長生きしてね

 5月の連休に横山が実家に帰ってくることをゆう子に知らされたリノは、例のマックで5311時に落ち合うことにした。20分前に到着したリノは、オレンジジュースを購入し、いつもの窓際でゆう子と横山を待った。11時を少し回ったころ、自転車に乗ったゆう子と横山が能天気な笑顔で窓際のリノに手を振った。リノは、久しぶりに会う二人を見て、糸島に戻ってきてよかったと心から思った。二人がリノの前に腰掛けると、あまりの感激に涙が溢れてしまった。

 

 ゆう子は、リノの突然の涙に、とても大変な悩みの相談だと感じた。「リノ、大丈夫?二人がついているから、もう大丈夫よ。胸がスカッとするまで、洗いざらい話して」リノは、ハンカチで涙をふき取り、頷きながら答えた。「ありがと。涙が出たのは、悲しいからじゃなくて、嬉しかったから。久しぶりに、二人に会えて、嬉しくて」ゆう子は、ちょっと安心したが、横山を交えての相談があると言うことは、きっと、深刻な悩みだと推察した。「リノ、悩みがあるんでしょ。なんでも言って。頼りになる横山もいることだし」

 

 リノは、小さく頷き、深夜まで悩み考えた祖父のことを話すことにした。横山は、深刻な表情に変わったリノの顔を見つめ、じっと話し始めるのを待った。しばらく話の内容を整理したリノは、勇気を出して話し始めた。「相談って言うのは、おじいちゃんのことなの。二人も知っているでしょ。70歳一時金制度って。おじいちゃん、515日に、70歳になるの。おじいちゃんね、一時金もらうって。ママは、黙っているけど、私は、いや。おじいちゃんに、長生きして欲しいの。おじいちゃんの気持ちを変えさせる方法はないか、二人に知恵を絞って欲しいの。お願い」リノは、小さく頭を下げた。

 ゆう子は、あまりにも意外な相談に目を丸くした。リノは、一度決めると必ず実行する頑固さがあって、二年前の家出のときも、ゆう子は、家出を何度も止めたが、結局家出をした。家出の理由は、女癖の悪い義父にあったが、義父の仲居頭代理との浮気が原因で、両親は今年の2月に離婚した。母親、清子は、そのことを即座にリノに報告したが、リノの頑固さが邪魔をして、すぐには戻れなかった。ところが、先月、祖父の話を聞いて、いてもたってもいられなくなり、実家に戻ったのだった。

 

 清子は、再婚まもなく信介の女癖が悪いことに気付いたが、温泉旅館を守るため、じっと耐えていた。再婚したのには、深刻な事情があった。それは、旅館の改築のための5000万円の融資を受けるためだった。どこの銀行からも5000万円もの融資は拒否されたが、T銀行だけは、条件付で融資の申請を承諾した。その条件とは、T銀行の支店長、岸川信介との結婚だった。彼は結婚に三度も失敗し、原因は、すべて、浮気であった。

 

 清子は、古くなった本館を改築し、経営不振に陥った旅館を持ち直し、リノに旅館を引き継がせたかった。清子は、清水の舞台から飛び降りる決意で目をつぶって信介と再婚した。ところが、女癖は、再婚後すぐに現れ、まず、リノに矛先が向けられた。リノの浴室を覗いたり、また、リノの部屋にこっそり忍び込んでショーツを盗むというような変質者のようなまねを始めた。清子は、リノからそのことを聞かされ耐えがたかったが、涙をこらえて、ちょっとした冗談だと言って、リノの真剣な話に耳を貸さなかった。

 リノは、このままエスカレートすれば、レイプされるのではないかと不安に思い、家出を決意したのだった。家出してまもなく、ゆう子から居場所を知らされた清子だったが、すぐには引き戻そうとはせず、しばらく家出を許すことにした。家出の原因が、信介にあると察知したからだった。我慢していた清子も信介が仲居頭代理に手をつけたときには、堪忍袋の緒が切れた。現場を取り押さえた清子は、その日に、離縁を突きつけた。信介は、離婚を承諾したが、その代わりとして、融資返済の遅延が半年続いた場合は、現利息2パーセントを利息10パーセントにするという契約書にサインを求めた。

 

 清子は、極悪非道なことをして、さらに、ヤクザまがいのことをする信介を恨んだが、今離婚しなければ、子供たちが不幸になると思い、涙しながらサインをした。そのことは、祖父、幸太郎には報告したが、リノには、心配をかけてはいけないと黙っていた。幸太郎は、リノには黙っているように念を押されていたが、70歳一時金と倉庫の磁器、骨董品、絵画の売却で、返済のめどがつくと思い、その契約のことをリノに話してしまった。リノは、母親のつらい気持ちと一時金の必要性は、十分理解できたが、それでも、幸太郎を長生きさせたかった。

 

 ゆう子と横山は、唖然とした表情で、しばらく黙っていた。一時金制度のことはすでに知ってはいたが、今、リノから話を聞いて自分たちが直面する問題であることに気付いた。ゆう子は、何と返事していいか分からず、右横の横山の顔を覗いた。横山は、一度頷き話し始めた。「一時金制度は、本人が決めることになっているのよ。電気椅子の通電ボタンを押すのは、本人なのね。だから、おじいちゃんが、もし、一時金の選択をしていたとするならば、おそらく、気持ちは変わらないと思う。きっと、ずいぶん悩んだ挙句の選択だと思うの」横山は、リノの期待にこたえられない返事をしたが、この答えが現実だと確信していた。

ゆう子は、何も言えなかった。自分の家族には祖父母はいず、自分が70歳になったときの一時金について考えたこともなかったからだ。「ゆう子は、どう?」リノは、ゆう子の意見を求めた。ゆう子は、俯いてしまった。しばらく、考えて、とにかく自分の考えを言ってみることにした。「70歳一時金って、ピンとこないの。もし、自分が70歳になったら、一時金を選択すると思う。そうでしょ、家族のためだし、非国民になりたくないし。リノも、そうじゃない」ゆう子は、リノの顔を見つめた。

 

 リノは、自分に振られ、言葉につまったが、はっきり気持ちを伝えることにした。「大金持ち以外のほとんどの老人は、70歳になると一時金をもらうじゃない。その理由は、非国民と言われたくないからじゃない。確かに、1000万円は、借金している家族にとって、とても必要よ。だからと言って、自殺を選んでいいの。お金は、家族みんなが頑張れば、どうにかなるじゃない。たとえ、非国民といわれても、長生きするべきよ。私が70歳になったとき、どちらを選ぶかは、今よく分からないけど。とにかく、おじいちゃんには、自殺して欲しくないの」リノは、自分の気持ちを整理できなくなってきた。

 

 横山は、毅然とした態度で話し始めた。「リノが言っていることは、決して間違いじゃないと思う。人は、誰でも、別れを悲しむものよ。でも、自分の死を決めるのは、他人じゃなくて、本人なのよ。おじいちゃんが、本当に一時金受給を決意したのならば、おじいちゃんの気持ちを尊重すべきだと思う。徴兵に行くのも、非国民になりたくないからよ。それと同じじゃない、おじいちゃんも」リノの顔は次第に紅潮し始めていた。

春日信彦
作家:春日信彦
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