祭りのうた

第五章( 1 / 1 )

祭りのうた

 

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<南海鉄道 天王寺駅前駅>

 アイクは、訪日を中止した。岸は、アイクの身辺保護に確信を持てず、中止要請を公電した。それは一つの勝利であった。

しかし、国会周辺の流血事件の6.15の翌日、大手新聞は、今までの安保闘争に対する同情的な記事を完全にすり替えていた。意識しない部分に対して、活字の威力をもちいて、岸と自民党を正当化しようと努力した。マスコミはその正体である事なかれ主義を、我々の前に暴露した。「国際信用の失墜」として、全学連の抗議行動に非難を加えた。そして、あたかも暴力は、学生と、組合員と、意識した市民のものであるかのように、七社宣言をその紙面に刷った。樺美智子の生命を奪った、凶暴な黒い野犬の群れを、彼らは、その非難の対象として捉えはしなかった。

 

安保自然承認の期限である619日は正確に35日後にやってきた。その日、批准の閣議決定は、密かに行われ、その夜、天皇の認証は終わった。


 佐久子と一緒に大学病院に行った俺は、その帰り、あの夜、俺たちが逃げまどった南の盛り場に、安保闘争の片鱗も知らず、人々が明るく流れているのを見た。左手の麻痺は、少しずつ、感覚を取り戻していた。時が、我々の意思を無視して、その精確な秒を。分を、時間を刻んでいった。


 佐久子のアパートに、俺は一週間を過ごした。佐久子の透明なにおいと、俺の心をやすらぎに導く、佐久子の体が俺のまわりにあった。

佐久子も、俺も、それらの日々に、生活に、強いて意味を見出そうとはしなかった。強いて正当化のための弁明を試みはしなかった。ある偶然から始まった佐久子との生活に、俺は、心のやすらぎと、豊かさを取り戻し、無意識の中に、俺自身を縛り上げる自意識から自分を解放していた。それだけで充分であった。佐久子の透明さが、俺にそれを許していた。

 

622日、安保国民会議の主催する第十九次統一行動が、街を流れていた。しびれの残った左手をポケットに入れて、俺は、佐久子と天王寺駅前に立っていた。顔面の傷は堅いかさぶたになっていた。右目は、はれが引いて、細くではあるが、努力せずにみえた。佐久子は別れ際に、俺の右手をとって、強く握った。佐久子の目は以前の落ち着いた冷たい光を取り戻していた。

 

二人の生活は、あの苛立ちと、怒りと恐怖の世界から、佐久子を立ち直らせていた。二人が、あの時、結ばれたそのことによって、お互いが、自己に豊かさと、自分らしさを取り戻していた。佐久子は、俺との深い結びつきの日々の中に、いらだちと、怒りと、とまどいの永い時間から決別していた。佐久子は、そのやすらぎの中に、傷ついた自分の心と、体を癒していた。そして、俺の心からは、恐怖と、ガソリンの炎のような怒りが、静かに去っていった。佐久子との結びつきがしあわせであった。それは、ゆたかさを取り戻させてくれた、やすらぎの世界であった。

俺は、佐久子の目を見て、佐久子の細い手をゆっくり握った。二人の目に感謝があった。「さようなら」佐久子は見なれた後姿を見せて、ゆっくり駅から、外の明るい光の中へ出て行った。俺は、その明るいエメラルドグリーンの姿を見つめて立っていた。

 

623日、マッカーサー大使は、藤山外務大臣と、新安保条約の批准書交換式に出席した。そして午前10時半、安保改正の完成を見て、岸内閣は退陣した。

岸は倒れた。しかし19次にも及ぶ、全国統一行動は、具体的な勝利もなく、その幕を閉じた。あの怒りと、自己の意識の表現であったあの安保の波は、幻のように俺の脳裏に残っていた。

 

日々は、たえまなく過ぎていった。和子は、佐久子と俺のことを知って、一か月近く、俺を自信なく見続け、そして去った。俺は、和子の後姿を無表情にみまもった。和子のとまどいと、苦しさは分かっていた。けれど、俺は、その和子を引き留める気はなかった。和子の願う結びつきは、俺の願うそれとはまったく違ったものであることを知っていたからだ。

 

日々は、正確な歩みを続けた。夏が来ていた。この阿倍野の俺の下宿から、南の方に大きな積乱雲の厚い連なりが見える。その輝くつらなりを見つめていて、俺はめまいを感じた。左手には、まだかすかなしびれが残っていた。俺は、その腕を曲げてみた。
 佐久子が、下平尾と結婚すると言う噂を友達が伝えた。佐久子は完全に立ち直ったのだと思った。

 

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悲しみも、虚しさもなかった。ただいくつかの花びらが流れていただけだった。

 

 

脚注:クレジット

 

「南海電鉄大阪軌道線 上町線 天王寺駅前駅」は、「私の撮った鉄道写真」のオーナー、堀越様の了承を得て、借用しています。

 

http://m-horikoshi.la.coocan.jp/lac16_Romen/_Rr_59_00_NankaiOosakaKidou3.htm

 

 

 

あとがき( 1 / 2 )

あとがき

 

あとがき

 

 今後の日本はどうなっていくのか、誰にもわからない。忘れっぽい国民性。戦前回帰の第一章が、今年、2015年に完了したのかもしれない。いつの間にか「ゆでガエル」になっていて、自由というあたり前のことが失われてしまった日本にいる自分たちを、後になって発見するかもしれない。若い人たちにとって、それは、明日であり、将来であり、そして、自分の人生である。

 

脚注

 

この本は、1967年5月、法政大学英文研「ヘルムアルムナイ」に収録

したものです。

 

 

あとがき( 2 / 2 )

著者プロフィール

著者プロフィール

 

 徳山 てつんど(德山徹人)

          

194211日 東京、谷中生まれ

1961年 大阪市立大学中退

1966年 法政大学卒業

1966年 日本IBM入社

    システム・アナリスト、ソフト開発担当、コンサルタントとして働く

   この間、ミラノ駐在員、アメリカとの共同プロジェクト参画を経験

   海外でのマネジメント研修、コンサルタント研修を受ける

 1996年 日本IBM退社

 1997年 パーソナリティ・カウンセリングおよびコンサルティングの

         ペルコム・スタディオ(Per/Com Studio)開設

 

EMailtetsundojp@yahoo.co.jp

HP:  http://tetsundojp.wix.com/world-of-tetsundo

 

 

著書

 

Book1:「父さんは、足の短いミラネーゼ」  http://forkn.jp/book/1912

Book2:「が大学時代を思ってみれば     http://forkn.jp/book/1983

Book3:「親父から僕へ、そして君たちへ」  http://forkn.jp/book/2064

Book4:「女性たちの足跡」           http://forkn.jp/book/2586

Book5:M.シュナウザー チェルト君のひとりごと その1

                     http://forkn.jp/book/4291

Book6:M.シュナウザー チェルト君のひとりごと その2」

                    http://forkn.jp/book/4496

Book7:「ミラノ里帰り」         http://forkn.jp/book/7276

 

 

 

 

 

 

 

 

徳山てつんど
作家:徳山てつんど
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