かでない。なぜなら、一休禅師が、確かに、天皇家の血筋であるということが判明すれば、当時の将軍、三代足利義満にとって、非常に都合が悪かったからだ。
 義満は、当時、足利家の圧倒的な軍事力を背景に、野望を抱いていた。それは、天皇家の簒奪。
ここで、少し、足利将軍家の話を整理しておこう。
足利尊氏は、正史のとおり、滅亡した鎌倉幕府に替わり、天皇より征夷大将軍を拝命し、室町幕府を開いた。実質、天下は、足利氏が治めた訳だが、天皇を中心とした公卿の支配構造は、まだ、名目上の権威を残していた。名目上の権威などと言うと、何か実質がないもののように思われるかもしれないが、そうでもない。いかに、将軍家とは言え、当時は、封建時代。諸邦に有力な武士が領地を持ち、互いに勢力を争っている現状である。その中で、最も強力な軍事力を有する足利家が、天皇家からお墨付きをいただき、法度などの制定権を持つ幕府を開いたに過ぎない。であるから、室町幕府は絶対的な支配力を持つわけではなく、諸邦の豪族、武士の微妙なパワーバランスの中で成り立っている権力に過ぎないわけだ。一見、磐石な権力を握ったかに見える足利幕府でも、そうそう安心できるわけではない。そのパワーバランスを変化させるのは、つまり、天皇家を中心とした公卿たちの信託の変更である。幕府の支配者、足利家ですら、正式には、天皇家の警備隊長に過ぎない。
 しかし、三代足利義満の時代は、南北朝分裂の天皇家の混乱状態が、まだくすぶっており、それに乗じて、武力を持つ、足利将軍家の権力が安定、充実、最高潮に高まった時であり、義満は、それを背景に、自分の権力を一気に伸長し、天皇家をも支配しようという野望を持った。義満は、露骨な政略結婚、政治的圧力を駆使して、自分の娘を天皇に嫁がせ、幼い天皇の岳父に納まった。
 
その過程の中で、一休の母は、侍女の身で、時の天皇の子、一休を身ごもった。
 母親は、身の危険を察し、自ら御所を離れ、嵯峨の里で人知れず一休を産み育てた。
 多くの関係者が、一休の出自を知りながら、それが公にされることはなかった。
 6歳になったとき、一休は、強制的に禅寺に出家させられた。
 しかし、この処置は、むしろ、一休にとっては、幸運だったかもしれない。
 天皇の血筋であることが公になり、俗世にあり続けるということは、即、一休が、天皇家の後継者争いの渦の中に入ることを意味する。幼く、強力な後ろ盾もない一休が、無事に成人できる確率はきわめて低い。毒殺、暗殺、命を脅かす種は尽きない。まして、一休は、帝さえも恐れる天下人、足利義満にとって、きわめて都合の悪い存在なのだ。
 こうして、一休は、自分の意思とは関係なく、強制的に禅僧の道を歩まされることになった。やがて、一休を阻み、一休の運命を捻じ曲げたとも言える、義満は、野望の途中で、病死した。
 それは、一休が十五歳の少年僧の時だった。
 義満の死により、一休が命をとられる危険は、ひとまず遠のいたと言えた。
 一休は、その生い立ちのせいもあり、その後の生涯を、反権威反権力の高僧として、独特の活動、生活をして送ることになる。

一休が、まず、一番に憎んだのは、形式的な戒律だった。いや、正確に言うと、形式的に戒律を守ることで、僧としての徳を積んでいる、と得心する人間の卑しさを激しく否定した。
一休の師は、華叟と言って、謹厳な赤貧の僧だったが、一休は、義満が倒れたのち、義満の命によって、半強制的に入れられていた(つまり監視されていた)京の大寺を出て、琵琶湖河畔の華叟住持の寺に頼み込んで、弟子として再出発した。

 この時のエピソードが残っている、
 身一つで、華叟の寺に入門の願い出に訪れた一休は、華叟の手厳しい拒絶を受けた。
 寺社の庭先の砂利の上に、土下座をして頼むのだが、華叟は、一休に一瞥をすることもなく、無視した。
 朝から晩まで、呑まず食わず、その姿勢で何時間も、入門を乞うのは、それだけで、非常な苦行なのだが、若き日の一休は、それを三日三晩続けたという。夜は、琵琶湖のほとりに打ち捨てられている小船の中で眠り、また、翌朝、土下座をして、入門を乞うた。
 四日目の朝、土下座を続ける一休の姿を見て、華叟は、とうとう声を荒げた。
「おい、この、目障りな奴を、たたき出すのだ!」
 それを受けて、寺の弟子たち、小僧たちが、一休さんに水を浴びせ、背中を棍棒で散々に打ち据えたという。その時、青年僧一休は、亀のように、身をすくめたまま、ひたすらその打撃に耐え抜いた。
 とうとう、華叟の方が根負けする形で、入門を許すことになったという。
 このエピソードは、単なる、一休の根性物語という話ではない。
 まず、身一つとは言え、天皇家の血筋であることが暗黙のうちに知られている一休を
華叟が、拒絶し、ましてや、打撃まで加えた、ということに驚く。
 いかに、世俗の価値観とは一線を画した、禅寺とはいえ、この覚悟は、相当のものである。打たれるほうもそうだが、打つほうにも、もっと強い覚悟がいる。それを躊躇なく実行できる華叟だからこそ、一休が、師と見込み、心酔したのだろう。
 反権力、反形式主義。これが、一休が、禅の世界に求めた最も大事な原理原則である。
 そんな一休の目で見ると、京の、権力者たちをスポンサーに持ち、奢侈に耽る大寺は、いくら、外見を整えたとしても、それは、似非である。
 その点、京から離れ、琵琶湖のほとりに構えられた華叟の寺は、公卿や有力武士にスポンサーを求めず、もっぱら、琵琶湖の水運や漁業で財を成した商人や労働者からの寄進に経済的基盤を置いていた。が、しかし、当時の琵琶湖商人たちは、急成長であったがために、現世の利益確保に関心が集まっており、信心が薄かった。寄進、喜捨は、思うに任せず、華叟の寺は、絵に描いたような貧乏寺で、日々の食事にも事欠く有様だった。
 若き日の一休は、しかし、そんな困難な状況に置いても、むしろ、それを楽しむように、師華叟の世話をしながら、たびたび京の街に出て、におい袋を作る手内職などをして、金を稼いだ。
 自らの、出自を全否定されて、真の禅宗への道を指し示された一休は、迷いがなくなったのだろう。独特のスタイルで、一途に修行の道を歩んだのである。
 そして、時が経ち、一休は、壮年を過ぎ、破天荒ながら、徳の高い名僧として尊敬を集める存在となっていた。一休の書画、漢詩も大いにもてはやされた。

一休の前から、弥太が消えて、三月が経った。
 その間、気塞ぎな長い梅雨があり、開けても、気温が上がらず、冷夏となった。
 現代でも、冷夏は、農業に大きな影響を与えるが、当時は、もっと深刻である。稲も作物も実らず、苛酷な徴税も相まって、特に、百姓に、餓死者が、ばたばたと出た。
 もちろん、百姓だけではない。百姓は、当時の社会構造においては、富を生み出す唯一のインフラと言えた。この百姓たちが、ばたばたと倒れてしまえば、当然社会全体に支障をきたす。京には、田畑を捨てて、流れ込んでくる、乞食、流民があふれ、治安は悪化。さらに、衛生環境の悪化も手伝って、疫病がはやりだしていた。
 さらに、社会不安は、多くの騒乱を生み、京の都は、たびたび戦火に包まれた。

一休が、京の寺を捨てて、この山奥の庵に引っ込んだのも、その難から逃れるためだったのだ。
「弥太も死んだのだろうか?」一休は、時々、そんなことを案じたが、口には出さなかった。 
 都市、農村の崩壊は、もちろん、世相の荒廃をも生む。力のないものは、餓死したり、病死したりしたが、力のあるものの中には、盗み、強盗、人を殺して、金品を強奪しても生き抜こうとする輩も多く現われた。
 一休と出会った弥太も、そんな野盗の一人だった。
 野盗どもは、弥太のように、単身で人を襲う者も多かったが、中には、一族郎党で徒党を組み、正規の軍隊そのままに、武具を備え、集団的な戦法で戦うものもあった。また、最初は、無法者の野盗集団であったが、やがて、権力を定着させ、公卿から、守護職のお墨付きをもらう者までいた。まあ、つまり、武士と野盗との違いなどというものは、当時では、そのような程度なものだった。

 当時の世相については、もうひとつ、理解しておきたいことがある。それは、一休のいる仏僧の世界のことである。

 室町時代の支配層は、大きく言って、三つあった。
 一つは、天皇家を頂点とする公卿の支配。これは、平安時代に確立された律令体制に基づく官僚体制、統治体制に基づいており、これが正式には、日本全体の支配の構造だった。
しかし、その経済的な基盤となるべき荘園の管理権を公卿の下部組織である国司から、守護大名に奪われる事態が進んでいた。つまり、多くの公家、天皇家さえも、次々と徴税権を武家に奪われていく。これは、公家の経済的基盤の喪失を意味する。天皇=公卿体制は、権威は保ちつつも、衰退して行く過程にあった。
 そして、もう一つは、公卿から、全国の荘園や領地の徴税権を奪う形で、勢力をつけた武士集団。初期は名目上、公卿達の作った律令体制の中で、一種の用心棒、警備員といった地位に甘んじていたが、実質は、支配層の主役に躍り出た守護大名集団である。この猛々しい武力集団たちは、各地にそれぞれ領地を持ち、互いに拮抗状態にあったが、その中でも、最も軍事力に優れた大名が、天皇より、征夷大将軍という肩書きを拝命することにより、全国の守護大名に号令を出せる形で、幕府を開いた。だから、天下人と言っても、今で言う中央集権的な政府というよりも、むしろ、最も強大な武力を有する最大実力者という程度のもので、全国の守護大名に号令して、全て言うことを聞かせるという立場はまだ、確立できていなかった。

 さて、最後は、寺社、つまり、僧の世界である。
 この僧達も、一種の支配者集団として、確立していた。
 いまでこそ、寺社仏閣というのは、古色蒼然とした静的なものとして、捉えられているが、当時の寺社、特に、仏教というものは、いわゆる先進技術、科学、医療,社会制度など、世の中のあらゆる面で、優れたノウハウを、研究、提供、開発、啓蒙する機関として活発に機能していた。また、社会的には、天皇の律令制、武家の領地からも、超然とした立場を有している独自の支配層だった。これは、そもそも、古の平城京時代、仏教の日本本格デビュー時から始まる。日本に、仏教を公式に定着させたのは、吉備真備。そして、吉備真備がお膳立てする形で登場した渡来僧・鑑真によって、日本における仏教の地位は確立する。時代は、さかのぼるが、当時の朝廷は、政治、社会、あらゆる面で行き詰まりをみせており、その打開策として、超先進国・中国より渡来した最新の仏教の思想、技術、ノウハウを積極的に採り入れる国策を取った。つまり、神仏混交である。これが、今の日本人が、複数の宗教行事を抵抗なく採り入れる精神的な背景になっているとも言える。とともに、仏教界は、天皇制からも、武家からも、超然とした、一種の知的エリート集団としての特権的地位を得たのである。特権は、精神的なもの、制度的なものだけでなく、例えば、寺社の私有する私荘園の不介入権とか、私兵である僧兵による軍備権など、なまなましいものも含まれており、世俗的な意味でも、寺社は、大きな権力を有していた。

 天皇と平城京時代から続く律令制度を形式的集団的に守る官僚・公卿集団。武力により実質的に徴税権、経済を握る武家集団。そして、独自の先進的な思想、ノウハウ、技術を、武器に、公卿にも武家にも干渉されない独自の支配構造を確立する仏教僧界。その3つが当時の支配層だった。
 この3者の支配構造は、事後、信長の延暦寺焼き討ちなど、いろいろと変遷はあったが、結局、江戸時代まで守られた。

 一休は、その中で、一風変わった禅僧として知られていた。
 一休は、生涯無一物として、いつも、粗末な墨衣を着、家財を一切持たず、風そう水宿、つまり、居所を決めず、さまざまな場所に住み、気ままに出かけ、説法などを施していた、と言われている。禅宗の精神から言えば、むしろ、一休の行状のほうが、宗理に適っているように思われる。世にはばかるとは言え、皇統の血筋の一休なら、望めば、大寺の高位の僧正に収まり、多くの僧に仕えられながら、安楽に暮らすことも充分に可能だっただろうと思われるのだが、一休はそうはしなかった。ここに、一休の独特の人生観がある。
 一休には、世俗的な、権威、名誉というものに対して、終生、強い反発心が見られる。
 世が世なら、天皇になっていたかもしれない身だったのに、それを、物心つかないうちから、強制的に捨てさせられた。
それならば、いっそ自分は、世の世俗的な権威や名誉というものから徹底して超然とした禅の境地というものを究める道で、自己のアイデンティティというものを貫こう。という、一休独自の覚悟が彼の人生の各所に見られる。これは、一休が、少年から青年時代に、二度も、禁忌である自殺を試みたことからも窺える。捻じ曲げられた自分の運命を受け容れるのには、このような試練を経なければならなかったのだろう。
そんな一休であるから、世俗権力の代表、時の八代将軍義政、そして、その妻として、実権のない夫に代わって、権勢を恣にしていた日野富子に対する反駁は、熾烈なものだった。また、同門の弟弟子の禅僧で、上昇志向、権威志向が強かった養叟への批判も露骨で厳しかった。
後年、大寺の住持を任じられたこともあったが、一休は、それに甘んじることなく、ある意味、破戒的に、奔放に、しかし、何物も持たず、そして、それゆえ、それに縛られることなく、身分に捉われることなく、貴賎の別なく、禅の教えを説いて回った。
そのようなライフスタイルが、何百年かのち、当時の絵草子作者の創作を加えて「一休とんち噺」として、江戸庶民の人気者となる下地となったのだろう。
ヒロN
小説「一休さんと野盗弥太」 (書き下ろし新作)
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