両者の作品を真剣に見た人なら、この説がいかに妄説かはすぐに分かるところであろう。なんというか、あまりに技法から画題から違いすぎて、同一人だと見なす方が私には不思議な気がする。「技術があればいろいろな描き分けが可能」という考えもあろうが、画家にとっては「自分の不得意な対象を画題にする」、「自分の引きたくない種類の線を引く」、「自分の最も得意な対象を描かない」ということは呼吸を止めるのと同じくらい困難だ。もし仮に応挙が写楽だとしたら、彼が写楽の絵でやっていることはまさにそれなのだ。写楽の作品と、応挙の作品は、それくらい動機においても手法においても遠く隔たっていると言ってよい。
物理的にも成り立ちそうにない。寛政5年(1793年)頃から応挙は、脚気に冒され眼病までわずらっていた。そして寛政7年(1795年)、63歳で没する。京都から江戸に出てきて140枚もの役者絵を描く体力も気力もあるとは思えない。
まあ、もしこれだけ画風が違っているのに同一作者であったとしたら、「芸術家の可能性とはすごいなあ」と深い深い感慨を覚えることは間違いなく、その意味では夢のある説、といえなくもない。私個人は、応挙は歌舞伎に興味すら持たなかっただろうと推測しているが。では、この画家は何に対して興味を持ち、情熱を注いだのか。
一言で言えば、自然界の事物である。花、樹木、昆虫、鳥、山水。前ページの絵は兵庫県香住町の大乗寺にある「郭子儀図襖」(かくしぎずふすま)の一部だが、私の目には、芭蕉の葉のリアルさ、岩肌の奥行きのある描写などにくらべると、子供の顔は「類型的」という感想をぬぐえない。まあ日本における人物の顔は、平安の時代から類型的なのであるからやむを得ないし、「郭子儀」という画題自体が縁起良さを願う画題だから、本物っぽい顔など求められていないという事情があったに違いないが。
私が応挙の絵で好きなのは、根津美術館にある「藤花図屏風」(重要文化財)である。写真が入手できなくて残念であるが、自然に存在する藤の花よりも、枝の数と葉の数を減らし、細心の注意で描かれた幹と枝に、たわわにさがった花房をかすれるような筆致で描いている。日本画では「かすれ」や「ぼかし」の技法が遠近感と立体感を出すのに寄与しているが、この絵も例外ではない。
優雅に曲がった藤の幹の背後は余白だ。空間はこの場合、空白ではなく、藤の花の色と匂いを見る者に感じさせる「装置」なのだ。
三井文庫にある「雪松図屏風」(国宝)もすばらしい。富商三井家の依頼で描いた屏風だ。背景は金、松の幹は墨、枝や葉に積もった雪が白色、この三色しか使われていないのに、本物の松の木に見える。幹の表面などは、写真のようにすら見える。正確に言うならば「日本人の意識に刷り込まれている松の木の概念」どおりに見えるのだ。