ボルジアの紋章

DECENNAL I

E per pigliare i suoi nemici al vischio
Fischiò soavemente, e per ridurli
Nella sua tana, questo basalischio.

DECENNALI, I.1 MACCHIAVELLI


そして彼の敵ども2を一掃する為に
彼は優しげな口笛を吹き、おびき寄せた
彼のねぐら、このバジリスクの巣に

ニッコロ・マキャヴェッリ『十年史、第一部』より


  1. マキャヴェッリ作の叙事詩『DECENNALI(十年史)』は、1497年から1504年までのイタリア史を三行詩の形式でまとめたもの。1504年に執筆され、フィレンツェ共和国の大政治家アラマンノ・サルヴィアーティに献上された。 

  2. この節には1502年12月にシニガッリアで発生した、チェーザレ・ボルジア配下の傭兵隊長達による叛乱事件について書かれている。 

 ウルビーノの魔術師

 彼がものした論中の犀利なる一章、君主による部下の選択に関する記述において1――それは私がこれからお話しする主題でもあるが――ニッコロ・マキャヴェッリは、人間の知性には三つの種類があると看破している。第一は自身の才によって自主的に事を理解するもの。第二は少なくとも他者が理解した事を認識し得るもの。第三は自力で理解できぬばかりか他者が論証して見せても理解できぬというものである。最初のものは独創的かつ生産性があるゆえに希少で優秀な階層である。第二のものは真の生産性はなくとも、少なくとも再生産を行う能力を持つゆえに価値がある。そして第三は、ただ生存の為に――そしてしばしば己を利する為に――他の二つを蝕むだけの寄生木ヤドリギに類する、全く価値のない存在であると。

 だがここにまだ、かの学識高く明敏なるフィレンツェ人が見落とした第四の階層、前に述べた三つの階層の特質を合わせ持つ階層がある。私はこの階層に名高きコルビヌス・トリスメギストス、創造性と愚かさ、欺瞞と単純性、策略と妄信、狡猾と無邪気、巧緻と率直の奇妙な混合物を置き、読者諸賢の判断にまかせたいと思う。

 当初、コルビヌス・トリスメギストス(知の三部門を知る者)は――その名が示すように――彼の修めた自然学と薬学、そして魔術の秘儀への精通によって、その名声を水上に波紋が広がるがごとくにイタリア中に広めていった。

 たとえば彼は、太陽が天蝎宮にある時期――最もその本質が高まる状態――の日中に捕らえた蠍の油はペストの確実な治療法であるのを知っていた。彼は脾臓腫大しゅだいには山羊の脾臓を使用し、患部に二十四時間それを当てた後に太陽にさらすというのが信用のおける処置であると知っていた。これにより、山羊の脾臓が乾燥し萎むにつれて患者の脾臓も減少し、健康が回復するであろうと。彼は狼の皮膚の灰が禿の特効薬である事も知っていたし、鼻血を止めるにはオリーブの樹皮の煎じ液を、若い患者には若木から、老いた患者には老木から採られた樹皮を使用すれば比類なき効果がある事も知っていた。彼は大蛇を葡萄酒ワインで煮込んで食せば、蛇が脱皮によって皮膚を新たにする力を取り入れる事により、らい病患者の健康を回復させ皮膚を治癒する事も知っていた。

 同様に彼は毒物と魔術にも精通しており、霊を呼び出して、必要とあらば死者を蘇らせる事すら可能にする己の力についても――彼は極めて率直かつ腹蔵のない性質だったので――隠し立てしなかった。彼は不老不死の霊薬エリクシル・ヴィタエを発見し、当人の主張する処によれば二千年という驚異的な年齢を重ねた現在においても尚、若く壮健なままであった。そしてもう一つの霊薬、天上の水アクア・セレステ――まことに複雑にして微妙なる蒸留物――は、老人の失われた若さを取り戻し、五十年を若返らせるものであった。

 これら全てにとどまらず、更に膨大な知識を「三重に偉大なる賢者」ことコルビヌスは有していたが、しかしサドカイ派2の思想を継ぐ者達の一部は、コルビヌスの知識は当節の人々の無知につけこんで食い物にできる程度のものに過ぎぬという見解を広めんと努めた。同様に彼等の主張によれば――コルビヌスの信奉者達は、それを偉人が常に被る悪意と妬みによるものと片付けたが――彼の本名はただのピエトロ・コルヴォ、フォルリの酒場女であった母親に付けられた名前であり、母親自身ですら彼の父が誰であるのか見当もつけられぬのだという。そしてこれら嘲笑者達は、彼の二千年生きたという主張は根も葉もない法螺ほらであると付け加えた。何故ならば、故郷の貧民街で暮らす身なりの悪く汚らしい浮浪児であった頃の彼を覚えている者も、未だ多くが存命であったのだから。

 しかしながら、そのような諸々もろもろにもかかわらず、彼がウルビーノ――イタリアのアテネというべき芸術と学問の発祥地に住まいながら、名声を博し相応の評判を獲得して、次第に富を積み上げていった事実を否定する事はできない。そして富とは結局の処、多数の庶民にとっては内なる恩寵の表出であり、疑う余地なき価値の証明となった。少なくとも彼等にとっては、コルビヌスは恩寵に値する名士なのであった。

 彼の家はサン・ジョバンニ祈祷堂の裏手を通る狭い路地にあり、もたれあうように建物がひしめく坂道をもう少し上れば、わずかに見えていた細い帯状の空を締め出すようにして建つゴシック様式のアーチに突き当たるだろう。

 都市のこの地区は、魔術の研究者にはうってつけの場所であった。ヴァレンティーノ及びロマーニャ公爵チェーザレ・ボルジアが市の支配者となった時、ウルビーノの大道は武装した兵達の足音に揺れ、穏やかな学者肌のグイドバルド公3は逃亡し追放者となった。だが狭い小路を入った先の、むさくるしい住居がひしめく界隈にまでは、静寂を妨げる悩みの種はやって来なかった。その為、コルビヌス・トリスメギストスは心置きなく己の研究を追求し、粉をすり潰し、偉大なる霊薬を蒸留する事に専念していた。

 其処にはイタリア各地から、彼の助けと智慧を求める者達がやって来た。ウルビーノがチェーザレ・ボルジアに占領されてからおよそ二週間後、うるわしき六月の夜に其処を訪れたのは、二人の従僕を伴った貴婦人、ビアンカ・デ・フィオラバンティであった。このビアンカという貴婦人は、難攻不落の地勢に拠る事で、破竹の勢いのヴァレンティーノ公爵チェーザレに未だ抵抗を続けているグイドバルド領内最後の要塞サン・レオの主人あるじ、高名なるフィオラバンティの令嬢であった。

 天は如何に多くの祝福をマドンナ・ビアンカに与えたもうたか。富も若さも令名も彼女のものであり、その教養と美貌は詩歌の主題となるほどであった。だがしかし、これら全ての天の賜物にもかかわらず、まだ彼女には欠けた何かがあった――他の全てを無価値とする何かが。その夜、いささか脅えながらも、ひとりの嘆願者として彼女をコルビヌス師の恐ろしげな家へと導く事となった何かが。人目を引かぬようにと、彼女は仮面を着け、二人の従者のみを伴って注意深く歩いた。狭い路地に入ると、彼女は従者の一人に掲げていた松明を消すよう命じた。それから彼等は闇の中を、荒い玉砂利に足をとられそうになりながら魔術師の扉へと辿り着いた。

「ノックなさい、タッデオ」彼女は従者に命じた。

 そして彼女の言葉は最初の奇跡を呼び、これによりマドンナ・ビアンカは、コルビヌス師の操る超自然の力について疑う余地なき確信を得るに至った。

 従者が扉に向け一歩踏み出したのと同時に、その扉は突然ひとりでに開き、そして廊下には白い礼服をまとった悠然たるヌビア人が角灯ランタンを手にして立っていた。彼はその角灯ランタンを持ち上げて、黄色い明かりがマドンナと従者達を照らすようにした。これは無論、奇跡などではなかった。奇跡はもう一人の出現にあった。まるで玄関そのものが周囲の闇から突如として現れたかのように、其処には黒いマントをまとい、頭頂から爪先まで黒尽くめの、顔全体も黒い仮面に隠された長身の人物が立っていた。この人物は一礼すると、中に入るようにとマドンナに手振りで示した。

 彼女は不安に後ずさった。妖しき場所を訪れて、妖しき現象を予期していた彼女の目には、それが自然に反する妖しき現象と写り、自分よりわずかに先んじてコルビヌスを訪ねた者がもう一人いる事や、ノックする前に扉が開かれたのは、彼が紳士の礼儀として見るからに高貴な婦人の便をはかったに過ぎないなどという考えは全く心に浮かばなかった。

 彼女は心の中で神に祈ったが、それによって黒尽くめの側近――彼女は彼をそうみなした――が消え失せる事もなく、この者は悪魔的な存在ではないらしいと考えて勇気を奮い起こすと、衝撃で膝を震わせながらも彼を追い越し中に入った。

 側近と思われた男は彼女の背後にぴたりと続き、従者達がその後を追ったが、彼女が勇猛さを見込んで選んだ男達であったにもかかわらず、彼等は共に何かに脅かされたかのようであった。暗がり、奇怪な黒衣の紳士、にこやかに笑うヌビア人、そのむかれた歯と眼球、それらが彼等に不安を与えていた。

 ヌビア人が扉を閉めて施錠すると、金属音を響かせて閂は落ちた。それから彼は振り向くと、改まって訪問の目的を尋ねる為た。それに応じて仮面を脱ぎ、答えたのはかの貴婦人であった。

「私はビアンカ・デ・フィオラバンティ、学識高きコルビヌス・トリスメギストス様をお尋ねして参りました」

 ヌビア人は静かにお辞儀をし、後に続くよう彼女に指示すると、長い石造りの廊下を進んでいった。彼が歩く度に角灯ランタンが揺れ、煤けた壁の上に黄色い光の円盤が勢いよく踊った。そして一同は光沢のある大きな金属の鋲が打たれた頑丈な樫木の扉まで至り、其処から無人の待合室へと入った。床の上には乾燥したイグサが敷かれ、木製の長椅子が壁際に置かれ、どっしりとした四脚の机の上ではオイルランプに赤い炎が揺らめき、黒煙を槍旗ペノンのようにはためかせながら弱々しい明かりと強い臭気を放っていた。

 彼等の先導者は茶色い手で長椅子を示した。

「お供の方はここでお待ちになられますように」彼は言った。

 彼女は頷くと従者達へ手短に命令を伝えた。彼等は従ったものの、如何にも不本意そうな様子であった。それからヌビア人は部屋の奥から二番目の扉を開けた。金属環のぶつかり合うぎくりとするような音を立てながら、彼は重いカーテンを引き、初めは黒い間隙でしかないと思われたものを露わにした。

「畏れ多きコルビヌス・トリスメギストス様が、お入りになるようにと仰せです」そう彼は伝えた。

 怖気づいたビアンカ嬢は後ずさった。しかし間隙に目を凝らすうちに暗がりの一部は払拭され、彼女は徐々に室内の調度がうっすらと見えるようになったのに気づいた。勇気を奮い起こして自分が魔術師の技に求めた大きな恩恵をよくよく考え、彼女は恐れを克服してその神秘的な部屋に入った。

 彼女の背後にぴたりと付いて、終始無言のままで仮面の紳士が入室した。彼は魔術師の館の一員であり、彼の同席が決まりごとなのであろうと思い、彼女はそれに異議をとなえなかった。ヌビア人の方も、その紳士の仮面と豪華な外套を見て彼女の同伴者であろうと判断し、入室を妨げようとはしなかった。

 かようにして両者は共に薄暗い部屋に入った。彼等の背後で再びカーテンが耳障りな音を立て、扉は陰鬱な金属音を響かせた。

 マドンナは己のせわしない呼吸を、甚だしく鼓動する心臓を強く意識した。何処ともしれぬ光源から、天井に沿って一条の光が弱々しく彼女の周囲を照らし出した。見事な彫刻をほどこされた大きな三、四脚の椅子、彼女の目前の壁に対して置かれた簡素な木製の机、夥しい数の奇妙な硝子ガラスや金属の容器は、ぼんやりとした光の筋を受けてほのかに輝いていた。窓は見当たらなかった。部屋には天井から床へと黒い襞のある布が吊るされていた。其処は墓のように冷たく静かであり、魔術師の気配はなかった。

 その場所の不気味さは彼女の怖れを煽り分別を失わせ、そして想像力を解き放った。彼女は恐ろしきコルビヌスの到来を待つ為に座った。そして二番目の奇跡が起きた。何気なく、彼女に付き添う為に実体化した黒衣の側近は何処にいるのかと周囲を見回すと、驚くべき事に彼は掻き消されたかのようにいなくなっていた。最初に彼女の目前で玄関に出現したのと同じ奇怪さで、彼は今再び掻き消えて、周囲の闇に溶け入ってしまったのだろうか。

 マドンナがその驚きで息を呑むと、次にわずかに残っていた理性を吹き飛ばすにはまだ足りぬかとばかりに、部屋の中央で突如大きな火柱が上がり、それが一瞬、彼女の目を眩ませて恐怖の叫びを搾り出させた。炎は上がった時と同じく突然に、空気中に硫黄の悪臭を残して消失した。そして次に声が、深く朗々とした、そして非常に落ち着いた声が、彼女の耳に響いた。

「恐れる事はない、ビアンカ・デ・フィオラバンティ。私はここだ。何用あって私を訪ねた?」

 哀れなまでに神経過敏な状態になった貴婦人は声のする方を向き、そして三番目の奇跡を目撃した。

 徐々に眼前の見通しがきかぬ闇の中――壁以外ないと思い込んでいた処――に、彼女はひとりの男を、舞台の一場のような空間を、それらが次第に形を成してゆく様を見守った。それらが緩やかに具現化するかのごとき印象を与えたのは、先ほどの光の明滅で眩んだ視力がようやく回復している為であろうなどという考えは、やはり彼女の心には浮かばなかった。間もなくそれは完成された――彼女の目の焦点が合い、はっきりと見えるようになったのである。

 彼女は巨大な分厚い本が開かれたまま載せられている、小さな机か説教壇のようなものを目にした。本の頁は年月を経て黄ばみ、大きな銀の留め金をかすかにきらめかせている灯は、古代ギリシア風の丈高い青銅ランプに付いたくちばし状をした三つの受け皿で燃える炎であり、其処ではほのかな芳香を放つ燃料が焚かれていた。ランプの足元には人間の頭蓋骨が不気味に笑っていた。机の右には大量の木炭が明々と燃えている火鉢を支える三脚があった。その机を前に、高い背もたれの椅子に座しているのは、緋色のガウンをまとい裏返された深鍋ソースパンのような帽子をかぶった男であった。その男の顔はげっそりと痩せ、鼻と頬骨がはなはだしく目立っていた。額は高く狭く、赤い顎鬚あごひげは二股に分かれ、そして狡猾さの現れた両眼は神秘的な洞察で微光を発しつつ訪問者をひたと見つめていた。

 彼の背後の棚にはるつぼクルーシブル蒸留器アレンビックが置かれ、その上の棚には薬瓶や櫃、蒸留フラスコレトルトが所狭しと並べられていた。だがそのような全体像は瞬間的に無意識下で受け取った印象であった。彼女が一心に見つめていたのは、その男自身であった。同時に彼女はそれまで目にしたものの不気味さによって過敏になり、夢の中にでもいるかのようにひどく混乱していた。

「話すがよい、マドンナ」魔術師は穏やかにうながした。「私はそなたの願いをかなえる為にここにいる」

 それは励みになったが、彼の奇怪な出現について多少なりとも説明があれば、より心強く思えたかもしれない。気圧けおされたままに彼女はようやく口を開いたが、その声はおぼつかなげであった。

「私は貴方のお助けを必要としております」彼女は言った。「本当に助力が必要なのです」

「お助けしよう、マドンナ。我が膨大なる知識の総てによって」

「あな――貴方は大いなる智慧をお持ちなのでしょうか?」彼女は半ば質問し、半ば確認した。

「無限の海も」と、謙虚にも彼は答えた。「我が知識ほどには広くも深くもないであろう。そなたの求めるものは何であろうか?」

 彼女は今や自制を取り戻していた。そして彼女が尚も怯み、躊躇しているとしたら、それは彼女の切望しているのが生娘があけすけに話せる類のものではなかったがゆえであった。彼女は徐々に核心へと近づいていった。

「貴方は秘薬に通じておられるとの事ですが」と彼女は切り出した。「それは、肉体だけでなく精神にも作用するのでしょうか?」

「マドンナ」彼は冷ややかに答えた。「私は老化を阻止する事も、死者の魂を呼び戻して肉体を蘇生させる事もできる。そしてそのような技に比べれば、乗り越えねばならぬ自然の摂理ははるかに少ない、こう申せば充分であろう」

「けれども貴方は――」彼女はためらった。しかし己を駆り立てる困窮によって最後に残った恐れも忘れ、遂に彼女は本題に乗り出し、立ち上がると彼に近づいた。「貴方は愛を獲得する事ができるでしょうか?」彼女はそう尋ね、深く息を吸った。「貴方は冷たい心に情熱をかき立てて、無関心を思慕で満たす事ができるのでしょうか?それが――それがおできになりますか?」

 彼はしばしの間、彼女について思い巡らした。

「それがそなたの求めるものか?」そう問う彼の声には驚きがあった。「そなたが必要としておるのか、あるいは誰か別の者か?」

「私が必要としているのです」彼女は小声で答えた。「私自身の為に」

 彼は深く座ると、彼女の青白い美貌について更に熟考した。狭い額、金のヘアネットでまとめられた黒く艶やかな髪の房、素晴らしい瞳、誘うような唇、気品ある卓越した造形を。「魔術にはそなたの望みをかなえる為の技はある」彼はゆっくりと告げた。「だが、そなたの天与の資質を持ってすれば、魔術になど頼る必要はあるまいに。その男は唇と瞳の魔力に抗う事ができるのだろうか――その、そなたに屈服させる為に私の助力を熱望する男は?」

「ああ!あの方はそのような事などお考えになりませんわ。あの方の御心は戦と武具に向けられています。あの方の唯一の恋人は野心なのです」

「その男の名は」賢者は尊大に尋ねた。「彼の名は何と申す――彼の名前と身分は?」

 彼女は視線を落とした。うっすらとした朱が彼女の頬を染めた。彼女は突然の狼狽に躊躇した。しかし拒絶に苛立ったコルビヌスが助力を思い直さぬようにと、マドンナは要求された情報を思い切って口にした。

「その方の名は」口ごもりながらも彼女はようやく打ち明けた。「ロレンツォ・カストロカーロ――ウルビーノの紳士で、ヴァレンティーノ公爵の御旗に仕える傭兵隊長コンドッティエーロです」

「美に盲目なる傭兵隊長コンドッティエーロ、そなたの艶やかな美貌も目に入らぬとはな、マドンナ?」コルビヌスは叫んだ。「何と異常な生き物であろうか、かような畸形ルスス・ナトゥラエには余程の劇薬が必要であろうよ」

「充分な機会がなかったのです」彼女はほとんど自己弁護のように説明した。「本当に、状況は私達にとって不利に働きました。私の父はサン・レオの城主で、グイドバルド公爵に忠誠を捧げております。敵の旗に仕える人に会う機会がわずかしかないのは当然でしょう。ですから私は、彼を私の許に導く為にできる限り全ての手を尽くさなければ、二人の道が交わる事はないのではと恐れているのです」

 コルビヌスはしばし問題を静かに熟考し、それから溜息をついた。「克服するには厄介な難事と見た」と狡猾な魔術師は言った。

「けれども貴方は、私がそれに打ち勝つのをお手伝いくださるのでしょう?」

 彼のきらめく両眼が彼女をじっと見つめた。

「それは高くつくであろう」彼は言った。

「それが何だとおっしゃいますの?私がこのような問題で対価を惜しむと思われますの?」

 魔術師は身を退くと顔をしかめ、重々しい態度で自身を覆った。

「聞け」彼はいささか辛辣しんらつに言った。「ここは商家ではない。私の知識と術は人類総ての為にある。売り物ではないのだ。私はそれを必要とする者達には惜しむ事なく対価を求めずにそれらを与える。だがもし私が多くを、あまりに多くを与えたならば、私はもはや気前よく振る舞う事ができなくなるだろう。私が辺境の地から集めた素材で作った薬はしばしば恐ろしく高価になる。そなたの望みをかなえる為の薬であるゆえに、その対価はそなたが負うのだ」

「貴方はそのような薬をお持ちなのですね!でしたら……」突然の期待の高まりから、彼女は拳を握り締めて叫んだ。

 彼は頷き肯定を示した。

「惚れ薬の材料はありふれたもので十分な上、基本的な調合は容易だ。愚か者をカモにしている田舎の醜い老魔女にすら作る事はできよう」彼の侮蔑的な声の調子は彼女をひるませた。「だがそなたの場合には乗り越えるべき大きな障害があり、そなたの好意が報われるのは不可能に近いとも思われるがゆえに、尋常ならざる効き目の薬が必要だ。そのような薬を私は持っている――ゆえに希少なものとはいえ、入手は困難ではない。その主な成分はアフリカの珍鳥――アヴィス・ラリッシマ――の脳よりの抽出物だ」

 熱っぽい指で彼女は帯からずっしりとした財布を外し、音立てて机上に放った。それはにやにやと笑う骸骨にぶつかりながら落下し、そして人のいとなみの二つの主人あるじ――死と金――のごとくに隣り合い、その位置を定めた。

「50ドゥカート!」彼女は興奮にあえぎながら言った。「それで足りましょうか?」

「恐らくは」と、彼は完全に軽蔑的な調子で言った。「それで足りなければ、私が必要な分の埋め合わせをしておこう」そして、単なる金銭的利益に対する軽蔑を雄弁に示す指の仕草で、彼は財布を脇に押しやった。この取引における瑣末なものを。

 彼女は過分な援助に抗議しようとした。しかし彼は威厳をもって彼女の抗議を制した。彼が立ち上がると、緋色の外衣ローブの胴に締められた、黄道十二宮の星座の意匠をあしらった幅広の黒い帯が現れた。彼は棚の処に行き、様々な大きさをした青銅の匣の中からひとつを手にとった。彼は机に戻ると手にした匣を置き、それを開いて小さな薬瓶――密閉された小さな硝子ガラスの細長い管――を取り出した。

 其処には一筋の深い琥珀色の液体以外のものは入っていなかった――大目に見積もっても十二滴。それが灯りで金色に輝いて見えるように、彼は管をかかげた。

「これが」と彼は言った。「我がエリクシリウム・アウレウム、黄金の霊薬、希少にしてまことに精妙なる霊液であり、そなたの必要とするものだ」コルビヌスは彼女にそれを無造作に差し出した。

 感謝と喜びの小さな叫びを上げて、彼女は小瓶を受け取ろうと貪欲に腕を伸ばした。しかしビアンカの指が掴む寸前、彼はそれを後ろに引っ込めると彼女を制する為に重々しく手を上げた。

「よく聞きなさい」彼はそう命じ、鋭い目で彼女を凝視した。「この黄金の霊薬にそなたは自分の血をきっかり二滴加えるのだ。そしてそれをロレンツォ殿の葡萄酒ワインに混ぜて、彼が飲むように仕向けなさい。だが、全ては月が満ちている間に行わねばならぬ。月が満ちるにつれて彼の熱情も高まり、その熱情は彼の内に留まるであろう。そしてその月が再び欠け始めるより前に、たとえ全世界が彼とそなたの間に横たわろうとも、ロレンツォ・カストロカーロはそなたの元にやって来るであろう。そして彼はそなたの完全なる、絶対服従の奴隷となるであろう。今は丁度、好都合な時機。行け、そして幸福を手にするがいい」

 コルビヌスが今度はそれを手放したので、彼女は小瓶を受け取ると一気に感謝の言葉をまくしたてた。

 しかし彼は尊大な態度で手を振り、険しい顔つきで礼の言葉をさえぎった。彼は傍の小さな銅鑼を叩いた。

 扉の開く音がした。カーテンがガチャガチャと音を立てて分かれると、彼女を再び案内する為に待機していた白い礼服のヌビア人が、戸口で回教式に額手ぬかでの礼をしながら現われた。

 マドンナ・ビアンカは偉大なる魔術師にお辞儀をすると、彼の威厳に圧倒されつつ部屋を辞した。彼女は心ここにあらぬ様であり、そしてヌビア人は更に戸口で待った――彼がビアンカ嬢と共に入室を許した男を。しかしコルビヌスは使用人が下がらずにいる理由を知らなかった為、彼に出て行くようにと厳しく命じた。再びカーテンは引かれ、そして扉は閉じられた。

 独りになると、魔術師は威圧的でもったいぶった見せ掛けをかなぐり捨て、高尚で超然とした態度を卑俗ながめつさに改めると、至極当然な人の常として、マドンナ・ビアンカが残していった財布の中身に人間的な興味を抱いた。巾着の口を広げ、彼は金色の内容物を全て魔術書の広い頁の上に空けた。彼はきらきらと輝く大量の金貨を広げると愛おしげにそれを指で玩び、赤い顎鬚あごひげの陰でクスクス笑いを漏らした。すると突然、彼のクスクス笑いに、短く、不意の、軽蔑的な、そして不吉な笑いが共鳴した。

 驚きに息を呑んだコルビヌスは、視線を上げると金貨を庇う為に手をその上に広げ、目を思いがけぬ恐れ、彼が目にしたものにより膨れ上がった恐れで見開いた。彼の眼前、小室の中央は、突如として現れた黒尽くめの背の高い人影に占められていた――黒い外套、黒い帽子、黒い仮面、其処から二つのかすかに光る目が彼をじっと見つめていた。

 総毛立ちながら震えおののき、頬を蒼白にし、口と目をだらしなく開け、これまで彼が幾度も他者の内に引き起こしてきた恐れなどとは比べ物にならぬ恐怖の虜となって、魔術師はその怪人を凝視し、そして――無理もない事であるが、打ち明けた話をすれば――遂に魔王が己の魂を取り立てにやって来たかと思い込んだ。

 沈黙が落ちた。コルビヌスは幻影に向かって誰何すいかしようと試みた。しかし勇気はくじけ、襲い来る恐怖が彼の口をふさいだ。

 その人物は静かな足取りで、おびやかすかのように進み出た。魔術師の膝からは力が抜けた。彼は背もたれの高い椅子に沈み込むようにして座ると、死神が地獄へと連れ去るのを待った。少なくとも、かように彼は己が何に値するかを自覚していたのである。

 幻影は机の前、コルビヌスが手を伸ばせば届く距離で遂に立ち止まり、そして声が、なぶるような、しかし確実に人間のものである声が呪縛を解いた。

「お目に掛かれて光栄だ、三重に偉大なる賢者よ」それは言った。

 どうやらこの訪問者は死すべき運命さだめの人の子であるらしい、と理解するまでに、コルビヌスは若干の時間を要し、彼が多少なりとも冷静を取り繕うまでには更に多くの時間がかかった。

 口惜しさの兆しと恐れの名残が入り混じったまま、彼はようやく口を開いた。

「汝は何者ぞ?」彼は叫んだが、懸命に豪胆を装ったその声は、かん高く震えていた。

 外套の下から、金糸で唐草模様アラベスクが刺繍された漆黒の天鵞絨ビロードにぴったりと包まれた優美な姿が現れた。大粒の炎のようなルビーを散りばめた帯には、柄と鞘に豪奢な細工をほどこした長く重量感のあるダガーが下がっていた。黒い天鵞絨ビロードの手袋の甲からはダイヤモンドが下がり、幾つもの水滴のようにきらめいて男の衣装の昏い輝きの総仕上げをしていた。その片手を上げて外した仮面の下に現れたのは、若々しく精悍で高貴な、ヴァレンティーノ及びロマーニャ公爵チェーザレ・ボルジアの顔であった。

 コルビヌスは瞬時に男が何者であるかを悟った。そしてそれを悟ると同時に、初めに想像した通りに訪問者が悪魔であった場合と一体どちらがましであろうかと考えた。「公爵様!」彼はひどく驚き、ひどく不安げに叫んだ。そして驚きのあまり思わず口をついて出たのは、あらゆる秘儀を修めた者にしてはあまりに愚かな質問だった。「どのようにして中にお入りになられたのです?」

「私にも魔術の心得があるのでな」黄褐色の髪をした若き公爵ドゥーカは言ったが、その声音と魔術師に向けた微笑には嘲りが含まれていた。

 チェーザレは、彼の使った魔法とは単にマドンナ・ビアンカ・デ・フィオラバンティの同伴者を装って部屋に入り、そして次にコルビヌスが虚仮こけ脅しの仕掛けに利用した黒いアラス織のタペストリの後ろに静かに滑り入っただけであるなどと、わざわざ説明する要を感じなかった。

 しかし魔術師は誤魔化されなかった。偶像を作る者はその偶像を崇拝したりはしないのだ。魔術というものの真相――掛け値なしの真相――をコルビヌスは過たず理解しており、それゆえに彼は一瞬にして、公爵が入室した手口は超自然の技などであるはずがないと思い至った。後でヌビア人を厳しく問いただし、次第によっては同じ程度の厳しさで鞭打ってやろう。それまでは公爵自身に集中しなければなるまいが、しかしコルビヌスは――己を悪党と自覚するだけあって――従順とはほど遠い男だった。

 だがたとえ頑迷であるにせよ、彼は尽きる事なき厚かましい言動の数々を取り揃えた店の主人であり、すぐさまそちらに無理やり方向転換した。一時的な失態を取り繕う為に、彼は公爵に負けず劣らずの謎めいた微笑を浮かべた。彼はそそくさと金貨を巾着財布に突っ込んで、床にこぼれ落ちて転がった分は無視した。その巾着を傍らに放ると、彼は貴人を立たせたまま自身の椅子に留まって、長い二股の顎鬚あごひげを撫で付けた。

「貴方の術と我が術の間には、いささかの違いがあるようですな」彼は陰険な当てこすりを述べた。

「さもなくば私はここにおるまい」公爵は答え、そして唐突に訪問の目的を切り出した。「聞く処によると、そなたは死者を蘇らせる霊薬を発見したそうだな」

「その通りでございます」自信をもって魔術師は答えた。彼は自制を取り戻していた。

「そなたはそれを実験して確かめたのか?」チェーザレは問うた。

「キプロスにて三年前に、私は死後二日が経過した男を蘇生させました。その男は未だ存命ゆえ、それが証明となりましょう」

「そなたの言質だけで充分だ」公爵は言った。その皮肉の色は巧みに忍ばされていた為に、コルビヌスは果たしてそれは本当に皮肉であったのか判断に迷った。「必要とあらば、きっとそなたは己の命をもって証明して見せるのであろう?」

 コルビヌスは頭頂から爪先まで震え上がったが、尚も豪胆な返答をせざるを得なかった。

「必要とあらば、そういたしましょう」

 ヴァレンティーノ公爵は満足げに息をつき、コルビヌスは気を取り直した。

「その霊薬は手元にあるのか?」

「人間ひとり――それ以上でも以下でもなく――を蘇生させるに充分なものが。それは稀少にしてまことに貴重なる液体で、そして御理解いただけましょうが、非常に高価なものでございます」

「思うにそれは、アフリカの珍鳥の脳から採ったのであろうな?」公爵は彼をからかった。

 コルビヌスはまぶたの痙攣以外に衝撃を受けた様子は見せなかった。

「いいえ、公爵様」彼は冷静に返答した。「その原材料は――」

「かまわぬ!」公爵は遮り、「それをもて!」と命じた。

 魔術師は立ち上がると棚に向かい、其処でしばし目当てのものを探した。それから彼は血のように赤い液体の入った小瓶を携えて戻って来た。

「こちらにございます」そう言って彼が細長い管を光にかざすと、それはルビーのように輝いた。

「死者の口をこじ開けて咽の奥まで霊薬を注ぎます。そしてすぐに火の前で身体が暖められたならば、一時間以内にその者は生き返りましょう」

 ヴァレンティーノ公爵は手袋をはめた指でゆっくりと小瓶をとった。ひどく物思わしげな表情で、彼はそれを見つめていた。

「これは確実に効果があるのか?」彼は尋ねた。

「失敗はありませぬ」魔術師が答えた。

「死因にかかわらず?」

「肝要な器官が破壊されておりませぬ限り、どのように死を迎えようとも」

「毒による死からもか?」

「それは毒を溶かして散らしましょう、如何なる性質の毒であろうとも、酢が真珠を溶かすがごとくに」

「素晴らしい!」公爵はそう言うと冷たく計り知れぬ微笑を浮かべた。「もうひとつ問題がある、三重に偉大なる賢者よ」彼は思いにふけりつつ黄褐色の顎鬚あごひげを指で撫でた。「このイタリアで囁かれている噂がある。疑いなく、そなた自身がそなたの営む偽医者商売の箔付けを目的として広めたものであろうが、その噂とは、ジェム・スルタン4は教皇によって毒殺され、その毒――それが彼の命を奪うまでに、一ヶ月もの長期間、かのトルコ人の体内で効き目を現す事なく留まっていたという、まことに精妙かつ奇跡的な毒――は、そなたが聖下に献じたものであると」

 返答を待つように公爵はひと呼吸置き、コルビヌスは再び不安に震えた。その声の調子はあまりにも冷たく不吉であった。

「それは真実まことではありません、公爵様。私は聖下とお取引いただいた事も、毒薬を献上した事もございません。私はジェム皇子がどのようにして亡くなられたのかも存じませんし、私がそれに関わっているなどと口にした事もございません」

「ならば一体、如何なる次第でこのような話が巷に流布され、其処にそなたの名が挙げられているのだ?」

 コルビヌスは慌てて釈明した。釈明は彼が最も豊富な在庫を用意している商品であった。

「それはこのような次第でございましょう。私はこの種の毒に関する秘事を知っており、そして幾人かの者が過去に私からそれを求めました。それゆえに、恐らくは私がそれを持っている事を知り、そしてそれが使われたと考えた浅薄な者達が、理不尽にも彼等にふさわしい浅薄な結論に飛びついたのでしょう」

 チェーザレは微笑した。

「まことに明敏であるな、トリスメギストス」そして彼は厳かに頷いた。「そなたはこの種の毒を持っていると申したな?教えてはくれまいか、それはどのような性質のものなのだ?」

「公爵様、それは秘密にございます」というのが返答であった。

「かまわぬ。私は知る事を望む、そして私はそなたに尋ねた」

 その答には熱がなかった。極めて冷たかった――死のような冷たさであった。しかしそれは如何なる怒りよりも大きな強制力を持っていた。コルビヌスはもはや抵抗を諦めた。彼は慌てて返答した。

「主原料はトウダイグサの汁と粉末卵黄ですが、その準備は容易ではありませぬ」

「それを手元に持っているのか?」

「こちらに」魔術師は答えた。

 そして彼が惚れ薬――黄金の霊薬――を取り出したのと同じ青銅の匣から今度は杉の小箱を取り出すと、それを開いて公爵の前に置いた。其処にはきめ細かな黄色い粉が入っていた。

「1ドラクマを摂取すれば三十日後に、2ドラクマならば半時間後に死に至ります」

 チェーザレはその匂いを嗅ぎ、そして冷笑まじりに魔術師を見つめた。

「実験をしたい」と彼は言った。「どれだけの量があるのだ?」

「2ドラクマでございます」

 公爵はコルビヌスに小箱を差し出した。

「これを飲め」彼は穏やかに告げた。

 魔術師は先ほど述べた事柄に関する彼自身の確信を証明するように、恐慌をきたして後ずさった。「公爵様!」彼は仰天し叫んだ。

「これを飲め」チェーザレは抑揚を変えず繰り返した。

 コルビヌスは驚きに目を見張り、息を呑んだ。

「私に死ねと仰せなのですか?」

「死ぬ?そなたは、では、己が限りある命の人間であると白状するのか。三重に偉大なる賢者――偉大なるコルビヌス・トリスメギストスよ、その知識は無限の大海のごとく広範にして深く、病や肉体の衰えもほとんどないまま二千年のよわいを重ねてきたそなたが?この粉には不死者すら殺す力があるのか?」

 そして今、ようやくコルビヌスはチェーザレ来訪の真意がいずこにあるのかを悟った。ジェム・スルタンの死は毒殺だという噂を流したのは、確かに彼の仕業であり、あのように時間と距離を隔てながらトルコ皇帝の弟を殺害した秘薬をボルジア家の者に提供したのは自分であると吹聴したのも彼であった。その結果として、彼がそれと同種の毒と触れ込んだもの――霊妙なる究極の毒薬ヴェネーノ・ア・テルミニ、彼はそう呼んでいた――を、妻に飽きた夫や、もっと甲斐性のある夫への鞍替えを望む妻達にうってつけの商品として売りつける事で大きな利益を得ていたのであった。

 彼はようやく理解した。このような中傷的な噂から利益を得ている魔術師について知らされたチェーザレが、罰を与える為に彼を探し当てたのだと。そしてコルビヌス自身、その豊富な知識にもかかわらず、このような遅効性の毒薬の威力を確信していたのも事実であった。彼は古い写本の中に、多くの同種の処方に混じっていたその調合法を発見したのだが、このような事柄に関する1500年代チンクエチェントの盲信性、実際の処は彼の魔術に助けを求める客達の妄信によって、コルビヌスはそれを信じ込んだのである。

 公爵の邪悪な嘲笑、他者が服従せざるを得ぬように強いる並みならぬ力の感覚、その命令に逆らう無益さによりコルビヌスは救い難い恐怖で満たされた。

「公爵様……嗚呼!……私はおっしゃる通りの事が起こるのを恐れているのです!」彼は叫んだ。

「だとしても、そなたは一体何を恐れるのだ?まったく、下らぬ事を!そなたはこの霊薬が死者を蘇生させると申したであろう?私はそなたが息絶えた後、そなたにこの薬を飲ませると誓おう。さあ、私の為にこの粉を飲み、きっかり二週間死んでみせろ。自ら死ねぬと申すならば、私が手伝ってやろう。ペテン師としてそなたを絞殺刑に処す。その後に蘇生薬の恩恵を与える事は抜きでな」

「我が君――我が君!」不運な男はうめくような声で言った。

「さあ、よく聞くがよい」公爵は告げた。「もしもそなたが申した通りにこの粉が作用し、指定された時間にそなたが死んだならば、そなた自身の調合した霊薬をそなたの蘇生の為に与えよう。しかし、もしもそれがより速やかにそなたを殺したならば、そなたは死んだままに置かれるやもしれぬ。そしてもし、それによってそなたが死ななければ――私はそなたの首を絞め、ジェムの死因について偽りを聞かされた可能性のある、そなたの取引相手全員に事の真相を告げるであろう!それを拒むならば――」

 公爵の身振りは雄弁であった。

 コルビヌスは若者の美しく非情な目を見つめ、彼が意志を曲げる事に期待するのは全くの無益であると悟った。そして同時に、毒薬の危険を冒す方が絞殺による確実な死よりは幾分ましな地獄であるかもしれぬ事も。その上、彼の身につけた化学の術と迅速な吐剤の服用によって、命拾いする可能性もある――そして逃げるのだ。これは自分が調合した蘇生薬に対する彼自身の信頼がいかほどのものかを如実に物語っていた。

 震える手で彼は粉をとった。

「こぼすでないぞ」チェーザレが忠告した。「そのような事をしたとて、従者がそなたを絞め殺すだけだぞ、三重に偉大なる賢者よ!」

「我が君、我が君!」哀れにも魔法使いは震え上がり、彼の目は飛び出していた。「お慈悲を!私は…」

「毒か、絞殺か」公爵は言った。

 絶望のさなか、それでも尚、吐剤の事を考えて己を鼓舞すると、コルビヌスは血の気の失せた唇に箱の縁を当て、そしてチェーザレが彼を凝視する間、弱々しく口中にカビ臭い内容物を空けた。それをやり遂げると、蒼白になった魔術師は弱々しく椅子に沈み込んだ。

 公爵は静かに笑って仮面を着け直すと、長い外套を羽織り、扉を覆ったカーテンに向かって大股で歩いた。

「安らかに眠れ、三重に偉大なる賢者よ」彼は大いなる嘲りを込めて言った。「そなたは必ずやそちらを選ぶであろうと思っていたぞ」

 彼が立ち去る際のあまりの大胆、あまりの不敵と無関心を見て、激怒に襲われたコルビヌスは明かりを消して闇の中でチェーザレに挑みかかる猛烈な誘惑に駆られ、ヌビア人を助太刀に呼びつけた。彼が銅鑼を打ったのはその考えが念頭にあった為であった。しかしその残響が空中に響く間に、彼はその自暴自棄な考えを捨てた。それは毒を飲んだ彼が命を拾う為には何の益にもならない。チェーザレの邪魔をせずにそのまま行かせ、より速やかに立ち去らせれば、そしてチェーザレの立ち去るのが早ければ早いほど、コルビヌスが今の彼にとって唯一の希望である吐剤を使う猶予を得る事になるのだ。

 カーテンがさっと開き、ヌビア人が現われた。チェーザレは戸口で一瞬立ち止まると、尚も嘲りつつ肩越しに魔法使いに別れの言葉を投げつけた。

「さらばだ、三重に偉大なる賢者!」彼はそう告げると、笑いと共に姿を消した。

 コルビヌスは吐剤を探す為に半狂乱で棚まで急ぎ、ヴァレンティーノ公爵と全てのボルジア一族を猛烈に呪詛した。


  1. ニッコロ・マキャヴェッリ『Il Principe(君主論)』XXII. I segretari che i Principi hanno al loro seguito (第二十二章 君主の秘書官について)より。 

  2. ユダヤ戦争以前の時代に盛んであったユダヤ教の一派。パリサイ派とは対立関係にあり、霊魂の不滅や死者の復活を否定していた。 

  3. ウルビーノ公グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ(1472年1月17日 1508年4月10日)1497年にウルビーノより逃亡。サバチニの初期長編"Love at arms"は教皇軍によるウルビーノ包囲を背景にした物語である。 

  4. オスマン帝国皇帝スルタンメフメト世の皇子。帝位請求者。1495年2月25日に南イタリアのカプアにて死亡。 

イソノ武威
作家:ラファエル・サバチニ
ボルジアの紋章
0
  • 140円
  • 購入

1 / 25