イエスの真実  5

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はじめに( 1 / 3 )

 

 

          は じ め に

 

 

    『 新約 』 にも拠(よ)れば、イエスの立ち行くところ信者に溢(あふ)れ、その信望ゆえに救いを求める者の後を絶たず、その都度(つど)立ち所にも奇跡を為(な)しては、その評判の専(もっぱ)らの噂ともなって、およそ行く先々で知らない者の無いかにさえ、いかにも仰々(ぎょうぎょう)しく語られてもならないのですが ・・・

 

    はたして、その実際はどうだったのでしょうか?

 

    と云(い)うのも、それこその、どうにも大言壮語(たいげんそうご)のさながらに、甚(はなは)だしくも疑われてならないからに他なりません。

 

    なぜなら、そうした記述に、なぜか実際の史実こそが、いっこう状況証拠として、伴(ともな)われずにいるその不自然さの、どうにも奇妙この上なく、思われてもならないからに他なりません。

 

    まず、そのそもそもの何かといえば、かつてない神の子として生まれた、まさに前代未聞(ぜんだいみもん)の、彼を措いて他にない奇跡的稀有(けう)な出生の、そのあまりのセンセ-ショナルぶりにもかかわらず、その実、早くして亡(な)くなった父親の、あとを継(つ)いでの大工を生業(なりわい)に、母と弟たちを養わずにも措(お)かれなかった、その不遇(ふぐう)とも想われる生い立ちの、どうにも相応(ふさわ)しからぬ、大いなる現実とのギャップこそが、何より指摘(してき)されずに措かれません!

 

    そして、本来自(みずか)らの教えたるを、施洗者ヨハネを師ともして先導されたのか、その順序が逆の不可解にも加えて、何故(なにゆえ)そもそもイエス自ら受洗が必要とされたのか、その理由すらの解せないばかりか、その後をして初めてにも、改めて神の子イエスに立ち還(かえ)りでもしたかのような、その行状の不可思議さといい、まさに現実離(ばな)れのそのものにも思われてなりません。

 

    はたして、それもこれも、すべてが全て聖書が語る通りにも、神の定めによるものなのだからでしょうか!?

はじめに( 2 / 3 )

 

  

    さらには、その後に続くあまりの豹変(ひょうへん)振(ぶ)りたるや、どうにも信じ難いばかりにも、悩(なや)ましくも疑わしく想われてなりません!

 

    なるほど、神の子ならではの、本領発揮(ほんりょうはっき)かと想われつつも、聖書の記述ほどには、なぜか現実感の伴われない、言葉ばかりが舞(ま)い上がっては躍(おど)っている、あたかも空中陸離(くうちゅうりくり)たる現実離れの、所詮(しょせん)はフィクションかとまで訝(いぶか)られる、そんな空々(そらぞら)しささえの、否(いな)めない有り様にも違いないのです。

 

     さて、その信憑性(しんぴょうせい)たるや、はたしてどの程度のものなのでしょうか?

 

     イエスが、間違いなく 『 旧約 』 に予言された最後の預言者なら、なぜ態々(わざわざ) 『 新約 』 などに、そもそも敢(あ)えて改められなければならなかったのでしょうか!?

 

     敢えて 『 旧約 』 などと蔑(さげす)むことなく、『 聖書 』 のままにも引き継(つ)がれ、新たな章として付け加えられもすれば、それで済んだことでもありましょうに!

 

     ところが、どういう訳(わけ)かそうは為されなかったのです。

 

     いや、実際のところ、そうは出来なかったと解されるべきでありましょう。

 

     なぜなら、キリスト教こそが、『 旧約 』 と蔑(さげす)む、聖書本来の教えに基づくユダヤ教は、もとより 『 旧約 』 とされるそれ自体を、当然ながらに認めないばかりか、最後の預言者たるイエスの聖性すらを、断固(だんこ)否定して已(や)まないのですから!

 

      さては、生前のイエス自身、『 聖書 』 に学び、その教えを篤(あつ)く信仰もした、生粋(きっすい)のユダヤ人にしてユダヤ教徒でありながら、『 新約 』 に語られる、いかにも神の子さながらの行ないさえ、その地その時代の同胞に、実のところは一向認知されていなかった、それこその嘘偽(うそいつわ)りも紛(まぎ)れも無い、本来史実として残されるべき、正当な実際の現実だったのではないでしょうか?

 

     

 

はじめに( 3 / 3 )

 

 

    はたして、『 聖書 』 を敢えても分断せずには措かれなかった、その聖書間の、異種の接(つ)ぎ木さながらの隔絶(かくぜつ)たるや、一体何を意味するものでもあるのでしょうか?

 

    そして、また、どちらこそが、本来正しくもあるのでしょうか?

 

     さては、その両者間の、いかにも不連続にして、顕(あきら)かに齟齬(そご)を来たすことともなった、そのどうにも悩ましい謂(いわ)れにして経緯(けいい)こそに、大いなる謎が秘められているにも違いありません。

 

    ならば、当然それこその、納得の行くまで徹底的にも糺(ただ)されて、知りうる限りにも詳細(しょうさい)に、解き明かさずに措かれましょうか?

 

 

 

 

 

 

 

                      

                      

 

                       著 者      主 代 宗 元

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作家:主代 宗元
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