芸術の監獄 ジャン・バラケ(前編)

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ジャン・バラケ(前編)

私は、ジャン・バラケの音楽が特別大好きというわけではない。しかしバラケが残した楽曲(それはたった7曲しかない)は、一度聴けば「え? 」と人を驚かせ、二度聴けばその壮大さと、不安定さと、焼け付くような感情のほとばしりで聴くものを「彼方」へ誘う。

 

彼の出世作である「Sonate pour piano ピアノソナタ」は、テンポの速い前半と遅い後半の二部構成からなっているが、旋律というものが、できては消えて、現れるととたんに「ぷつっ」と沈黙し、そうかと思うと岩を掘削するような勢いで低音が「がががが」と鳴り渡り、またもやしーんと黙りかえって、聴く方が限りなく居心地が悪くなる。終結の部分では、鍵盤音はもはや途切れるために鳴らされている。音響と沈黙が交互にくるのが、死にゆく人の喘ぎのように聞こえて仕方がない。ともかく音楽と言うよりは悲劇が上演されているような、そんな思いに駆られることは確かである。

 

…などと、そんな書き方をして良いのだろうか。「ジャン・バラケは難解なのです!」と宣伝しているようなものではないか。いいのです。実際難解なのだから仕方がない。「哲学的」というのが正しいかもしれない。この場合の「哲学」とは最近日本で受けている「何のために人は生きるのか」「個人と社会との関係性は、どう構築するべきか」といった、実用書っぽいモノではあり得ない。もっと「絶対的な何か」を探求し、「おのれとは何か」をあらゆる角度から見つめ続ける、そういう孤独な戦いにも似た思考である。作曲家として世に立って以来、バラケは「絶対的な何か」にとりつかれ、それを顕現する方策としての音楽だけをめざし続けた。とはいえ、「絶対的な何か」が何であるかは彼の中では答えが出ていた。以下は、1969年に行われた雑誌のインタビューでの彼の言葉である。

 

「私にとって音楽とは全てなのです。音楽とはドラマであり、情感であり、死である。完全な戯れであり、自殺にいたるわななきである。音楽がそうしたものでないなら、限界に達する超越でないなら、音楽とは何ものでもないのです。」いまこのような台詞を本気で話す芸術家が、果たしているのだろうか?

 

恐らくバラケは、音楽が「完全な戯れであり、自殺に至るわななき」でありながら、その「音楽」を作り続けるには、戯れどころか、くそまじめにとぼとぼと生の営みを続ける、そのことに絶えず焦燥を感じていたに違いない。

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芸術家の中には、大らかに「生命それ自体が芸術作品」と信じる人も当然いるが、バラケには無縁の境地だった。彼は1973年に45歳でこの世を去る。死因は、アルコール中毒による合併症。

 

私は、バラケの生涯が格別悲劇的なものだったとは思わない。もっと若くして死んだ芸術家はほかにもいるのだ。「若い頃は天才とうたわれていたのに晩年は誰からも忘れられていた」だの、「交通事故にあったり(1964年)火事にあったり(1970年)、アル中になったり、おまけに同性愛者。まさに呪われた音楽家」だのと、暗黒の装飾で彼のことを飾りたくない。彼が寡作だったのは、あまりにも自作への要求が高かったためと、あるいは「若い頃は天才とうたわれていた」誇りがあったのかもしれない。「駄作を世に出すくらいなら、過去の人になるほうがまし」と。

 

バラケの作品数が少ないのは、彼がある文学作品に傾倒し、その550ページにも及ぶ長編小説を元にした叙事詩オペラを書こうと決意したことによる。それは1955年のことで、以来バラケは、この「ウェルギリウスの死」(ヘルマン・ブロッホ著、仏語訳はアルベール・コーン)が頭を離れなくなる。ローマ最大の詩人、ウェルギリウスの生涯最後の日を描いたもので、ウェルギリウスは自らの作品に疑いと絶望を抱き、「いっそ焼いてしまおうか」と独白する。

情熱と知恵の限りを尽くして書いた詩が、「やがて自分は死ぬ」との観念と心の高ぶりの前では、無価値で軽率なコトバと化してしまったのだ。

 

しかしながら、詩人は、作品を焼いたとて、コトバと永久に結びついている自身の姿を見ないわけには行かず、「作品を焼いてくれ」という表明もまたコトバである。かくして詩人は「死に向かって」自分の真実の「詩」を今度こそ書かねば!と寄せては返す波のごとくに、独白を続ける。生の終局。そこに人は、終わりを夢見ることの強烈な幻惑を見るかもしれない。

 

作者ブロッホはユダヤ人だった。オーストリアで投獄された経験もある(1938年3月)。迫りくる戦争と、西洋文明の歴史的終焉のイメージ、虐殺の犠牲者たちの墓、そういったものがこの長大な叙事詩の底に流れている。

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何という物語に魅了されてしまったのだろう!

 

もしも構想通りに完成していれば、そのオペラはワーグナーの「指環」並みの規模となったであろうが、彼が完成させたのは、結局4曲だけであった。「Le temps resutitue 呼び戻された時間」、「…au dela du hazard …偶然の彼方に」、「Chant après chant 歌に次ぐ歌」、「Concerto コンチェルト」である。

 

「ピアノソナタ」と違って多種類の楽器で奏されるから、華麗ではあるが取っつきにくさは変わらない。バラケの曲では、打楽器は規則正しく拍子を刻んでくれる代わりに、「ぐごごご」と雷鳴のごとくにクレッシェンドを轟かしたり、「ちりんちりん、かんかん」と鳴っていたり、ピアノと連弾したりしている。そしてそれは、おごそかな女声合唱と相まって、ギリシアやローマの神殿に今、自分がいるような気分にひたれるのだ。上演されているのはギリシア悲劇で、人物はみんな、白いふわふわのトーガを着て役を演じている。永遠に彼らは泣いたり、笑ったり、激高したり、生き死にを繰り返す…

 

冒頭で「彼の音楽を特別好きなわけではない」と書いたのだが、どうやらそれは訂正する必要がありそうだ。私は彼の音楽が好きだし(でも、毎日は聴きません。疲れるから)、「偏屈で人付き合いが下手だった」とか、「12歳の時、学校でシューベルトの曲をレコードで聴いて、感動してその脚でレコード店に走って「何でもいいからシューベルトをください」と言って買った」という挿話には妙に感動してしまう。バラケが12歳の時といえば、1940年。その年にフランスは、ナチスの猛攻にあっさりとパリを明け渡し、国民はそれから4年間、戦闘はないが自由もない、自尊心を押さえられた生活を余儀なくされる。

次回は、バラケが野心を抱いて音楽に取り組んだ時代、1950年代のパリの芸術家たちについて話します。

(続く)


追記1:表紙は1998年(バラケの死後25周年)に世に出たCD「Jean Barraque OEuvres completes」のジャケットです。日本のお店では取り扱いがないため、私はアメリカアマゾンでこのCDを買いました。絵はゴッホの作品「麦畑の上を飛ぶ烏」です。



深良マユミ
芸術の監獄 ジャン・バラケ(前編)
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