ストリップ

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「やだなあ、どう考えたって僕が、あなたの商売敵になるわけないでしょう」

この会話を交わしている間じゅう彼女はあたかも、子供をあやす母親のような慈愛の微笑みをうかべてテーブルの上のきものを元通りにたたんでいる。

 

彼女の名前は、藤井粧子(ふじいしょうこ)という。変装願望のある大人のためのドレスショップ「月宮殿(げっきゅうでん)」のオーナー兼デザイナーである。艶やかな髪を上手にアップに結い上げ、女学生じみた白の禁欲的な雰囲気のスタンドカラーのブラウスに、パニエでふくらませた黒のチュールレースのスカートをまとい、足元は、小さい百合の花が散らしてあるベージュのタイツである。概して成熟した女性が、ロリータファッションをやろうものなら、ほとんど仮装行列めいた見世物感が漂うのだが、見事に自分の装いにしているのは当人が自分の作り出す印象をよく知っているからだろう。そのすらりとした上背には、たしかにきものよりはドレスが向いている。細面の輪郭、立体的な高い鼻、伸びやかな長いうなじには、往年の名バレリーナとでもいいたい貴族的なデカダンスな香りが立ちこめていた。

永瀬は彼女の前に来ると、このひとが最大の「月宮殿」の広告塔だなと、ほとほと感心せずにはいられない。

 

粧子は、白と黒の装いの中に一点、ウエストに幅広の生成り色のスエード製ベルトを締めているが、これは実はベルトではない。

ウエディングドレスのような非日常のドレスを着る際に用いる、かっちりとした布で出来ている「コルセット」である。背面は前よりも幅が広く、背中をカバーする。縦方向に穴が幾つも開いていて編み上げの紐を通す。紐をぎゅっと締めることでウエストがきっちりとくびれるという寸法だ。

彼女はこの種のコルセット(専門用語ではファンレーシングと呼ぶらしい)を色違いで幾つも持っており、その日の気分で着用するのだが、彼女の特異なところは、それを「服の下」ではなく、ブラウスやスカートの上につけて、ファッションの一部にしているところであった。永瀬は、初めて彼女と会った際に、このひとは腰にトラブルでもあって、医療用の胴衣をつけているのかと思ったが、ふと後ろを向いた際に胴衣の紐が、5色をよりあわせた美麗なシルクの紐であったので、お洒落用のものか、と気づいて眼を丸くした記憶がある。

 

それ以来プロモーションムービーなどで、女性がコルセットをつけて登場すると眼を凝らして見るようになり、今更ながらに、女性の肉体美とは素晴らしい、

男が欲情するのは当然だと変な納得をした。

 

さらに永瀬を驚かせたのは、この種のお洒落コルセットに男性用のものがあるということだ。よろしければ如何? ドレスを着た際に、女性ほどではないにしろ、綺麗なシルエットになるわ、と粧子に囁かれたが、価格が4万5千円ではさすがに考える。この趣味はとめどもなく金が出てゆく、ほとんどアリ地獄にはまっているみたいだと、自分を省みて苦笑せずにいられない。ウィッグに、靴に、アクセサリーに、香水。そして、8万円ほどのドレス……

 

しかし、この趣味……贅をこらした美しいドレスで装うこと……は、もはや自分の最大の喜びになっており、これをやめるのは死ねというのと同じだと、永瀬は心でつぶやく。

また、趣味の理解者が優しくて物わかりが良くて、ある時は王妃のように上品で高貴で、見ているだけでため息が出るオーラを発散させ、ある時は乳母のようにしっかりしている。またある時は、なんだか妙に世慣れないところがあって、そのギャップが見ていて面白くて興味深いのだ。

粧子の年齢ははっきり知らないが、恐らく自分と同年代、40歳を少々越えたあたりとみている。宝塚の娘役トップ目前まで来ていたが、さる大企業一族の子息に見初められて結婚したということ…だが長くは続かず離婚したということは、さりげなく聞かされた。

(だから、今は仕事が最大の生き甲斐とも……そこだけはおれとほとんど同じなのかな。だが、粧子はおれにないものを持っている…一度見たら忘れられない優美な容姿……何より女性であるという、それが羨ましい。男なんて、リーマンなんて、単色のスーツしか着られなくて本当につまらん)

永瀬は半分閉じていた瞼を引き上げてかっと見開いた。物思いに耽るうちに、大手町に着いたと気がついて足を踏み出した。ここで東西線に乗り換えて日本橋が永瀬の職場である。

10月の金曜日の日本橋には、いったいどれほどの数の「単色のスーツ」を着た男たちが往来するだろうか。5万人か、それ以上か。

そのなかの、何人が、自分と似たような趣味……思い切り美しいドレスを密かに身にまとう……を持っているのか、それを知っても何もならないが、なぜか永瀬は、自分だけではあるまいという気がした。それはほとんど確信に近かった。

しかし、元宝塚などという経歴の美女が手助けしてくれる「女装趣味」の男はおれ一人に違いない! 永瀬はスマホのストラップを直しながら、誰にともな

【第2章 エステに通う男】( 1 / 19 )

【第2章 エステに通う男】

く微笑して、大手町の駅を颯爽と歩んで行った。

 

 

【第2章 エステに通う男】

 

永瀬の密かな趣味は、2011年11月にさかのぼる。同年の東日本大震災。あの災害が起きたことで、いつ死ぬか分からないと強く感じて、ならば明日死んでも良いように、やり残したことをやりたい、と考えたとき、自然に浮かんだのが「女性のように、美しい、贅をこらした衣装を着てみたい」であったのだ。

十代の頃に自らの願望に気がついてはいた。高校2年になったある日、谷崎潤一郎の短編小説「秘密」を読んで、そのなかに、

「藍地に大小あられの小紋を散らした女物の袷が眼についてから、急にそれが着て見たくてたまらなくなった。」との文章に、ここに自分の同類がいるとは、と大きな驚きと喜びを感じたのだ。

 

だが、それだけだった。少年だった永瀬は、このような性癖が笑い者にならないか、つまはじきにならないか、という懸念の方が強かったし、谷崎潤一郎のような芸術的センスも文才もないことも自覚していた。だから、好きになって告白したガールフレンドにさえ自分の心の奥底は打ち明けなかった。ただ、彼女の着ているブラウスやスカートを、「わぁ、今日の服可愛いね」と笑顔で触るだけで。

 

ファッションデザイナーになれば美しい衣服と一緒にいられるという発想がなかったのは、多分に「一流企業に入れば生涯安泰」と考える家庭に育ったせいだと永瀬は思う。

一生懸命勉強し慶応義塾大学に入り殿馬証券に入社したことで、それはかなった。ただし、2008年から年俸制が導入されたので、来年の収入は3割減、という事態もあり得るのだ。

(リサーチ・アナリストなんて、契約社員に置き換えよう、という発想が出ても何の不思議もないからな、いまのご時世は)

(おれの能力は中途半端だ。ゴールドマンサックスやHSBC といったグローバル金融に転職するには英語力が足りないし、世間が刮目する金融商品をつくるには、数学力が足りない。多分おれの出世は頭打ちだ。殿馬ホールディングス
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深良マユミ
作家:深良マユミ
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