はあはあはあ、
一休は、激しく息が切れ、足がもつれていた。
隠れ住んでいる山中の庵から京に向かう途中の山道で、追っ手に追われていたのだ。
はあはあはあ、
追っ手の正体はわかっている。おそらくあの女、日野富子が差し向けた刺客の者たちだ。
もともと足利将軍家にとって、一休は邪魔者である。
さらに、最近の一休の、日野富子に対する口撃が激しさを増したことで、一休暗殺の危険性が増していたことは確かだった。
つまり、それが、今日であったに過ぎない。
はあはあはあはあ、
いかに、人生を達観している禅僧とは言え、当然、刀を振りかざす追っ手に追われるとなれば、命は惜しいわけで、一休は、まとわりつく袈裟、足を取る叢に、まろびころびつ、山道を駆けて駆けて駆けて逃げ続けた。胸が苦しくなり、足がもつれかける。しかし、大刀を振りかざした追っ手に追いつかれるということは、即、斬られ、死を迎えることを意味する。どんなに苦しくても、追いつかれるわけには行かない。
はあはあはあはあ。
後ろを振り返る余裕はない。
しかし、後ろから、侍の防具や刀が鳴る音がする。それが近づいてくるような気もするし、そうでないような気もする。刺客は、身体を鍛えている者達だろうが、軽装とは言え、防具をつけ、大刀を下げているハンディは相当のものだ。だから、一休が逃げ切れる勝算がないわけではなかったが、なにしろ一休は、齢六十歳をとうに超えている。逃走が長引けば、それだけ不利だ。
獣道のような山道を抜けて、ちょっとした空地に出たところで、とうとう力尽きた。
はあはあはあはあはあ、
一休は、手を膝につき、立ち止まった。もう一歩も動くことができなかった
追っ手は三人。追っ手のほうも、よほど追跡が大変だったのだろう、息が切れ、すぐに、一休を斬ることはできなかった。
「……おれを……斬るのか。……あの、女の手のものか?」
息をつきながら、一休は言った。杖を握り締め直して、身構えた。
追っ手たちは、何も答えなかった。
「武士ならば、堂々と名乗るのが、常道だろう。名乗れないのか、莫迦めらが!」
一休は、そう毒づきながら、杖を振り回した。
三人の追っ手は、息を整え、腰を落とし、じりじりと間合いを詰めてきた。
絶体絶命。一休は、すでに、自分の命運を諦めていた。しかし、あの女の手のものにかかるのが忌々しかったので、せめて、一人くらいは、頭をかち割ってやりたかった。
ついに、一人が、太刀を振りかぶり、襲いかかって来た。
その一撃を、とっさに交わした。武士は、勢い余って、太刀を一休の後方の木に当て、突き刺してしまった。
その瞬間、木立の上から、何者かが、どさりと落ちてきた。
「いててて、なにをしやがるんだ!」
落ちてきたものは、腰をさすりながら、悪態をついた。
一同は、一瞬呆気に取られた。
「この木っ端野郎が、刀の使い方もわからねえのか!」
落ちてきた男は、大柄で体格がよかったが、珍妙な格好をしていた。
元は黄色だったのだろう薄汚れた女物の着物を短く切り、腰には麻縄。そして、大きな刀を下げていた。髪の毛も、総髪と言えば、聞こえがいいが、つまり、伸び放題伸ばした
髪を、これまた麻紐で束ねていた。そして、髭面、日によく焼けていた。
その男が、なんだかうれしそうにニヤニヤしているのである。
「おい!坊主、見たところ、難儀しているようだな。よかったら、加勢してやるぞ。何文払う?」
「命さえ助けてくれたら、何文でも払うぞ。命あっての物種だ。」
男は、しげしげと一休を見た。
「おい、大きく出たなあ。見たところ、そんなに銭を持ってはねえようだが、まあ、いいや。俺は、こういう、こそこそしている奴らがでえ嫌えなんだ。坊主に加勢するぜ!」
そう言うやいなや、大刀を抜くと、先ほどの武士を背中から一太刀で浴びせ倒し、正面の武士二人に振り向きざま、懐から、何か光るものを取り出したかと思うと、目にも留まらぬ速さでそれを投げつけて、倒してしまった。ほんの一瞬、瞬きをする間もない早業だった。
飛び道具で倒された二人は、鉢金をつけていたのだが、男が投げつけた手裏剣は、見事にそれを外し、正確に、武士たちの眼球を射抜いていた。
先の一人と合わせて、三人とも絶命はしていなかったが、三人とも痙攣をしていて、最早、行動不能。放っておけば、出血多量で死ぬか、野犬の餌食だろう。
「礼を言うぞ。」
「礼なんかいいや、銭だ、坊主!」
「今、懐には銭がない。京に托鉢に出かける途中だったからな。京に行けば、銭が入るゆえ、京まで行くか?」
「うまいこと言うな。お前、京まで、おれに護衛させようって腹だろ。」
男は、そう言いながら、休みなく、倒した武士達の身体をまさぐって、金目のものを物色しはじめていた。
「ち!こいつは、刃こぼれしていやがら。木なんぞ切りつけやがって、なまくら野郎ばらが」
一振りは諦めて、他の二人の二振りの刀を取り上げて、斜交いに背中に結びつけた。目に刺さった手裏剣を抜き、武士の着物で血を拭いながら、懐に収め、ついでに、男のしていた鉢金を奪い、自分の額に巻いた。
「どうだ、坊さん、似合ってるか?」
「おう、血がついていて、勇ましいのう。まるで、阿修羅天じゃ」
「なんだ、そりゃあ」男は、目を丸くした。阿修羅天を知らないのだろう。
「坊主は、この時分から、京に行くのか?」
「ああ、そのつもりだったが、時を食ってしまった。さて、どうしたものかのう。」
「それにな、坊主、おりゃあ、さっきから、この木の上で、昼寝をしていたんだが、どうやら、お前の追っ手は、これだけではないようだぞ。」
「なに?」
「木の上から見えた。あれは二の手の者達だな。もっと人数が多かったぞ。どうするんだ?」
「どうすればいい。お前、策があるようだな。」
「おれの隠れ家があるんだ。そこは、絶てえにみつからねえ。今晩は、そこに隠れて、やり過ごせばいい。連れてってやろうか?」
「うむ、それもいいだろう。よろしく頼む」
「何文払う」
「先ほどの働きと足して、五十文だ。」
「けえ、しけてやがるぜ。でもまあ、こじき坊主のお前には、それが精一杯だろうなあ、ついてきな。」
時は室町時代。
後花園天皇の御世。時の将軍は、銀閣寺を作ったことで有名な八代将軍義政だった。
一休の母親についての詳細なことは不明なのだが、のちの研究者によれば、一休の母親は、ある公卿の出で、当時の後小松崎天皇の子、つまり、一休その人を身ごもったのだが、当時天皇家の簒奪を狙っていた三代義満の姦計を恐れて、御所より身を引き、嵯峨の民家に、隠棲して、一休を生み育てたのだという。
当然、一休は、義満にとって存在しては、いけない子であったので、天皇の血筋であることはついに証明されることなく、6歳の時に、強制的に禅宗に出家させられた。
爾来、
一休は、自身の生い立ちや母の不遇に激しい反感や憤りを感じながら、精神的に屈折し、複雑な精神構造を養いながら、禅僧として成長していったらしい。
二十代になったばかりの一休は、大津の禅寺で、華叟という師匠の元、禅の修業に励んでいたが、ある日、師の華叟の前に行き、「悟り」が開けた、と報告した。
悟りが開けるということを「大悟」といい、禅僧としては、一人前になる、位が上がるということを意味するのだ。
「はあ、見たところ、お前に大悟が開けたとは思われんが、どうじゃ?」と師・華叟が、問うと、一休は、「大悟など、どうでもいいことだ!」と答えたという。
その答えを聞いて、華叟は、ひざを打ち、「確かに、お前は、大悟を得たようだ。」と、大笑して、それを認めたという逸話がある。当時の禅宗の雰囲気、思想が伝わるエピソードだ。
中年期以降の一休は、当時の禅僧としては、かなり型破りの人物として有名だったらしい。
漢詩、書画、問答の名手であり、さまざまな名言、名書を残した、当代随一の知識人、文化人と言えたが、一方、厳格で、形式化しつつある、当時の禅宗の権力志向、形式主義には、激しく反発し、ぼろぼろの袈裟を纏い、共も連れず、ふらりと、町人の町をふらつき回り、辻で、町人達相手に説法をしたりした。
その時のエピソードが、また、残っている。
ある正月の京だった。また、その説法が、当時の京庶民にもわかるような型破りなものだったおかげで、面白い禅僧・一休の名は、京都やその近辺に広く知られることになった。
のちのち、一休が亡くなって、300年もしてから一休さんを主人公にした一休噺という絵読み本が、大ヒットしたことは、こんな一休の後年の言動に下地があるのだが、大部分は、江戸庶民受けを狙った創作であった。
暗くなりかけた、山道を行き、男の棲み家にたどり着いた頃は、もう真っ暗だった。
男の棲み家は、崖の中腹に自然に開いた横穴で、男は、木々で、巧妙にそこを隠していた。
男一人が、やっと潜れるような狭い入り口を抜けると、中は、意外と広かった。
男は、手馴れたふうで、中央の薪の火を熾すと、穴の中は、明るく、暖かくなった。
「この洞の奥に、竪穴があってな、煙は、皆そこに流れて行っちまう。穴の下は、一段低くなっていてな、雨が降っても、底にたまるんで、ここは濡れねえんだ」
「なかなかのもんじゃのう」と一休さんが感心すると、男は、うれしそうな顔をした。
そして、火で焙った干し肉を投げてよこした。
「あ、坊主は、殺生ものはくえないんだったなあ」
「いや、なんの」一休さんは、平気な顔で、もらった干し肉を食いちぎり始めた。
男は、感心した顔で、一休さんの様子を眺めていたが、やがて、面白そうに笑い始めた。
「なにか、わしが飯を食らうのが、そんなに面白いか?」
「いや、うまそうに食うからよお」
「腹が減っているのだ」
「そうか、じゃあ、たらふく食えよ。こいつは、……まあ、只でいいや」
「山から獲ってきたものだろう。イノシシに銭でも払ったのか、お前は。」
「ふん。抜かしやがらあ。おれの名前は、弥太っていうんだ。坊主は?」
「おれか、おれは、一休。一休宗純と呼ばれている。」
「一休?また、ふざけた名めえだな。どう書くんだ?」
「書くって、おまえ、字が書けるのか?」
「うんにゃ、書けねえよ。でも、いいじゃねえか、聞いても」
「ああ、いいだろう。おれの名前はな、ひとやすみ、と書く。一休みと書いて、一休だ。」
「ひとやすみ、か、それはおもしれえ名めえだなあ、乞食坊主らしいや」
「たしかに、おれは、乞食坊主じゃ。では、おまえはなんじゃ?」
「おれか、おれは、そのう、侍だ。いや、侍というより、」
「野盗か?子分はいないのか?」
「この間までいたが、この前、いなくなっちまった。」
「死んだのか?」
「いや、わからねえ。ある朝、出てったまま、行方知れずだ。もう戻ってこねえ。どこかでやられちまったか、野垂れ死んだか」
それから、二人で黙って、肉を食った。
「見たところ、おまえ、武芸のたしなみがあるようだが、どこで覚えた。もとは、武士だったのか」
「おうよ。おれの先祖は、源の武士だったのよ。」
「そうかそうか、武士だったのか。さぞや、身分の高い武家だったのだろうなあ」
「そうよ、世が世なら、俺は、征夷大将軍だったんだ。ははは」
一休さんも釣られて笑った。
「それは嘘だ」
「嘘?」
「俺は、山に捨てられてたみなし児だったらしい。覚えちゃいないがな。それを親方が拾って育ててくれた。親方は、平家の落ち武者の家の出だったらしい、剣や弓、手裏剣など、いろいろな技を仕込んでくれたが、だいぶ前に、瘧に罹って死んじまった。」
「ほう、そうか、それで、おまえは強いのか」
「ああ、おれは強い。それに、おれは、運がいいのさ。普通なら、山に捨てられてた時に、山犬に食われて死んじまってたはずだからな。おれは、運がいい男なんだ。乞食坊主は?なんで、乞食坊主なんかになっちまったんだい?」
「ああ、おれも運がよかった。おれは、ひとつ間違っていたら、ミカドになっていたんだ。ミカドにならないで、このような乞食坊主になれた。だから、どこに出かけるのも、何を言うのも、何をするのも、気ままに暮らせる。肉だって食らうことができる!」
「そりゃあ、まずいだろ、坊主なんだから」
「なに、かまわんのだ。おれは」
「ははは、そりゃあそうだ。ミカドになりそこなった、えら~い坊さんだもんな、誰も文句なんぞ言いやしないはずだ」
弥太は、一休さんの話を全く信用しなかった。
二人は、そんな冗談を言い合って、やがて、火の近くで、眠った。