小市長の野望

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小市長の野望


     一

 門を閉めに外に出た。半円形の街灯が真正面から汀子の家を照らしている以外は、眼をこすりたいほどに暗い。すぐ前の菜園が手入れの良さを反映した美しい緑のさまざまを見せているはずだが、今はうす黒い固まりである。と、感じた瞬間、視線の中に、とつぜん明るいものがはいってきた。

 明るいどころではなく、それは金色であった。東空、南天にさしかかっている月であるのがわかるまで極小の時が必要だった。十七夜月か、数日前満月だったらしい下弦の月なのだが、ふっくらと花びらの形、しかも太陽光をまともに反射して、群青色の緞帳を飾って輝いていた。そこから強い力が汀子にぶち当たるかのようだった。強い意志があるかのようだった。 

「どうしたん?」と汀子はまるでそこらの仔猫にでも言うように小声で静かに話しかけた。家々の影がその下に並んでいて、それぞれの窓にはまだ色々の明かりが差している。

 一人一人の必死な生に溢れているであろう、ひとつひとつの明かりの下で、多くは問題を抱えて、ネズミ色の垂れ幕に囲まれたような重たい心を持て余しているのだろう。

 一方では、思い出し思い出ししては喜びをかみしめていることもあろう、いずれにしろ、何パーセントかが恋愛を成就しあるいは試験や試合を勝ち抜いて希望の黄色い光に顔をあげ、笑いをおさえられないでいる。とりあえずの勝者として。それも事実だ。



     二

 房総半島、ほとんど平らな、かろうじて陸として太平洋に突き出している半島には、旧石器時代の遺跡もあり、人が住んできた時間は長いのだが、その後の歴史の動きの中ではもっぱら首都東京に隣接した田舎であり、それを住民自体が自認している。そんな広々とした市がゆったりと連らなっている。

 川原市は市政五十年、汀子の夫石野和十はすでに二期目の市長である。かずとお、という名前を市民に覚えてもらうのに手間はかからず、やや剽軽なタレントのような人柄の軽さと名前の謎深さとが妙にマッチしたらしい。市民の味方という振る舞いが票を集めるような、すでに文明末期のポピュラリズム政治が妙なことにこんな小さな市において働いていた。

 最近目立ってきているのが、生活保護の受理件数が多いということである。条件がゆるやかだ、という噂があり、他の市から移転して申請するというのである。
「恥も誇りもない人間が多いわねえ。うだうだしてパチンコなんかして生きていけたらいいんだから」
 両親が教師という家の出である汀子は、人間の運不運についてよく理解している一方で、努力せず諦めて怠ける方になだれていく生き方を嫌っていた。

「この前、ざっと調査させてみたんだけどな、連中のうち親子代々というのが結構あるんだな。そういう程度の生活態度でいいっていうのが伝わって行くというか。もちろんさ、景気に翻弄されたり、騙されたり、自ら失敗したり、運が悪いのもあるさ、もちろん病気怪我で働かれなくなったりとかあるしさ」
 受給のために戸籍では離婚しているが、実際は一緒に住んでいるという男女の噂を再三聞いていたのだが、そんな人でも、住民票があれば選挙の一票になるのだと、市長の妻として汀子は思った。

「そうそう、まもなくうちでも決まるよ。市内の使ってない住宅を安く貸し出すっていう制度がな。それに菜園でも使えば日々の暮らしはだいぶ助かるからな」
「能力が無い、怠け、病気怪我、、セーフティネットにかかる魚? 税金の歳入さえ十分あればいいでしょうけど。でも税金払う人も楽には暮らしてないでしょう」
「辛いとこだな。ぼくだって楽じゃない。ふふっ。若者に仕事が無い、あるいはもう諦めて引きこもりになっている、そんな悲惨なサラリーマン、自営業の市民が、統計は出してないけどあるんだよなあ」
「生活保護予備軍ね」
 あ、そうだ、と汀子の脳裏に駅周辺の黒い影が浮かんだ。

「でも、ところで、あの人たちどうするの。暑さ寒さを動物みたいに毛皮も無いのに屋根の無いところでほっておくの」
 和十は、黙っている。かれらは票にならないし、そんな大きな数でもない。以前、大阪市でかれらのためにかなりの収容施設を作ったのだが、成功したとはとても言いがたい結果になって、責任者はおおいに困った。彼らは難しい。市政は関与していないのだ。警察が時々関与することになるが、あとはボランティアの有志頼みというのが実情だ。リーマンショックで職も家も失った人たちのために、年越しのテントで食事サービスをしたことはあった。

「私、ネットでみてみたら、全国にその関係のNPO連絡協議会ってここ数年作られてるらしいのね。でもここでもだけど、その他どの市にも千葉県にはないみたい」

 和十は、どうしろってんだ、という不機嫌な顔になった。社会全体の質をひきあげて数を減らすしかないのだ、アルコールとかギャンブル依存、もともとはそれ。あるいは精神障害。その施設というのがまた成り立たないんだよ。

 住民サービス市長として和十が悩むことは、汀子に言われるまでもなく金と人との不足に由来するのだ。汀子は夫の表情をみつめて、それから黙って視線を外した。夫の能天気ともみえる大きな笑顔が、困った顔の後にすぐ浮かぶのを見て、この笑い顔だわ、と思った。


 和十にはさしたる政治的信条などない。父親の地盤を何となく受け継いで、社会的問題のあまり目立たないこの地域では、人柄の面白さが親しみを抱かせたのだ。
 万が一何かの批判点を訴える人物があらわれたとしても、うまく口車に乗せられ、しっかり訴えを理解してもらったような気になって、彼の支持者に回ってしまうのが落ちだった。

 ただ、私腹を肥やし、権力を肥大させようというまでの意気がなかったのが幸いして、危ない連中にも単なる親しさのレベルで笑い合ったりする、その手加減が上手だった。
 賄賂とかには極端に消極的だった。
 実際には利益にならなくても、和十と親しくしておくのがいずれ良い結果を生む、とこすからい連中にも信じさせる、そこらの手のうちの巧さは汀子も納得して、全体的に夫を認め、内助の功を果たしているのだった。

 和十には、賢い側近が必要だった。物事を見通して正しく市民のための市政を叶えることを可能にするブレーン集団が。ただそんな集団を率先して形成できるほどの明を備えていないのが、和十の限界だった。せめて汀子が彼の人道的な監督者と言えた。

 違う大学であったのに合唱団の合同練習で代表として話し合いなど必要になった。和十は汀子の福相に惹かれた。世に美人はたくさんいるが、福相という雰囲気を認識したのは彼の育ちの鷹揚さゆえであったろう。汀子も熱愛、などという気持ちではなく、面白そうな男だと思ったし、心のうちになんら反対する気分が生じなかったのである。縁とはそんなふうに静かに結ばれる。

 市長植村和十の二期目から、政府の肝いりで始まった「空き家の低所得者への借家化」の事業は、まずどれほどの空き家があるかという調査から始まる。その担当は福祉課と住宅課から二名の合同とした。

 定年間近の上総俊とまだ若手の下山光二、親子のようなコンビであった。市の古い建築許可を住民票と照らし合わせ、住んでいないらしいところへは下山がすぐに偵察に出た。下山の同級生が勤めている大手の不動産屋からも、空き家情報を提供してもらった。

 あまり経費をかけずに、すでに五十件近くの空き屋空き室がリストアップされたのだが、格安の家賃で生活保護者、あるいは低所得者に貸すことに首を縦に振った持ち主はその半分であった。家の補修費援助などを申し出たらもっと増えただろうが、その費用はごく少なかった。

 そこでシルバー人材センターの出番がきた。なんとか住める程度にまでの家の補修を引き受けてもらう。
 六十歳で定年になっても、年金をもらうまでは誰でもなんらかの収入を考える。そのためのこの仕組みはすでに全国的に市政の常備となっている。学童保育と同じくらいの常設の度合いである。

 これと同時に、市の広報誌、プラカード、地域のラジオなどで申請を人々に促す。計算上、生活保護費支給額はこの計画によって少し減るはずである。ただ、そんな面倒な変化を受け入れる人がいるかどうか、ややこころもとなかった。
 案の定、広報活動からは余り成果がでなかった。
「この報告書に目を通していただけますか」
 上総から渡された結果を見て、和十はしぶい顔を作った。申請者は十人にも足りない。歳出削減の効果はないも同然だ。(怠け者らめ、少しは財政を考えてくれ)

 汀子にも少し毒づいた和十だったが、頭の中では模索を続けていた。
 一人前に先進国の看板をかかげているからには、自国の弱者救済だけに予算をまわす訳に行かない、のはわかっている。
 企業の法人税を下げ、景気と給料を底上げする、すると庶民から税が増える、というサイクルがしかしうまくいくはずもなく、貧富の差は拡大する。そうだ、と和十はてのひらを拳で叩いた。自動的にそんな仕草になるのは彼自身でもおかしい。

(要は、その後少数の金持ち、大企業からいかに金を国庫に還元するかだ、善行に対して税の緩和などを喧伝する、国民が知るように大々的に。次にどんな善行か、だな。もちろん、国のセーフティネットの不足する部分で、同時に失業者を減らす効果を持つような、善の増幅作用が期待できるものだ。あるいはそれで企業そのものにふたたび幾分かの利益が還ってくるような。同時に国民がその企業を信頼するような寄付や基金などによって)

「そんなことくらい、誰かが考えたでしょうよ、既に」
 汀子は冷徹に言う。
「でもうまくいく条件ってなかなか揃わないのでしょうね」
 今度は少し優しく言う。その変化で、和十にもまた勇気がわいてくるのだ。
「よし、商工会議所とのアポを取ろう。庶民の力の衰えはすぐに企業に影響を及ぼすというネタを考えてみよう」




     三

 特に商工会議所の青年部のやる気のありそうな数人に、手を替え品を替え、熾き火をたきつけるように心をくすぐるような会見を和十はこなした。手応えはあったのだが、実働に移せるかどうか。

 翌日、ほとんど忘れていた高校の同窓会を汀子に注意された。地元に残っているのは半分もいないので、もちろん和十が出世頭だが、二代目だというので余り尊敬されていない。しかしちょうど時間の都合が良かったので、じっくり参加できそうだった。

 その夕刻のことである。居酒屋の、白いむくげの花がたくさん咲いている入り口で、自分ほどの大男が佇んでいた。肩幅といい、分厚い胸板といい、あれは由井耕造にちがいない。
 近寄って顔を見る。顔の造作こそ似ていないが、半白の髪の具合も同じだ。両方からしばらく見つめている。おお、という動きが向こうの顔に浮かんだ。
「石野和十か?」「そうだ、耕造」一緒に、久しぶりだなあ、と叫んだ。

 高校の前半はよくつるんでいたのだが、次第に暮らしの違いからだったろうか、あるいは世間への批判の態度の違いからであったか、道が別れた。噂では、その後耕造も実家のある近接の市議選に打って出たのだが、落選となり、そのご連絡が途絶えたとなっていたのだ。共産党支援だったととかくの噂であった。
「しかしあまり変わらんなあ。ちょうどいい体格じゃないか」
「お前こそ。市長二期とはな、悪い噂はないようじゃないか」
「はは、俺はまあな、俺の実力じゃあないのだが、だからこそ、真面目にやりたいと思ってんだよ」

「そうなのか」
 耕造がじっと和十の眼を見つめた。和十は耕造の洗い立ての粗い目の織のシャツの背をさわった。相手が女性だとなかなかタッチは難しいが、男性にはよくやる。暖かい。
「入ろう、中が涼しいだろ。で、何をしてる?」
 
 同窓会によくあるように、挨拶や雑談にまぎれてその返事を聞いたのはずっと後になった。しかも耕造がみんなを前に滔々と説明を始めたのでわかったのだ。
 彼はすでに長くNPO法人で活動していて、社会全般そうであるけれども、とくにこの領域では色々なフィールドの連携が必要であり、それなしでは意味が薄れるし効果も少ない、したがって是非、この集まりの面々にも理解を頂きご尽力、とくに人的資金的支援をたまわりたい、と耕造は深く頭を下げた。みんなが思わず頷きながら拍手してしまったのは、由井耕造がその前にこんな演説をぶったからであった。



    四

「ご無沙汰しておりました。やっとここに顔を出すことが出来るようになりました。みなさん、十分間だけ時間を下さい、ちょっと僕のことをお話ししたい。
 親父が早死にしてですね、国立大学だったので学費をバイトで工面して、お情けで卒業させてもらいました。この間の飲食店、新聞配達などの時給生活が僕の第一段階でした。

 就職にも窮しましてね、典型的な古い中小企業で働かせてもらったんですが、そこでは中卒でこきつかわれ、辞めてうろつくような生活をしていく若者を多く見ました。そして会社の倒産。これが第二段階の経験です。

 庶民の生活をなんとかせねば、と急に張り切って、政党に参加、共産党ではなく社会党でした。そして立候補、落選、これが第三段階。
 その後借金は出来るし、前途を見失い路傍生活に陥りました。辛かったです。しだいに絶望のあまり動けなくなり、救急病院にいくはめになりました。これが第四段階。

 精神病院にしばらく入ることが出来たのは母や叔母のおかげです。僕の身元引き受け保証人ですね。そこでは色々なケアをうけ、底辺の人を支えている職業を知りました。そのひとりと幸いにも家庭をもつことができたんですけどね。これが第五段階。

 もう自分のことはいい、これだけ地を這い回るように生きている人に何か手助けをしたいと思うようになりました。
 まずは、子供です。当時は深夜になっても路上で遊んでいる、あるいは乱暴をしている少年たちが流行りでして、かれらに話しかけるグループで修行しました。
 しかし、次第に家に引きこもる子供がふえていったのです。社会からはみでていく子供たち、これをなんとかするのが急務だと、その手の NPO法人のボランティアになりました。第六段階、修業時代です。

 そしてもう二年経ち、さて、この子たちが少し元気になったときどうしたらいいのか、社会に受け皿があるのか、社会には助けを必要としている人が大勢居て、行政だけでは手が回らないし小回りがきかない。この子たちはそこで善行を積むのだ。助けることによって自分を強くしていくのだ、とわかりました。

 しかし、赴いて手助けをするべき場所を僕は知っていますが、そこをコーディネートしてくれる人材と情報と資金とが不十分なのです。政府から資金はもらえますが、それでは数人しか生きて行けません。

 ここからが僕の第7段階、ちょこまか動いて人々にわかってもらうという活動を始めました。おちこぼれていても、稼いで食べていける働き場所、おちこぼれている人を慰めながら自分でも自信と経験を積める場所、たくさんあるはずです」

 由井耕造は、第一第二と話が進むごとに指を突き出していたが、ここで折りたたんでいた紙をとりだし、がさっと拡げた。
 よく見るとD3用紙を貼り継ぎしてある、その紙には、サインペンで書かれた大きなキャッチコピーが踊っていた。
「ボランティアで生活できる社会構造」
  その下には「最低時給でも助け合ってそこそこ家庭も仕事も運営できる社会関係」

   その下にはチャートのような図形が描いてある。
 和十は、う~む、これじゃ固すぎるな、と思いつつ覗き込んだ。

 右端には中層、下層とおおまかに社会層区分が書かれている。上部には、行政(税金)、NPO法人(税、寄付)、これはお金の出所らしい。
 中層以上の人々は懸念の外なので、紙面は下層の分析に集中している。

 左端には、現状、近未来、目標と分けてあり、これは小さく書いてある説明によると資本主義の格差社会が現在から更に極まって行くのであろうが、人々の利己主義と儲けすぎ主義が是正されるとして、当座の未来の妥当な近い目標を描きつつ、しかし、遠い未来には新しい経済社会の仕組みがより良い社会のために必ず現れるはずである、となっている。
   まあ、一種の理想主義運動だな、と和十は頷いた。

 しかも下層内部での自助努力という前提であるらしい。社会のほとんどが下層か、それに近く、ごく一部が上層に属して、一部寄付をしてくれる、それを当てにしている訳か、と和十はまたひとりごちた。

 要支援対象一番の弱者、もっぱら支援を受ける人たちに属するのは老人と心身に重度の傷病を得た人たちである、のだが、その言葉を使うのをなるだけ避け、イラストにして気を遣ってある。
 こういうところは役人にはない心遣いだと、和十は思った。この話をたたき台まともに論議しようという気になっていた。



     五

「さて、支援する側にまわるのに僕が一番当てにしているのは、こんな人々です」
 新たな展開を期して、由井耕造は息を吸い込んだ。

「若者が家に引きこもってしまうという重大な情勢が広まっております。しかるべき社会的背景あってのことなのでしょうが、その改善を待つ間にも、やれることが我々にもあるのではないか、出来なくて元々でやってみよう、数打ちゃ当たると」
 耕造は片方の口角をゆるめた。それが絶妙で笑いを誘った。

「物の本によりますと、脳内への働きかけは体からの信号でも有効だということですが、世にけっこうある指圧鍼治療院ですね、あの方々に、つまりけっこうな数の若者があの道に入っていて、しかもそんなにも成功しているように見えないのが辛いところなのですが、この種の若者に、引きこもりの人へマッサージのサービスを行ってもらうのです。

 接触するのはその道のNPO、それに市の福祉、教育関係の方がまず、その情報をもって徐々に指圧師が自宅へと手配されて行きます。成功率はまだわかりませんがね。これが第一段階」

 耕造はまた、指を突き出し始めた。ふっと失笑が漏れたが好意的なものだった。同時に紙片の、それらしきイラストを指し示した。素人っぽさもけっこう使えるな、とその図を和十は見ている。

「カウンセラーは数も少なくお金がかかりますから、是非この手も使いたい訳です。
 さて、ひきこもり陣が外へでてもいいかな、と思い始めますでしょう。でも何をする。これから第二段階ですが、とりあえずは余り人と関わらない手仕事、配達、庭仕事、片付けなど、とくにシルバー人材センターと協力していきます。

 そうそう、先の指圧師陣、ならびにこの軽労働旧ひきこもり陣にも、いくばくかの日当が是非必要ですね。ボランティアではあっても、生活の足しにはなるべきです。そのお足の出所を打診して回るのが、うちのグループの重要な仕事でもあります。
 みなさん、たばこ銭の一箱分でもお願いしますよ」

「ほんとうに一箱分でいいの? それともワンカートン?」
「あ、田川君、ありがとうございます。その恰幅だとツーカートン?」
「ワハハ、いいぜ、俺も手伝ってもいいよ」
 耕造は満面の笑みでこたえた。本当に嬉しそうだ。

「そうなんですよ。この子たちにはね、田川君のような、太っ腹な、あ、体格のことじゃなくですね、自然体の大人がほんとうに必要なんです。世界がそんなに怖いものでもない、と実感させてくれるようなネ」
 
第三段階もあるのかい、と大きな声がかかった。ありますとも、と耕造が指を三本突き出したので、案の定、と笑いが起こった。
「根本君、聞きたがってくれてありがとう。そうなんですよ。これからが佳境です。
えーっと、ここですね、この部分。サービスの対象者、介護保険などがカバーしてくれる範囲は行政に任せる。しかしそのはざまのお年寄り、孤老。そこへお助け隊を派遣したい。それはこの元ひきこもり隊ですよ。彼らが働きの本部隊になっていく、ここがミソなんです。市長さん」

 いきなり呼ばれた和十は反っくり返っていた椅子に座り直した。「俺?」

 意図した訳ではないのだが、笑いを呼んだ。

君だよ。あのね。政府肝いりの例の空き家有効利用策ね、この子たちの職業教育もかねて修繕なんかにつかってくれない? 少し費用も組んで」
「ふ~ん、僕もねえ、ちょうど女房と話し合っていたのさ。こちらの要望とあちらの条件がそこそこのところで合う働き手がいないかしらんてね」

「奥さん、お変わりない?」
「お、変わりなくシビアな人ですよ。耕造、汀子を知ってた?」
 耕造はにやにやして黙っていたが、誰かが
「当然知ってるさ、秘かなピカピカの女性だったからね」
と、茶々を入れた。ひとしきり妻の噂話になって、和十は自分のうっかりな面をまた知ることとなった。

   家柄や押し出しの良さ、家同士の付き合いなど夫婦にとっては当然のような結婚だったのだが、妻が男たちの酔眸の的であり高嶺の花であったことをほとんど意識することがなかったのだ。耕造が最後にまとめるように言った。
「こんな俺でもさあ、女房がいるんだぜ、帰ると。嬉しいねえ。話を聞いてくれるし、意見も言うし、俺の背骨だよ」

「ああ、そう言えば僕にとっても妻は物差しですよ。時にはそれでお尻を叩かれますよ」 
 みんなの頭が、頷いていた。
「それから?」
       


    六

「さあ、最終段階です。四本ですよ! 僕も実は頭が痛いんです。ホームレスのひとたちね。見るだに辛いでしょ。家が無い。選挙権も無い、何も無い。自分を護る術を知らない。心身の病気や不幸不運を抱えている。みんな見て見ぬ振りをしている。行政の黒い穴ですよ。手を出すのはものずきなNPOだけ。でも人手も金もない。どうします。まず彼らに話しかけることすら大変なんです」

「俺はときどき、話しかけるよ。人によるけどね。中には明らかに障害があると思われる人もいる。実は専門家が見なくちゃならない事例なんだね」

「なんかなあ、腕章でもして数人で話しかけるのならできるかもなあ。あれで自由を感じているってこともあるのじゃない?」
 根元達治が言うと、同調する数人がいた。

「今更何か趣味を始めても、まあそれはそれで始めて良いんだけど、趣味で終わるよな。ボランティアといっても花を植えたり、道の掃除したり、病院の付き添いなんてあるけど、必須事項じゃないから、もひとつ気合いが入らないじゃない」

 そう言ったのは、その息子が青年商工会議所で最近話題になっている切れ者だという藤村正である。正は電子工学の知識があり、新しい3D印刷を請け負う小さな会社を立ち上げたという。

 すっかり弱者救済思考にはまってしまった石野和十市長は、すたすたと彼のほうに歩いて行った。どんなチャンスも自立し損なったかれらのために逃したくない、中には理数系の頭をもつやつらもいるはずだから。
 もうひとつの可能性へと彼は歩み寄って行った。

「藤村君。久しぶりだね。お元気そうで何より。秀才と評判の息子さんも藤村君と同じように本格的な助け合い志向があるんだろうか。単刀直入で申し訳ないけどね」
 藤村正は、大きく頷いた。
「親が言うのもなんだが、切れるだけに今のままではまずい、ということが見通せるんだね。優しさというより理の当然だと」
 へえ~と和十は大きく目を見開いた。



     七

 旅立ちの前夜、七時半のころにはいわゆるスーパーエクストラムーンが東の空半分のところに上ってきた。確かに大きい。残念なことに薄い白雲がかかっており、乱視のせいもあり、汀子にとっては楕円の大きい月だ。
「それでも少しずつ月は遠ざかっているんだって」
 独り言をいつものように言う。
 
 和十の話を聞いてから、なんとなく筋道が見えてきたような気がする。安寧な人生に恵まれた自分が、ちょっと間が悪いような感じをずっともっていた。自分の力を正しく使わずに、怠けていた、まさに汀子が怠け者に対して辛辣だったことも恥ずかしい気持ちの裏返しだったのだろう。

   汀子は市長の妻として、新しいプロジェクトに積極的にかかわった。もちろん素人なので、目立たないところで手伝っている。しかし、次第にやはり上に押し上げられてきていた。それはそれで、汀子にふさわしい働きができる地位でもあった。

 人付き合いが苦手だと思っていたが、人の繋がりを求めるという立場に立つと、その目的が正しいと確信できると、面白いように見知らぬ人に話しかけられる。そして世間話を省略して、その人の本質にぐっとはいりこむこともできるようになった。しかも自分は自然体である。

 主にオーストリアとアイルランドの視察をかねて、夫婦で昼頃出立した。まもなくすると夜となり大満月が望まれた。
 まるで人工衛星から見るかのようだった。

   人類の善き面のみが見えるような気がした。

   その下の地上ではいくつものミサイルが、ウクライナ、イラク、シリア、ガザ、飛び交っていた。そのひとつがまた機体に当たってくるかも知れないのだった。 了

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