祭りのうた

第三章( 1 / 2 )

フランス式

 

Ⅲ naver まとめ 60年安保.jpg

 

<フランス式デモ>

 

次の日、俺たちは六甲へ登った。ケーブルに乗り、六甲の山頂に立った時、和子は俺の腕に自分の腕を絡ませてきた。リスが1匹、道を横切って林の中に消えた。


 瀬戸内の海は、かすかに淡路島を浮かべて、動きもなく横たわっていた。全てが静寂だった。風が渡っていくのが、木々の葉の音でわかる。

和子は、安心しきった顔を、無言の微笑で崩し、俺をみあげた。二人の間に、無言の了解があった。昨夜の二人の秘め事が、俺の思考を占領して離れなかった。けだるさが、失った下腹部のカタマリが、俺を安保から、デモから、そして佐久子から切りはなし、別世界へ、俺をいざなっているようだった。

わけのわからない愛おしさが、全身をつらぬいて走り、圧倒され、俺は和子に口づけをした。和子は激しくそれにこたえてきた。腕の中で和子は小さかった。車のこない脇道を選んで、和子と二人歩いた。風のこない山襞の林の中で、俺は腰をおろした。タバコを取りだして咥えた。

 

しばらく一人だけで立っていた和子は、ちょっと顔をしかめて、ぎこちなく、俺のそばに腰をおろした。和子の顔を見て、俺はタバコを地面に差し込み、和子を胸にいだいた。和子は、いたずらっぽく俺に笑ってみせた。

和子はチェックのシャツのボタンを一つはずして、俺に言った。「ほら」和子の肩から胸の斜面に、紫がかった赤いしるしが見えた。

なぜ人は、自己の存在した場に、その印を残したいと思うのだろう。机の上にナイフで削ったイニシャル、山頂の岩への落書きなど、自己の存在したことを確実に自己に記すために、それらを残すのだろうか。たゆたった時間の流れに、その刻みをつけるために。和子の白い胸の印も、昨夜の秘め事を確実にするために、俺が残した印なのであろうか。

昨夜以来、俺の和子に対する気持ちの中に、それまでの気持ちとは全く異質なものが存在し始めたのを感じた。その熱いものは、俺の意志を無視して、和子に傾こうとする。かすかな意志の抵抗を感じながらも、和子を抱きしめて、俺は林を見上げた。高い梢の葉が、光に揺らめいて見える。足元の神戸の街から、電車のひびきが、かろやかに、とおく、山肌をのぼってくる。馬酔木の白い花が、吹く風にさやいででいた。


 6月10日に全学連の主流は羽田で、ハガチー来日反対のデモをかけた。安保は、俺の世界から、少し離れたところを流れ続けていた。岸はアイク訪日の大きな花束として、安保を批准しようとしていた。ハガチーがヘリコプターによってデモ隊の中の車から救出された時、マッカーサー大使は、我々の安保闘争を、単に国際共産主義勢力による動乱と決め付け、岸内閣と口調を合わせた。

  

安保の自然承認の615日まで、我々の時間はもう短かった。自治会はその絶望的要素を押しやり、意識的に安保に取り組み続けていた。


 佐久子はあれ以後、俺たちの大学には姿を見せなかった。下平尾は身柄拘束のまま、道路交通法違反、公務執行妨害の疑いで起訴されていた。自治会室には、この安保闘争が激化して以来、新しい連中が入り込んでいた。彼らは下平尾の存在を知らず、俺たちを突き上げ、そしてファイトを燃やしていた。部屋には、6.15 ゼネストのポスターが作られ、扉と、壁と、そしてあらゆる平面をそれらが埋め尽くしていた。

 

和子は、あれ以来、自己の中に、俺への安堵を見出してか、明るく、落ち着をもってきた。遠くから俺に投げてくるその視線は、まろやかな、安定したものであった。
 ある怒りが溶けてしまって、俺は、けだるさが体のどこかに残っていた。まるで山あいの奔流のすぐそばの、静かに木の葉を浮かべる小さな淀みの中に、身をおいているかのように、安保の激流を見、そして、そのざわめきを聞いていた。


 あの時のいとおしさがふっと去って、和子を、昔の目で見ている自分発見して、ハッとすることがあった。しかし、その戸惑いは、和子の安心しきったまろやかな視線に、たゆたい、訂正され、いとおしさを取り戻そうとする心情に変わっていった。俺たちの共有する過去が、和子からその落ち着きを奪うことを、俺に禁じた。和子を愛しているのだと、自己に言い聞かせた。それのみが、あの行為と、突然、俺を襲う、制御しえない衝動的な愛おしさを正当化できるものだった。

 

自治会室を出て、俺は芝生の庭に出た。堺市との境である大和川までずっと続くキャンパスの端を、ブルドーザーが一台、校庭の盛り土を押しのけていた。そのエンジンの音が、変化しながら、俺のいるところまでひびいてきた。梅雨前の、これらの日々には珍しく、空は晴れあがって、ポプラがすくっと高く空へぬけていた。押さえつけていたものを振り除くように、俺は腕ふりまわした。不安定な心が、己の中にあるのを感じていた。

 

6月15日、その日、安保条約の自然承認を粉砕する第二波のゼネストが安保国民会議により、全国規模でうたれた。民間の組合も、その重い腰を上げ、この政治ストに参加した。大学は全学ストであった。教授会は全学ストを支持していた。校庭は多くの学生の波で埋まっていた。正門前に、自治会はバスを連ねた。大学の旗と安保反対の横断幕をはったバスは、学長や教授連を乗せて、続いて出発した。

 

第三章( 2 / 2 )

 

  俺は和子との付き合いに、芝居じみたものを感じるようになっていた。すべては、2人の間で約束されたかのように、俺には思えた。たゆたいの中に、やわらかくまつわりつく和子の視線からくるものに、さらに和子自身の中に、俺は、俺を閉じ込める不透明なかすみを見た。そして、その中に存在する自己に苛立ちを感じていた。

 俺は、腕を振り回したかった。そして、下平尾の飲み込まれた黒い波と壁にぶつかっていきたかった。そうした激しい肉体的行動のみが、このベールに包まれたような感覚の世界から、自分を解放する唯一の方法であように思われた。その奔流の中に、自己をおきたかった。苦痛と、怒りを、俺に取り戻したかった。俺はあの日以来、和子の肉体に触れてはいなかった。その肉体が与える、あの疎ましい無感覚の世界に、さらに取り込まれることが、嫌だったからだ。

 御堂筋側は、デモで埋まった。車は完全にストップし、広い通りはみんなが手に手を取って広がったフランス式デモのパレードだった。学長と教授連は、その先頭に立ち、無数のプラカードが、その上に上がった。「安保反対」「岸を倒せ」の声に、握られた人々の手が高く上がって波を打った。歌声が起こり、我々は歌った。警官たちは、通りの両側に間隔を置いて立って、俺たちを見ていた。

 シュプレヒコールの交換が、前から後ろかへ、そして右から左へと流れた。フランス式デモは整然と流れていった。この瞬間に、東京で、京都で、名古屋で、そして札幌で、このデモは流れているのだと俺は空見上げて思った。御堂筋の銀杏の木は、高く雄大にのび、その上空をヘリコプターが舞っていた。

こんなにも多くの人たちが、自分たちの意思を表現するために集まったのだ。俺達は、デモの脇に出て、我々を眺め、手をたたいている人に訴えた。

「僕たちと一緒に歩いてください。デモに参加してください。安保に反対してください」

幾人かが、我々の列に入り、我々の波はさらに大きくなった。共通の立場が我々を支え、我々に参加した人を勇気づけた。我々はさらに声を高めた。「安保反対」「アイクくるな」

 

俺はこの後華やかなパレードに、酔っていた。自由に体が動いた。軽い、そして感じられる心が、自分の中に戻ってくるのを感じた。動物的な行為の持つ暗さや、和子や、それらを含めた俺を取り巻くあの重さが、軽く、空へ歌声とともに舞い上がっていくように感じた。中之島から淀屋橋をすぎ、俺たちの流れは続いた。汗が額からしたたり、その汗に洗われた俺の肌は、空気を感じることができた。感覚が、自分が感じられるようになった。ぬるぬるとした液体に覆い尽くされていた肌が、俺のものへと変わっていった。 

 デモは南へと流れた。組合員の中には、子供を連れて来ているものもいた。主婦連も白いエプロン姿で列を作っていた。民青の連中も、我々に笑いかけ、手を振って歩いた。そして、市民も、いつか我々学生の列に、組合員の中に、遠い炭鉱からの支援のキャップライトの列に加わっていた。全てが完全に演出された大パレードであるかのようであった。 

黒い波は俺たちを襲わなかった。明るい陽の下に、大丸が近づき、高島屋が見えてきた。俺は叫んでいる自分を、歩てる自分を、手を振り上げている自分を、軽やかに感じていた。

第四章( 1 / 3 )

混乱と安らぎ

 

Ⅳ今宮戎駅.jpg

 

<今宮戎駅>

 

熱く、腫れぼったい額から鼻にかけて、俺は手を触れてみた。鈍い痛みが、俺の顔面を焼いていた。鼻の奥に、固まった血が残っているようだ。右の目は重く、思いっきりこじ開けるようにしなければ、視界は開けなかった。
 

佐久子の手を取って、俺は街灯の少ない南海線のガード下を、走るように南に向かっていた。佐久子の白いブラウスに、どろがつき、髪は乱れていた。

怒りが、胃袋から急激に突き上げてきた。唇をくいしばり、もれてくる喚きをおしころした。息は乱れている。後には、もう誰も追っては来なかった。

 夕暮れだったろうか、東大の女子学生の1人が、国会であの警官どもによって、虐殺されたニュースが、俺たちを激しく興奮させてさせたのは。

 整然としたフランス式の大パレードは難波に到着し、いつ終わるともしれぬ人の波を、高島屋の前で、俺たちは待ち受け、拍手と、シュプレヒコールの交換、歌声のうちに、彼らを迎えていた。夕闇の奥に御堂筋が続き、その後から人々がやってきた。プラカードを振り、体を上げ、歌を歌って。
 テレビのニュースは、ビアホールの俺たちを襲った。そのニュースに俺は唇をかみしめ、耳のあたりにさっと鳥肌が立った。こみ上げる感情が俺を圧倒していた。さっき流れ解散のあった高島屋前に、俺たちは駆けつけた。

 

みんなの目が血走っていた。目が光って、お互いの意志を通じ合った。
 俺たちの大学の旗がさっと、その中に立った。そして府大の旗も、それにならって立った。樺美智子が殺害されたという事実が、我々を強烈に捉えていた。仲間は、つぎつぎに集まってきた。
 俺は和子の手を振り切ってマイクをうばった。そして、ありったけの声を張り上げて訴えた。俺の胸に満ちてきて、その出口を失った怒りは、俺の声となってほとばしった。岸は許せなかった。自己の意志を捨て、いんちき岸を守る黒い波が許せなかった。人一人の生命を奪った彼らを、決して許せなかった。

 

皆が俺の言葉をわめいていた。

俺は、俺たちの言葉を叫んでいた。みんなが叫んでいた。共通の意志が、俺の言葉を奪った。「樺美智子を返せ!」「暴力警官追放!」「岸を倒せ!」「安保絶対反対!」

シュプレヒコールとワッショイの中に、俺たちは腕を組んでいた。

俺たちの波は次第に大きくなり、広場を押しつつみ、その怒りを訴えた。ジグザグが広場をうねっていた。カメラのフラッシュが俺たちをとらえた。俺は、顔を上げ、彼らを睨みつけていた。サイレンがけたたましく鳴っていた。


 皆は突き上げる激しい怒りに捕らえられていた。デモ大きくなっていた。ワッショイワッショイの声は、荒れ狂う地底から夜空に舞い上がっていった。暗くなった広場は、人の波の急流であった。

 

俺たちの波は、広場から道路に押し溢れて行った。ジグザグが、南外劇場から、高島屋に沿って続いた。警官のふく笛に、車は止まり、車の窓から無表情な顔がのぞいた。俺は熱くなっていた。一人の生命が、この安保反対闘争の中で失われたのだ。しかし彼は、それを無関係の表情で、平然とタバコくゆらせていた。我々の波は、その大型の車をおしつつんでいた。


 黒い波が、無届けデモに襲ってきたのは、その直後だった。身をかためた彼らは、俺たちにその厚い壁でおそってきた。俺たちの怒りは、樺美智子の生命を奪ったこの同類の犬どもを許しえなかった。俺たちは抵抗した。腕を振り回し、奴らを殴った。プラカードの棒を握って、黒い波のもつ警棒にうちかかった。足に、脛に痛みがあった。

 

世界が無統一に荒れ狂っていた。

彼らの目の中にも、怒りが芽生えてくるのがわかった。俺たちの怒りが、黒い波の怒りにぶつかった。悲鳴は不思議に、聞こえなかった。肉にぶつかる棒のたてる鈍い音。打ち掛かるときに発する、短い叫び。見える世界は、激しく流動をしていた。
 突然、鋭く熱い感覚が、俺の顔面をとらえた。鼻腔から、なまぬるい液体が湧き上がってきた。俺は、むやみに打ち掛かっていった。ヘルメットの1人の顔が、すぐ俺の目の前にあった。俺はその青黒い顔の側面を、思いっきり棒で殴った。その黒い姿は、横に倒れた。

 

その背後に、佐久子が頭を手にのせて、波の中にもまれていた。佐久子の手を奪い、俺は駆け出していた。暗い方へ向かって、黒い波に打ちかかり、そして走った。とらえて離さぬ手を殴り、大阪球場の横へと走った。幾人かが、俺と佐久子を追ってきた。俺は佐久子の手を握り、なまぬるいしたたりを顔に感じながら、ガード下を駆け抜けた。ぬるりとした棒を投げ出して走った。前の暗闇を頼りに、佐久子をせかせながら、手をひっぱって走った。

 もう誰も来ないようだ。ポケットからハンカチを出して、俺は、そっと額から鼻にかけて拭いてみた。鈍い痛みがおそい、ハンカチは固まりかけた血に汚れていた。佐久子の青白い顔が、俺の顔を見つめていた。佐久子の顔には、外傷は無いようであった。ブラウスの袖が破れ、すこし血がにじんでいた。


 黙って見つめ合ったまま、俺は佐久子に、手をさしだした。佐久子は、その手をしっかり握った。いつもの冷たい目は、その冷たさを失った代わりに、鋭く怒っていた。俺は、さっきのこみ上げる怒りの中に、さらに重いしこりが加わるのを感じた。唇をかみしめてしめていないと、静止もきかず、唸りがほとばしりそうでそうである。

 

俺たちは、小走りにガード下を進んだ。和子はどうしただろうと思った。今宮戎の駅の光が見えた。頭の上を電車がわめきながら走りすぎた。

 

第四章( 2 / 3 )

 粉浜の駅に降りるまで、電車の中で、俺は顔を伏せていた。唇のふるえが止まらなかった。佐久子が、気遣わしげに、俺の顔の傷を見ていた。その目には、ある光が宿っていた。単なる怒りの光ではないその中に、下平尾を見ているときの佐久子の目の光があった。俺の胃袋は、固くかたまり、怒りの外に、下腹部に熱いカタマリが生まれてきているのが感じた。

佐久子のアパートは、粉浜駅から左に降りて、少し暗い道を五分ほど行ったところにあった。その小さなアパートは、大きなケヤキの木の下にあった。


 「ここよ」
 佐久子はぽつんといって、俺を入り口に招き入れた。泥だらけの俺の靴を、佐久子は下駄箱に入れて、汚れた自分の赤いバックスキンの靴の紐を解いた。


 扉を開けて、佐久子は部屋に入っていった。俺は額に鈍い痛みを感じながら、廊下にいた。小さく箭内佐久子とあった。明かりをつけて、部屋を片付けているようだ。廊下の窓から、通天閣が遠くにゆらめいて見える。俺たちの逃げ惑った難波も、その空は鈍い赤い色映じている。風が、庭のケヤキの枝をゆすってすぎた。永い時間のようであった。俺はふつふつと燃え上がる怒りを、胃に、そして下腹部に感じながら、唇をかんだ。 

佐久子の部屋には、透明な、さわやかなにおいがあった。和子の部屋の、あの甘い匂いはなかった。佐久子は、部屋に入るとき、俺に手を貸してくれた。左の腕が、しびれているのを知った。左手は力なく、だらりとしていた。つめたかった。痛みは全くなかった。

佐久子は、俺のジャンパーを脱がせてくれた。左手は、俺の意志に反して、ぴくりとも動かない。佐久子は、湯を沸かし、タオルを絞ってきてくれた。俺をベッドに座らせ、画面の傷を丁寧に拭いた。痛みが、はっきりと戻ってきた。右の目は、はれぼったく、うすくしか開けられなかった。傷をぬぐうとき、佐久子の胸が、俺の顔に近づいた。あるか無いかのかすかな透明な体臭を、俺はかぎわけた。

 

佐久子は消毒液を取り出し、俺の傷口を洗った。激しい痛みが全身を走った。怒りが、目の前の佐久子の細い体を透過していった。ワイシャツに、いくつかの血痕が黒くなっていた。左手を、右手で持ち上げてみた。肘の関節のあたりから、感覚がなくなっていた。俺は胃袋を盛り上げてくる怒りを制止できなかった。くちびるは震えつづけていた。黒い波が、黒い壁が、憎かった。許せなかった。


 台所に入っていく佐久子の後ろ姿を、俺は片目でおった。佐久子のスカートは、やはり汚れていた。足にも赤黒い斑点があった。

 

ベッドに腰掛けて、握った手を開いてみた。汗と、そして血液によって、こわばっていた。温かいタオルが、それを包んで、そのこわばりから解いてくれた。みると、なぜか、佐久子の唇にルージュがまだ鮮やかに残っていた。光に淡く陰影が、その片隅にあった。

俺は、体を震わせながら、右手で左手の指を一本ずつ開いて、きれいになったその手を見た。佐久子が入れてきた紅茶を口に含んだ。かなり強く、ウイスキーの香りがした。喉が乾ききって、飲み下すことを忘れたかのようだ。

 

俺たちは、部屋に入って以来、黙っていた。

片目で見上げた顔に、髪がかかってきた。俺は、無意識に例の仕草で、髪を掻き揚げた。佐久子の目が少し笑ったようだ。俺は、体を震わせる怒りに混じって、ある別のシコリが下腹部を重く圧しているのを感じた。 

佐久子は、ふすまを閉めて出て行った。机の上のスタンドが、緩やかな光を投げている。窓の厚いカーテンを通して、南海線が走り抜ける音を聞いていた。

佐久子は、やっと爽やかな顔をして、杉折のスカートと、柔らかな線のカーディガンを着てふすまを開けた。タバコを1本くわえて、ライターで火をつけた。そして、差し出された、かすかに濡れた吸い口を唇にした時、俺は下腹部の熱い塊を意識した。「何か食べる」佐久子が聞いた。

「いらない」

俺は言った。

 

俺の胃は、堅くしこっていた。佐久子は、自分のタバコに火をつけて、俺の側に座った。佐久子の重みで、ベットは少しゆらいだ。はれぼったい目の上が、さらに熱くなった。佐久子の胸の膨らみが、カーディガンを通して優しい線を見せていた。佐久子は、落ち着かぬ風だった。ピクリと頬をけいれんさせたりした。俺たちは、やはり最前の乱闘の興奮を沈めることができないでいた。せかせかと、俺はタバコを吸った。


 佐久子はその視線を俺の左手にうつした。左手はだらりと醜くたれて、ベッドの上にあった。佐久子はいつものように、くい入るような目で、それを見て、それを手に取った。俺は、無感覚な俺の体の一部を佐久子にゆだねていた。佐久子のうつむいたあごから首のあたりに鳥肌が立った。熱いかたまりが、胃から胸をかけあがってきた俺は、自由な右手を佐久子まわした。

佐久子の冷たい目が光った。俺は、右手に力を加えた。ゆるやかに弧をえがいて。佐久子は、俺を見つめたまま、ベッドに頭をおいた。俺は、佐久子の顔にかぶさっていった。やわらかい唇が、俺のカサカサに乾燥したそれに触れた。かすかに唇はひらかれていた。舌の先に鋭利な小さな歯を感じ、俺は、その小さな隙間に舌を滑り込ませた。爽やかな香りが、俺の口腔を満たした。佐久子のそれが、俺の舌に出会い、かすかに引っ込められた。俺は、佐久子の唇に触れている唇だけを感じていた。


 

徳山てつんど
作家:徳山てつんど
祭りのうた
0
  • 0円
  • ダウンロード

7 / 14