(2)
夏が過ぎた頃、北川氏の姿が見えなくなった。畑仕事は妻だけでしている。エスはやっと彼女と挨拶をしたが、敬遠されているのが感じられた。姿は見えないが自宅療養中という感じがあった。卒中か癌か、エスはふと北川氏の目を思い出そうとして果たせず感じだけを思い出した。氏の服の趣味がとてもいいと自分が思っていたのを思い出した。それ以外に、エスの私生活が北川氏のほうからは水回りすべて感じ取れる、ということも。
何が起こるわけじゃなし、細君ががっちり彼を護っているわけだし。エスは少し気にしていた。ただそれだけのことだ。
それから急に情勢が進展した。北川氏はやはり閉じ込められていて、精神的虐待を妻から受けていたのだが、ついに彼女を傷つけて脱出を図ったのだという。救急車がきたのは知っていたが、エスはずっとあとになって事情を聞いた。
鈴木氏が西山氏を殴ったのは間もなくだった。ちょっとした言葉の行き違いからかっとなりやすい鈴木氏が激高し、只でさえ弱い西山氏をかなり傷つけたそうだ。
夫婦喧嘩の続いていた東側では、東田氏が妻から追い出され施設に入った。
エスは、こんなことになってゆくのをあれよあれよ、と眺めていたが、心のうちでは、自らの存在が発端となって徐々に男たちを突き動かし、家庭がなにかしら壊れていったのではないかと、感じていた。ここに転居したこと、北川氏の手に触れたことも偶然であったのに重大な変化を招いたかのように。
そして、夜になると、雨戸がコツコツと叩かれる音がするような気がした。誰かわかるはずもない。雨戸の外に誰かの息づかいが聞こえるような気がした。夫がいない心細さが彼女の首をしめていくような気がした。
その夜も、だれかのノックを、だれかが肩に触れ、揺するのを目をしっかり瞑って拒否していた。苦しくなった。これも幻なのだと。
(3)
苦しさのあまり、力一杯体を揺すった。何かがエスの上から転げ落ちた。声を聞くと死んだ筈の夫エフだった。立ち上がった夫の口が動いていたが、言葉が、外国語でもあるかのように、理解できなかった。
が、あっとわかった。死んだのはエスの前の夫だった。いや、実はまだ生きているが、さっきまで亡夫と自分がみなしていたのはその前夫であったことがわかった。とすればすべてが夢であったのは確かだ。とんでもない時間の錯誤、猥雑でいい加減な夢であった。
エスの目の前に立っているのは再婚した現在の夫、エフだ。
すでに銀婚はすぎていたが、ほとんどの時間を争いで過ごした。エフはその時も口角泡を飛ばして、という場合とは違うとしてもそんな感じで、まさにエスを罵っていた。
何をそんなにいかっているのかしら、エスにはすでに彼をいなす術が身に付いているので焦らずゆっくりと思いを巡らせる。何故彼は私の上にいたのだろう、だって確か彼は私の上から転げ落ちたのだもの。ああ、そこは夢にすぎなかったのかしら。
よく聞いていると、エスがエフを裏切っていると主張している。
しまった、彼は薬を飲み忘れている。時々忘れるのだが、今日もたまたま忘れたに違いない。緑色のアルミだ、本来は別の症状のための薬だったが(忘れた)、思いもかけず癲癇にも効くことが分かったその薬を、三日も飲まずに入るとエフは極めて懐疑的になる、本来懐疑的なのだがそれが度を超してしまう。最近物忘れが酷いにも関わらず、そんなことを恐ろしい速さでエスは考えていた。
ひょっとしてエフは私を絞め殺そうとしたのかしら。「私の裏切り」を白状させようとしたのかしら。
そんな裏切りは決してしていないといっても、否定には耳を貸さず、自分を発狂させる言葉のみを待って、恐れながら待って、強要して。何故なら「人生はいつも自分の予想を超えて残酷だから」なんて、思い込みを正当化しようとして。自虐をめざし、殺人を正当化する? そんな夫だったのかもしれない。
エスははじめて徐々に先の夢から恐怖の中にめざめ、エフを見詰めた。息子のためにも最悪の事態を招きたくなかった。何度こんな事態を回避したことだろう、うっかりエフの罠に嵌ることを避けて。偶然にうまくいったのかもしれなかったが、それなりにその熟練に達しているはずだが、薬を忘れているのなら、もうどうしたらいいのかわからない、エスは身構えた。
偶然にも、そんなエスは非常に攻撃的に見えたらしい。絶望のあまり恐ろしい眼をしていたらしい。
「なんて眼でおれをにらむんだ、俺を殺そうと思っているのかっ」
エフはもう一段、逃げられない恐怖の階段を上がってしまった。
もう始まってしまった。エフが激高してエスにつかみかかろうと、多分したその時、
「なんで俺をいつも苦しめ、、」と言った時、彼の言葉が止まった。発話だけを制御しているーー脳がダウンしたのだ。
このあと強硬までいくか、身体のどこかが勝手に動くか、気を失うか、弱っている心臓が止まるか、そのいずれかが偶然の必然であった。どれもエスには見るに堪え難い症状である。見るだに恐怖、恐怖だった。エスはその予想のために叫び出した。エスのほうが恐ろしく見えたかもしれない。
エフはヒクヒク、と音を発しながら、両手を下に押すようにして何かを表現しようとしている。エスは恐怖映画の女優よろしく、顔をひきつらせヒステリー症状になっていた。そのせいでエフの心の回路が変化したのだろうか。いつも沈着なエスが我を忘れ、パニックになっているので。
五分ほどして偶然に桎梏を説かれ、不意にエフは喋り出した。
「そんなに怖がらないでいい」
そう言った時、エフは別人だった。
「別に息ができないわけでもない、なんでも意識している、喋れないだけだ。さあ、お出で」
エフは絶えて無いような優しさで、エスを並んで横たわらせた。
「心配しないでいい、薬は飲んだ、そのうち効くからね。発作が起こっても俺の眼を見て、微笑んでいてくれたらいいんだ。安心して」
その後数回、発作が起きたが、エスは何も言えないエフの腕の中で、視線のみで励まし続けた。本当に微笑みを与え続けた。
何度目かに偶然に喋れるようになると、エフはこう説明した。
「頭の中に、無数の兵士が並んでいるんだ。彼らはぞくぞくとやってくる。みな骸骨の顔をしている。とくに岩陰には悪魔がいるんだ。そいつは俺がちょっと注意散漫になると飛び出てくる、俺を占領しようとする。意識を集中してそいつの出現を阻止する。岩陰に押し戻すんだ」
「ど、どんな風に?」
「瞑想だ。座禅の呼吸法だ。意識をここから広げていく、日本から、地球から、太陽系から、さらに遠くまで広く大きく、自分の存在を薄めていくんだ、多分できる。とてもいい気分だ。宇宙と一体なんだ」
「そんなことができるの?」
「もちろんだ、俺は宇宙そのものになる、素晴らしい気分だ、不安なんか無い」
「ええっ、不安が無くなる?」
エフがエスを見返す視線には、本当に別の人格が宿っている、この人は今まで私を騙していたんだ、こんな素晴らしい人物なのにどうしてそれを見せてくれなかったのか、とエスは呆れてしまった。
今こそ、尊敬できる大切な夫となった。エスはしっかりエフの腕にかじりついた、仕合せに包まれた、素晴らしいエフ! 愛する尊敬するエフ!