通いなれた 海辺のカフェ を訪れた あの日、
由紀は、書棚の一番奥の暗がりで目を凝らした。美しい装丁の分厚い書を見つけた。旅先のセビーリャのカテドラルのガラスケースの中に飾られていた中世の書にそっくりに思えた。なにげなく手にとり、しばらく眺めていた。どこかでこの古書を見たような気がする。カフェを訪ねた当初の目的、有名人突然死の謎のことは、ほとんど忘れかけていたが、マリー・キャンベルが専属モデルだったファッション誌「パリス」のグラビアが浮かんだ。書棚からパリスのスプリング号を探し出した。見開きのグラビアには、丸天井に天使の絵が描かれ、ステンドグラスの窓から差し込む光の中に、レースの襞が重なり合うゴージャスな純白のウエディングドレス姿のマリー・キャンベルが佇んでいた。眺めるほどに、ため息が出るほどモデルも背景のセビーリヤのカテドラルも美しい。よく見るとグラビアの左端に木製の丸テーブルがあり、そのうえに分厚い装飾の美しい本が映っている。いま見つけたこの分厚い本にそっくりではないか。よく見ると小さな鍵がついていた。
パリスのグラビア写真と手元の古書を何度も見比べ、いますぐ古書の鍵を開けたい欲求に負けそうになりながら、古書を抱え込み、考えろ、考えろ、と己に必死で命じた。古書に張り付いたようになっている自分の手を自分で指1本ずつ剥がすようにして、古書を放し、猛然と帰宅した。
帰宅した由紀は、あの鍵付き古書は、有名人突然死の共通項に間違いないと確信していた。連日 海辺のカフェ に通っていた 小説家 成瀬元就 は、古書を見つけて鍵を開けたのだ。モデルのマリー・キャンベルと写真家 パク・ヨウエンは、スペイン、セビーリャのカテドラルで、「鍵付き古書」に触れたに違いない。
古書の鍵を開ける前に準備をしなくては、と由紀は思っている。なにしろ3人も死亡しているのだ。由紀は、有名人ではないが、死ぬかもしれない となれば、なおさらである。突然死の共通要因に違いないが、どういう作用で、システムで動いているのか、どのような影響があり、なぜ死に至るのかまったく不明なわけで、自分の手を放すのにさえてこずるほどの吸引力のある古書、すでに死のカウントダウンは始まっているかもしれない。鍵を開けるまでは何もおこらないと、どうして言えよう。40年以上も役所を勤めあげて、無事定年退職したごく平凡な一般人としてこの世にさよならするのか? 何かしらで有名人となり、突然死するのか? まだ鍵を開けていないから、なにもおこらないのか?
このまま何もしないで、古書をあきらめることは、できない。これまでの人生、大きな波乱はなかったけれど、小さな数々のしあわせに恵まれ、穏やかに終わることに、抵抗も不満もなかった。振り返れば、よき人生だったと思う。十分人生を愉しんだから、いますぐ死神が迎えに来てもかまわない。親しき人々が逝くたびに、あの世への垣根は低くなっていた。元気ではあっても、年老いた母より先に逝くのだけは、気がかり。考えが及ぶ限りの準備をして、鍵を開けよう。