ストリップ

【第1章 コルセットの女】

或る街角で、苦悩が、不潔な酔いしれるような苦悩が、おれの顔をゆがませた(たぶん、便所の階段へこっそり降りていく二人の娼婦を見かけたからだろう)。そんなおり、きまっておれは吐きたい気分に襲われる。自分が裸になるか、それともおれの渇望する娼婦たちを裸にするかだ。

    ジョルジュ・バタイユ著、生田耕作訳「マダム・エドワルダ」角川書店刊より

 

【第一章 コルセットの女】

 永瀬悟(ながせさとる)はいつものように、WTI 原油先物チャートをスマホでチェックしながら、用賀駅構内で準急電車が来るのを待った。原油価格は昨今、じりじりと下げが拡大しており、この傾向がいつまで続くか、続いた場合に打撃を被るのはどこの国かを予測する必要を感じている。永瀬の記憶では、ここ5年間で原油先物価格が、これほど長期にわたって下がり続けたことはなく、これによって天然ガスの価格や新興国の格付けが大幅に変動する可能性すらある。また、香港で現在進行中の、民主的な選挙を求める運動……いわゆる「雨傘革命」も要注目であろう。目下のところ、「天安門事件の再来になるか、否か」が一番気になるところである。永瀬は香港に赴任している同期がいただろうか、と一瞬記憶を探ったが、すぐに無駄だと気がついてやめた。何しろ証券業界というところは、有能な人材はさっさとアメリカ系グローバル金融会社に移ると相場が決まっている。永瀬は1994年入社組で、その年の新卒は例年の6割くらい……女性の一般職をあわせても200人であった。もっとも、地方の支店の独自採用をあわせれば、100人は増えるであろうが、永瀬は地方の支店に配属になったことがない。

 

永瀬は99年から、2001年の夏まで社命でニューヨークに留学していたので、帰国があと2ヶ月も遅れていたら、9月11日の同時多発テロのために死んでいたかもしれなかった。永瀬のニューヨークの住まいはあのワールドトレードセンターから、徒歩3分の場所であったからだ。もっとも、43歳になった今では、あの時受けたショックやら、悲哀感は薄れつつある。とはいえ、彼の勤務先である殿馬証券グループはあのテロによって2人が亡くなっている。ワールドトレードセンターで保険業界と証券業界のコンベンションがあり、これに「殿馬証券」の若い日本人社員が参加していたのだ。当時の上司が「これは絶対に参加してみっちり勉強しておけ。そうでないと国際金融の表舞台には上がれないぞ」と勧めて、会社の金で参加させたのだ……

(そう、あの時に社員をニューヨークに送った渡邉さんは、今や殿馬証券副社長になった。だがだからといって、渡邉さんを人殺しという奴はいない。当時

の日本人で、米国がいかにイスラム原理主義者に憎悪されているかなんて、知っている人間はいやしないのだから。いや、今も本当はいないのかもしれない)

(日本は善くも悪くも、食うか食われるかの社会ではない……日本には一方的な敗者を作ることを避ける風潮が、薄れたとはいえいささかは残っていて、それ故に効率の悪い企業も、時代に取り残された利権構造も存在し続けた。だが、いまだにそれを温存していては、日本の投資銀行は永久に世界で勝てない。何しろルールが、欧米資本主義が勝つためにあるようなものだし。これは民間でなんとかなることというより、むしろ政治や外交の領域。うちの会社が今年になってから与党に政治献金をしまくっているのは、まさにそれだ)

 

「用賀、用賀でございます。この電車は、7時29分発準急押上行きです。焦らず順序良くお乗りください」

朝の東京の駅では何度も聴かされるアナウンスが流れる中、遠慮がちに乗客の波に体をそわせつつ、左手の親指で別なチャートを開く。ナスダック総合指数である。小刻みな動きを繰り返しながらも、やや下げつつあると確認し、スマホをポケットにしまった。日経平均は通勤途中では見ない主義である。永瀬は右手でつり革につかまり、左手を曲げた右腕に添えた。長身なのでつり革の輪がちょうど顔のところに来て、ともすれば頬に当たるので、輪を掴む方が楽なのである。それにこの体制ならば、痴漢えん罪にあうことはまずない。

永瀬は眼をうっすらと閉じて、意識のなかのぼうっとした欲望が、まとまったカタチをとってゆくのを静かに待った。欲望と言っても、積極性とか攻撃的な性質はない。それはほとんど「こうなればいいな」という夢に近い期待と、その期待が実現化するまでは、浮き世の苛立たしさ、殺伐さをなんとか耐えようとする意志の確認である。

今、殿馬証券株式会社の欧米株専門アナリストであるこの40男の脳髄には、京友禅だろうか、こっくりとした臙脂色にクリーム色の牡丹の花と、萌葱色の葉と水色の流水が描かれたきものが浮かんでいる。ルビーよりもきらびやかで、ワインよりも官能的な、鮮やかなその色彩。ぬめぬめとした絹の光沢は、袖を通したら最後、まとった人を愛おしく切なく抱きしめ続けるであろう。その時、衣装は単なる「衣服」ではなく、着た人間がもはやそれなしではいられないほどの渇望をたぎらせる、強烈な魅惑の塊と化す。

そう簡単には入手できそうにない、見るからに逸品のきものに、永瀬は泣きたくなるほど憧れ、求めていた。彼の中でその臙脂色に牡丹を描いたきものは、江戸を騒がせた「振袖火事」における振袖のごとくに神話的な光を放って君臨

している。

件のきものは、先週の木曜日に永瀬がこの世で唯一人、心を許している女性が見せてくれたものだ。

 

「モン・フレール(フランス語で「兄弟」)、これ、素敵でしょ。今度のドレスは、このきものからリメイクしようと思って。で、解いてしまう前に、あなたにお目にかけようと思ってね……ふふ、やはり昭和時代の染めは、今とは深みが違う。それにこの筆遣い。花のカタチがみんな違う。一つ一つ、作家が手で描いたのだわ」涼やかでありながら、人をくつろがせる甘い声が嬉しげに囁いたが、永瀬はその台詞に反発した。

「いや、それをドレスにするというのは……もったいないわ。だってドレスにしたら柄が、なんというか綺麗に繋がらなくなるでしょ? ワタシにもその程度は分かるわよ」

「モン・フレール、おっしゃることはごもっともだけど、何しろうちはドレスショップなのよ。変装用の衣装と、大人だけど、子供っぽいロリータドレスは着たくないって言うアダルトな女性のためのロリータショップですのよ。呉服屋ではないのです」

「それなんだよね。あなたのお店はどうしてだか、見るからに豪華なアンティークっぽいきものが倉庫にある。そうしてあなたはそれをロリータドレスに見事に作り替えてネットで販売なさるの。手品みたいだわ」

「そうよ。そうして、あなたがそれをお買い上げくださったのよね。いやいや、その節はありがとうございました!まさか、9万5千円のドレスが一週間で売れるとは。そのほかにもたくさんお買い上げいただいて」

からかわないでよ、と永瀬は弱々しく言い返す。彼女の前では永瀬は他愛のない若造であり、またそのことを、彼女が嬉しがっているのが感じられる。

しかし、それに甘んじるのもどうか、と思っているのだ。男の意地といえばそれまでだが、多少はプライドを示したい。

 

「粧子(しょうこ)様は洋服デザイナーなんだよね? どういう魔法で、ここのお店に、素晴らしいきものが集まってくるのかしら? あなたが昔は宝塚の娘役だったのは知っているがそれだけでは理由にならない」

「そんなことを知ってどうなさるの」

「いや、純粋に知的好奇心ですよ」

「ではこちらも、純粋に企業秘密です」

「やだなあ、どう考えたって僕が、あなたの商売敵になるわけないでしょう」

この会話を交わしている間じゅう彼女はあたかも、子供をあやす母親のような慈愛の微笑みをうかべてテーブルの上のきものを元通りにたたんでいる。

 

彼女の名前は、藤井粧子(ふじいしょうこ)という。変装願望のある大人のためのドレスショップ「月宮殿(げっきゅうでん)」のオーナー兼デザイナーである。艶やかな髪を上手にアップに結い上げ、女学生じみた白の禁欲的な雰囲気のスタンドカラーのブラウスに、パニエでふくらませた黒のチュールレースのスカートをまとい、足元は、小さい百合の花が散らしてあるベージュのタイツである。概して成熟した女性が、ロリータファッションをやろうものなら、ほとんど仮装行列めいた見世物感が漂うのだが、見事に自分の装いにしているのは当人が自分の作り出す印象をよく知っているからだろう。そのすらりとした上背には、たしかにきものよりはドレスが向いている。細面の輪郭、立体的な高い鼻、伸びやかな長いうなじには、往年の名バレリーナとでもいいたい貴族的なデカダンスな香りが立ちこめていた。

永瀬は彼女の前に来ると、このひとが最大の「月宮殿」の広告塔だなと、ほとほと感心せずにはいられない。

 

粧子は、白と黒の装いの中に一点、ウエストに幅広の生成り色のスエード製ベルトを締めているが、これは実はベルトではない。

ウエディングドレスのような非日常のドレスを着る際に用いる、かっちりとした布で出来ている「コルセット」である。背面は前よりも幅が広く、背中をカバーする。縦方向に穴が幾つも開いていて編み上げの紐を通す。紐をぎゅっと締めることでウエストがきっちりとくびれるという寸法だ。

彼女はこの種のコルセット(専門用語ではファンレーシングと呼ぶらしい)を色違いで幾つも持っており、その日の気分で着用するのだが、彼女の特異なところは、それを「服の下」ではなく、ブラウスやスカートの上につけて、ファッションの一部にしているところであった。永瀬は、初めて彼女と会った際に、このひとは腰にトラブルでもあって、医療用の胴衣をつけているのかと思ったが、ふと後ろを向いた際に胴衣の紐が、5色をよりあわせた美麗なシルクの紐であったので、お洒落用のものか、と気づいて眼を丸くした記憶がある。

 

それ以来プロモーションムービーなどで、女性がコルセットをつけて登場すると眼を凝らして見るようになり、今更ながらに、女性の肉体美とは素晴らしい、
深良マユミ
作家:深良マユミ
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